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伊予松山城 天守内部を観る

2021年09月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

伊予松山初代藩主、加藤嘉明が築城した5層の偉観を誇った天守を、第3代藩主、松平定行は、天守改築を幕府に願い出て、寛永16年(1639)7月13日に許可が下り3年後の同19年(1642)3層の天守に改築完成した。
改築の理由は、天守山頂部が谷を埋め立てた所に当り、建造物の保存上の安全を期するためであったと資料にある。

落雷による天守群焼失。

天明4年(1784)1月元旦真夜中に天守に落雷があり、そのため本壇をはじめ本丸を焼失、この時の藩主は、松平定国で、徳川御三卿の一つ、田安宗武の次男が養嗣子として伊予松山、第9代藩主として継承していた。
定国は、落雷の事につき使者を江戸に送り、その旨幕府に報告、幕府から定国に対し参勤の時期を同年9月に延期するように伝えられた。
そして同年6月29日に本丸城郭復興計画を幕府に請願しその許可を受けた。

その後諸事情で天守復興はままならず、嘉永5年(1852)12月20日、層塔型天守をはじめ本丸城郭全部が完成し翌々年の安政元年2月8日盛大に落成式が行われた。
天明の落雷で焼失してから71年の歳月が経っていた。
これが現在の松山城天守で、江戸時代に創建された一番新しい天守である。

注1:松山藩主、第9代松平定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武の次男である。定国の弟は、松平定信であって、陸奥白河藩主、後に江戸幕府老中となり寛政の大改革断行した政治家である。

それでは、江戸時代最後に築城された天守に入りましょう。

小天守からみた日本三大連立式天守(姫路城・和歌山城・松山城)日本の本壇造りで一番整備が整っている天守です。
お城愛好者はこの風景を見学に松山城を訪れるのです。

天守を見学する順路が決められているのでそれに従い鑑賞して下さい。

本壇中庭、西南方向隅から見た天守で、右の城門が筋鉄門・天守左が、内門その左が玄関多聞櫓・玄関です。

玄関の懸魚に徳川家の家紋「三ツ葉葵」が施されている。

それでは、天守に入りましょう。
扉の上に見える石材、楣石(まぐさいし)で重さ6トンの花崗岩が5本並列して用いられている。地下一階の米蔵の出入口を支える石です。
観光に来られた方々は殆ど気が付かずに入られますが、お越しになった時はぜひご覧ください。
こんな重い石をどんなにして運んだのでしょうか。?
花崗岩の楣石一個の長さは、3,6m、断面が0,8X0,75mで専門家が計算すると約6トンであろうと数値を出しています。

天守台の石垣は二重構造で、外側は花崗岩で、切込み接ぎ工法、内側の石は米蔵であることを配慮して、湿度調整が出来る安山岩を用い切込み接ぎ工法で、外からの害虫を阻止しています。

大きな部材が目につきますが、全て楠木材で抗菌効果を利用し防虫の意味で使用されています。

そして床には、素焼きの瓦が敷き詰められています。これも米が嫌う湿度調整を図るものであります。

入口には鉄板張りの扉が取り付けてあります。
当時の職人さんは適材適所に必要な部材を用いて建築しています。

 

注1:「楣石・まぐさいし」とは、水平に渡した構造を指し、上部の重量を支える役目を持つ石のことです。

地下一階(米蔵)。

奥の石垣が、湿度調整が出来る安山岩で、切込み接ぎ工法です。

木材は、全て楠木で抗菌効果を利用し防虫の意味で使用されています。

床は、素焼きの瓦が敷き詰められています。米が嫌う湿度調整を図るものです。

地下一階。

石垣の手前の箱は、下駄箱で松山城は土足で上がれないので靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて上がります。

現在は、コロナが蔓延しておりスリッパの利用は中止しています。素足で上がって頂いております。

注:現存12天守で弘前城は土足で上がれます。それ以外の11天守は禁止です。素足で上がるのが抵抗を感じる方は「マイスリッパ」を持参されたらいいと思います。

現存12天守の階段は何処も急勾配なので気をつけて上がり下りされて下さい。

玄関多聞櫓からみた玄関内側です。奥に見えるのは中庭です。

玄関多門櫓に接続しているのが「北隅櫓」そして「十間廊下」です。

北隅櫓は現在コロナが蔓延防止の為閲覧禁止中です。
画像は十間廊下に展示している「刀剣・甲冑類」です。

槍が展示してあります。

槍の達人の一人が「新選組隊士・10番隊組長・原田左之助が有名で、左之助は伊予松山藩士で、脱藩して新選組に入隊しました。流派は、種田流で松山藩の槍術の流派です。
晩年中国大陸に渡り馬賊の頭目になり、言葉は伊予弁であったそうです。日清・日露戦争のとき、秋山好古率いる騎兵隊に支援したとの逸話があります。

