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重要文化財・伊予松山城を探索する その1

2021年08月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山市のシンボル・松山城を色んな角度から探索してみましょう。

現在の松山の基礎築いた初代伊予松山藩主加藤嘉明は、賤ケ岳の戦いの七本槍の一人、文禄の役(1592年)の戦功により豊臣秀吉から伊予国正木(松前)城主6万石を拝領した。

関ヶ原の戦いでは東軍の武将として参戦武勲をあげ徳川家康から伊予国の半分20万石を与えられた。後の半分20万石は藤堂高虎に与え高虎は今治城を築城した。

松山城本壇の天守は三層で小さいが何故か美しさを感じると観光に来たから言われる。

松山城大手門跡から見た風景で手前に見える太鼓櫓、その奥に天守を望む景色、俳優で画家の榎木孝明さんが一番お勧めの松山城です。

さて

松山俚人談によると、嘉明は、松山城築城の位置を3ヶ所の候補地を選び家康に許可願いを上申した。
当時家康は築城候補地の2番候補地に許可が下りていたので、嘉明は築城したい勝山を2番候補地にした。1番候補地が「天山」3番候補地に「御幸寺山」であった。

結果は、2番候補地「勝山」に築城許可が下りたとの説話がありこの伝説はひろく世に知られているが歴史上の根拠は発見されていない。

慶長7年(1602年)正月15日の吉日に勝山にあった神社を移転し、築城の工を起こした。

同8年10月、嘉明は家臣と住民とともに居を新城下に移し、この地を「松山」と言う名称が公にされた。これが現在の松山の誕生である。

第1番 松山城築城候補地の天山。(奈良県橿原市南浦町の天香久山と姉妹の山)

撮影は、天守最上階から。

第2番 松山城築城候補地の勝山。(撮影は、淡路ヶ峠展望デッキから)

第3番 松山城築城候補地の御幸寺山。(撮影は、天守最上階から)

松山城築城候補地、三候補地の位置関係。撮影は、淡路ヶ峠展望デッキから。

松山城は、短時間に完成したわけでなく松山城が完成するのは26年の歳月がかかった。その期間築城に要する費用は藩民からの年貢の取り立てで賄い、高い年貢の取り立てで藩民の生活は苦しかった。

嘉明は完成1年前寛永4年(1627年)に会津若松に40万石で転封、2代目城主は、出羽国の上丿山城主であった蒲生忠知が24万石で松山藩主に任じられ入城、忠知は有名な蒲生氏郷の孫である。

寛永11年(1634年)8月忠知は参勤交代の途中、京都で病死、忠知には子供がなく蒲生家は断絶、在城すること7年4ヶ月であった。松山城は、蒲生忠知時代に完成した。

忠知は、年貢の取り立てが高く質素な生活をしていた農民から、馬の飼料に必要な稲わら等々を買い上げ農民の生活の糧になるよう配慮した優しい藩主であった。

城主を失った松山城は、幕府の命令により大洲藩主の加藤泰興に預けることとした。その間11ヶ月であった。

現在の松山城天守は三層層塔型であるが、松平定行が改築した。それまでは五層望楼型であった。三層に改築してから天明4年(1784年)落雷で焼失し70年間天守はなかった。

現在の天守は、安政元年(1854年)2月8日に復興した天守である。

寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主の松平定行が松山藩主15万石に封じられた。定行は徳川家康の甥にあたり、松山藩は親藩となり、松平氏(久松)は15代、233年続いた。現当主・久松定智氏は、19代である。

定行は天守を始めとする建造物の改修を幕府に願い出て、寛永16年(1635年)五層の天守を三層に改築した。その理由は天守ほか建造物の保存上の安全を期するためであったと記述にある。

昭和8年7月9日、放火により本壇の小天守・多門櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門が消失した。

