元、公益財団法人常盤同郷専務理事、宇都宮良二氏のご子息(当時静岡市在住)からの情報で、取材に行きました。
現地静岡市には、松山市から車で行きましたが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になるくらい静岡県縦断は長かったです。
石碑取材後は、富士山を一周、御殿場から、河口湖に出て白糸の滝を観光、田貫湖で富士山を撮影し帰路につきました。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある曹洞宗・洞慶院で参道に建立されていました。
令和2年10月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に53基発見されていますが、二人が揮毫した石碑はこの石碑のみです。
揮毫者は、秋山好古と豊邉新作です。
篆 書「忠魂」を秋山好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫しています。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵氏で、静岡市の出身実家は薬局を営み金蔵氏自身も自宅で馬を飼い可愛がっていたそうです。
当時の軍人は、皇国から与えられた武器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったのですが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理をする大変な役割がありました。
軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパ同然でありました。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われています。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていましたが、当時東京市の一部では、自宅で馬を飼ってはいならないという条例が施行され、好古は馬を飼ってもいい地区に転居してまで馬を飼い可愛がったそうです。
大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山の自宅で馬を飼うのではないかと心配して、内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見ていましたが、流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうです。
三浦金蔵氏も静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられています。その為この石碑を建立しました。
戦闘中に、三浦隊員の軍馬は敵弾を受け亡くなっています。その哀悼の碑です。
石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者は、豊邉新作で秋山好古が最も信頼をした副官でした。
好古が教育総監時代、騎兵監をしていた豊邉新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子で、豊邊新作の父と河井継之助は従兄弟同士であります。
次の方々は、静岡市葵区の石碑取材でお世話になった皆さんです。
静岡市在住の宇都宮氏。
静岡市葵区羽鳥にある曹洞宗・洞慶院のご住職。
静岡市葵区教育委員会の方々。
松山市立坂の上の雲ミュージアム・徳永 佳世学芸員の各位です。
静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」です。
1.碑 文 : 愛馬追悼碑・忠魂
2.所 在 地 : 静岡県静岡市葵区羽島1840番地 洞慶院・参道入口
3.揮 毫 者 : 陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古・・忠魂
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作・・愛馬追悼碑
4.建 立 者 :陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級 三浦 金蔵
5.建立年月日 : 大正 8年 4月 3日
6.石碑大きさ : 高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝ 厚み 13㎝
7.石碑裏面撰文: 別段の通り
私の私見
建立者、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵は、愛馬追悼碑建立におよび
直属の上官であった豊邊新作に揮毫依頼したが、私よりも、秋山好古大将に頼んでやろうと取り扱った。しかし好古は豊邉中将が揮毫するようにと言ったが、二人とも譲り合い、結局二人が揮毫する事になった。石碑上段に「忠魂」を秋山好古が揮毫、題書「愛馬追悼碑」を豊邊新作が揮毫した珍しい石碑が建立されました。
また、戊辰戦争の争乱から大東亜戦争に至るまでその間、馬や犬や鳩も戦禍で数多く犠牲になっりました。
その御霊を弔い顕彰するため「軍馬・軍犬・軍鳩之碑」が各所に建立されたのです。
石碑上部に篆書「忠魂」を秋山好古が揮毫しています。
註:篆書とは、石碑などの上部に篆書体で書かれた題字です。
石碑の題書を豊邊新作が揮毫しています。
揮毫者の氏名肩書は見えにくいが下記の通りです。
揮毫者は、 陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古 篆書
陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊 新作 題書
と揮毫されています。
好古揮毫の石碑は、現在53基発見されていますが、二人が揮毫しての石碑は静岡市のこの石碑だけです。
石碑裏面で、刻印が浅く殆ど読めません。
取材後、静岡市葵区教育委員会の方から石碑裏面に書かれている文書と愛馬追悼の石碑を拓本にして送って頂きました。
静岡市葵区教育委員会の方から石碑裏面に書かれている撰文を贈って頂きました。
その撰文を、松山市立坂の上の雲ミュージアム学芸員、徳永 佳世氏に現代読みに解読して頂きました。
石碑の写真を撮影しようと思い石碑にいってみると、なんと石碑の前に車が2台駐車してあり写真が撮れなく所有者を探し、車を移動してもらい撮影しました。
こんな出来事が時々ありました。
洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の木が沢山植栽されていた。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れる梅の名所だそうです。
曹洞宗久住山の寺院・洞慶院の本堂と庫裏。
曹洞宗久住山の寺院・洞慶院のご住職さん、秋山好古揮毫石碑建立についての詳細は住職の代が変わり、その経緯は分からないと言われました。
洞慶院の案内図。
秋山好古揮毫石碑所在地を案内図に表示をしますと住職は言われました。
現在の案内図には、秋山好古揮毫の石碑所在地の案内図に表示してあると思います。
洞慶院の紹介の一文にも「日本騎兵の父・秋山好古ゆかりの碑」が建立してありますと追記されました。
取材の後、富士五湖を周り白糸の滝を見学して
田貫湖畔で一泊、ダイヤモンド富士が撮影できる場所で有名です。
前日は、雨天で富士山は雨雲の中でしたが、夜が明けると画像の様に富士山が顔を出して私を迎えてくれました。
秋山好古さんの石碑取材ご苦労さんと言わんがばかりに。
富士山頂に朝日が昇りダイヤモンド富士の撮影チャンスは例年4月20日頃と8月20日の前後だそうです。
私が行ったときは、5月18日で朝日は画像の様に見えました。
田貫湖の鑑賞ポイントの中で最も人気があるのは、宿泊施設がある「休暇村 富士」で観賞用展望デッキが完備されていました。
取材後日、松山市立坂の上の雲ミュージアムで開催されている司馬遼太郎の作品「坂の上の雲」のリレー読書会が開催されておりその一環事業として、私に好古揮毫の石碑紀行の講話依頼がありました。
秋山好古揮毫の石碑講話のタイトルで、
画像は、六本木ヒルズ 52F、海抜250メートルからの展望室から撮影した青山霊園で、秋山好古は家族と一緒にこの霊園で永久の眠りについています。
墓所は、北里柴三郎博士の墓所の隣にあります。
講演風景。
講演の時に使用披露しました静岡市葵区の石碑「愛馬追悼碑」の拓本で、静岡市葵区教育委員会から頂き軸物に表装し会場の皆さんにご披露しました。
静岡市葵区の石碑は、38番目に取材をした石碑です。
秋山好古揮毫の石碑は令和2年10月現在53基発見されており、53番目に発見された京都市右京区の石碑「山國御陵」は取材出来ておりません。コロナが収束したら取材に行く予定です。
京都市右京区の石碑情報をお送り頂いた左賀さんにはその時お世話になります。
関西地区で初めての貴重な石碑で、揮毫の経緯が判明すれば凄い事だと思います。
現地は、京都市右京区北井門町丸山で、常照皇寺の参道入口に建立されており、寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土後門天皇の分骨所がある由緒ある場所の参道入口に建立されているそうです。
ただ場所がJR京都駅から35Kmの場所で交通の便はあまり良くないのが気掛かりです。