注:松山藩の剣術流派は、新当橋本流・直心影流長沼派・新陰柳生流・大三輪流である。

南隅櫓の一階を通り、小天守一階には「長持」が展示してあります。

長持には二つの家紋が描かれています。

小天守に展示されている長持ちで、右に三つ葉葵、左に久松家(菅原家)の星梅鉢家紋が描かれています。

長持は、参勤交代で江戸に行くとき、国元に帰るとき何時も三ツ葉葵が江戸に向くようあしらわれています。

注:伊予松山三代城主、松平定行の父は、定勝で母は伝通院(於大の方)伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ家康を生みました。

定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男、定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行です。

定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号並びに三つ葵紋を賜い明治維新まで松平姓を名乗りました。

維新以降、新政府の指示に従い本姓である久松姓に戻しました。

久松家については

延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流されました。道真の死後宇多上皇は、無実であったとして許し、遺族を京都に戻しました。道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰りましたが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になりました。この雅規の幼名が「久松丸」であり雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりです。

次に展示されているのは、武士の似顔絵です。
平成16年10月から平成18年11月の間に松山城天守は平成の大修復保存工事が行われました。

その時天守の壁から武士の似顔絵や武士の姿を真上からみた姿を板に描かれた絵が発見されました。

これは当時携わった宮大工さんが休憩時に描いたのではないかと言われNHKは全国放送で報道された貴重なもので、松山市は大切に保存し展示しています。

小天守二階の棟に取り付けてある「奉上棟 松山城小天守 札」です。

松山城本丸建造物復元工事は、本丸の「馬具櫓」を最初に復元され、次いで本壇の小天守と9棟の建物が復元されました。

画像は、小天守お上棟式に掲げられた棟札です。

昭和42年10月15日・松山市長 宇都宮孝平と揮毫されています。

現在は、コロナ蔓延防止のため小天守二階は見学できませんが、解禁になれば是非ご覧ください。

本壇の城郭が復元され落成式が盛大に行われました。これが現在開催されている松山お城まつり(松山春まつり)の始まりです。

小天守二階です。

二之丸・三之丸がよく見えます。

小天守から見た二之丸御殿跡と、三之丸で、三之丸に現存する施設建物は「愛媛県立図書館・県立美術館・松山市民会館・NHK松山放送局(NHK四国地方拠点局)」の施設があります。

 

小天守二階東の窓から見た本壇入り口です。

一番右端の建物が切符販売所で、真ん中の城門が「一ノ門」です。

寄手を防御する手配がよく伺えます。

画像は、天守二階で本壇復元工事の様子をCD画像で上映していましたが、最近は他の映像設備を完備されています。

天守二階から最上階に上がる最後の階段です。

天守三階最上階です。

標高160mあり東西南北の眺望は抜群です。

天候が良ければ、北方向に瀬戸内海を望み、その奥には本州の広島県呉市川尻町の野呂山839mが眺望出来ます。

全国の三層三階建天守の中で各階の床面積は松山城天守が一番広いです。それは元五層の天守台に三層の天守に改築したからです。

床には畳が敷ける仕様となっており、天井仕様となっています。

全国の城の中でも床の間を有する天守は数少ないです。
毎年12月末に一日だけ本壇を休業して、年末大掃除を行い新年を迎えています。

床の間には注連縄を飾り付けます。

天守最上階には「床の間」があり、注連縄を飾りお供え物を献上し今年無事終える事

が出来た感謝の礼と、新たな年も無事故でお客様をお迎え出来る事を祈願します。

松山城管理事務所の代表が新たな年も無事故でお客様をお迎え出来る事を祈願します。

天守最上階からの眺望で、加藤嘉明が築城するとき第一番候補地とした天山を望み、奥の山並みは四国山地で土佐方向です。

春や昔 十五万石の 城下哉・・子規

西日本最高峰「石鎚山・1982m」を背景に松山城を撮りました。

此の風景は一年の内数回しか無い風景です。

令和3年9月12日迄、新型コロナ感染拡大防止のため臨時休業していましたが引き続き臨時休業が延期になりました。休業予定は9月26日迄となるでしょう。

画像の掲示板は、新型コロナ感染拡大防止のため臨時休業する前の案内板です。

臨時休業が解禁されると、またこの案内板が掲示されるでしょう。

早くコロナが収束し安心安全な以前のような日常生活に戻るよう祈念します。

 

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