五層時代の松山城鳥瞰復元図で、ニ之丸が完成しているから2代目藩主、蒲生忠知時代の復元図である。

第3代松山城主、松平定行は、三層の天守に改築した。

松平定行は徳川家康の甥で定行の父である久松定勝は徳川家康の異父同母弟で、母は、於大の方、晩年の伝通院である。水野家から松平広忠に嫁ぎ竹千代(家康)を出産、その後ある事情で離縁され、再婚したのが久松俊勝、その子が定勝で第3代松山城主、松平定行の父である。

定勝が病気で床に伏せる身となった時、第2代将軍秀忠から「35万石を与える」とのお墨付きが届いた。

定勝は、「ありがとうございます。今までに沢山頂きました。もはや、寝ている身なので畳1枚のほか何もいりません」と辞退した。その後第3代将軍家光から、定勝の子、定行に伊予松山15万石、定綱に桑名14万石、定房に今治4万石、定政に苅屋2万石を賜った。

その時、家光は定房に対し今治から兄、定行を補佐するようにと命じられたそうです。

この時藤堂高虎が築城した天守は解体されなかった。高虎は、幕府の命令で津藩主に転封の際に解体した天守を家康に寄進、家康は丹波亀山城天守として再建した。天守の形態は、層塔型であった。

本壇にある城郭の瓦には「三ツ葉葵」の家紋が掲げられている。

徳川家康は、久松定行が桑名藩城主時代、松平氏を名乗り家紋を三ツ葉葵にとの指示で以後明治維新まで松平を名乗り、維新以後新政府の指示で旧姓の久松に複姓し、家紋も星梅鉢に帰した。

久松の祖は、菅原道真でその子供の1人に菅原久松丸がいた。久松丸は、菅原姓を名乗らず、久松を名乗りこれが久松の始まりである。そして14代後の久松俊勝が妻に迎えたのが於大の方(伝通院)でその子が久松定行(松平定行)である。

松山本壇の表鬼門を守護する天神櫓があるが、この櫓は天守の表鬼門を守護するもので、櫓内部には菅原道真を祀る社が創られている。

天神櫓内部で、社の造りは小さいがしっかり表鬼門を守り、菅原道真は、嗣子の繁栄と松山の未来永劫を護っている。社に使われている神前幕には、菅原道真の星梅鉢の紋が付けられている。

         

              久松・松平家の家系図。

文久4年(1864年)、第13代藩主・松平勝成時代の松山城古図である。

歴代の藩主の名に「定」が付くのであるが、12代と13代には定が付けられていない。

この時代の第13代将軍が徳川家定であったので遠慮して定の字を外し、12代を松平勝善に13代に松平勝成とした。

第14代から定が復活し、松平定昭となる。

現在の当主は第19代久松定智である。

注:伊予松山藩主は、第3代目から松平氏になるが、明治新政府は伊予松山の松平氏に対し本姓に服すよう指示があり、指示の翌日に久松氏に帰した。

松山城三之丸から見た松山城。

金子某書留の一文に寛永12年(1635年)9月6日、伊勢国桑名城主の松平定行が入部し、馬に乗って城下町を巡見した時の記録が伝えられている。

それによると「家中の屋敷は極めて質朴で、家屋も杉葺・藁葺のものが多く、表側の囲は篠を用い、掛塀はほとんど見受けられない。さらに家屋の構造を見ると、物見連子の類も篠囲を切り抜き、又掛塀の下地を塗り残し、格子など付けてるはなし、組家町家杯も道筋至て不同にして、離れ離れに建ったるもの也」武士たちは納戸茶染の木綿を着用し、町人・百姓はみな浅黄紺色の衣服を着用している。・・との記述がある。

松山藩は城が大きすぎて維持管理費に費用がかかり藩士の家禄は低く、農民・町民の暮らしは厳しかったのだろう。
厳しい生活を耐えて城を残し後世のためにと我慢した結晶が今の松山城があり、松山市がある。祖先の努力の賜物である。

松山城がなければ全国から松山には観光に来ていただけなく発展はないと思います。

 

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