EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 18 久松定謨(第16代当主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 18 久松定謨(第16代当主)

第14代藩主定昭も子宝に恵まれず、久松松平家系の旗本松平勝実の3男を養子として迎え、久松松平家第16代当主になる。(16代から久松姓に帰る)

久松 定謨(ひさまつ さだこと)、慶応3年9月9日 (1867) 昭和18年(1943)2月19日)は、日本の陸軍軍人、華族(伯爵)。
旧伊予松山藩主である久松家の第16代当主で、歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任し、階級は陸軍中将。位階勲等は正二位・勲一等。

妻の貞子は島津忠義公爵の娘。長男の定武(第17代)は貴族院議員・参議院議員を経て愛媛県知事を5期務める。定武の子定成(第18代)は元愛媛大学農学部教授で靖国神社崇敬奉賛会会長であったが一昨年逝去。
現久松家当主は第19代である。

第16代久松家当主、久松 定謨がフランスの陸軍士官学校に留学のため、補導役として旧松山藩士の子である秋山好古騎兵大尉(当時)が渡仏するのである。

また、久松 定謨は日本橋浜町の邸宅を伊予松山から勉学のため上京する子供達の寄宿舎として提供し家計の苦しい子供には奨学金を与えていた。
その後これを組織化し常盤会とし現在の常盤学舎となる。現在、東京都東久留米市中央町1-18-17にある。

また、松山にあった松山同郷会(秋山眞之が提唱して創った組織)東京の常盤会が合併して現在、財団法人常盤同郷会を結成し、松山市歩行町二丁目3番地6にある、秋山兄弟生誕地と東京の常盤学舎を管理運営している。この基は久松定謨が資金提供をして出来た組織である。

そして、東京都中央区久松町にある、区立久松小学校は創設時に久松定謨が多額の寄附をして出来たのでこの姓にちなんで校名を付けた。
但し町名は久松家とは関係がない。

画像は、久松小学校創設記念祭が平成15年5月25日開催され、久松第18代定成が招待され列席した。その記事である。
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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 17 松平勝成(第15代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 17 松平勝成(第15代藩主)

第14代藩主定昭も子宝に恵まれず、久松松平家系の旗本松平松実の3男を養子として迎え、久松松平家第16代当主になる。(16代から久松姓に帰る)
第15代藩主松平勝成は第13代勝成なので此処では省略する。

伊予松山藩、第13代藩主と第15代藩主を務めた松平勝成は、明治45年81歳で逝去する。
従四位上 左近衛少将 隠岐守

そして第14代藩主で松山藩知事を務めた、松平定昭は、明治5年(1872)28歳の若さで逝去した。
従四位下 左近衛少将 式部大輔 伊予守

画像は、松山城本壇仕切門で、ニノ門を過ぎて、天守米蔵下を北に進み、更に西に折れるとこの門に達する。
脇戸付高麗門で、南は天守米蔵石垣にかかり北の脇戸柱には仕切門内塀が取り合う。上部に格子が付けられている。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。


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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 16 松平定昭(第14代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 16 松平定昭(第14代藩主)

第13代藩主勝成も子宝に恵まれず、伊勢国津藩主第11代藤堂高猷(たかゆき)の4男を養子として、松平定昭が継承する。

藤堂高猷の祖先は、今治藩初代藩主の藤堂高虎で、伊予松山初代藩主加藤嘉明とは豊臣秀吉時代共に活躍した武将である。関ヶ原の戦いで東軍に組し徳川家康から伊予国半分20万石を加藤嘉明に、半分の20万石を藤堂高虎に領分された仲で、幕末その藤堂高虎の血を引く藤堂家から養子を向え伊予松山藩14代藩主を継ぐ事になる。

定昭は、藤堂家の血統を持ち剛遇で名が知られていたから、幕府側の期待が大きく、この難局を打開しようと会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬らが協議した結果、慶応3年9月23日に老中職に任じた。
松山藩では、この多事多難な時期に当たり、定昭の老中職就任を喜ばないものが多く重臣たちは大政奉還の後その職を離れるよう進め、定昭が決意し老中職を辞したのは同年10月19日の事で、老中在任僅か1ヶ月にも足らなかった。

その結果、松山藩は親藩でありながら、徳川氏をはじめ会津・桑名等の佐幕派の諸藩から疎んぜられる結果となった。
朝廷では12月9日に王政復古の大号令を発し革新政治の第一歩として明治維新がくる事になる。
松山藩は摂津国梅田村警備の任に当たっていたが、合・桑の両藩は定昭の老中辞任を不愉快として疎外され、したがって鳥羽伏見の戦いにも参加せず、定昭は藩士を率いて帰国した。

藩では親藩であるがゆえに朝廷から松山追討問題が起こり、藩内では恭順派と主戦論者とに分かれ、薩摩・長州に徹底的に抵抗すべし論者がいたが、恭順派に従い15万石を朝廷に返納し、定昭は城を出て常信寺に退去しひたすら謹慎の意を表した。
その後松山藩は土佐藩預かりとなり、松山城を土佐藩は受領した。
2月長州藩隊長杉孫七郎は常信寺に来て、勝成・定昭父子の謹慎状態を調査確認し報告によって当局の認める事となった。長州藩隊長杉孫七郎は松山藩の蒸気汽船を没収して持ち帰ったとある。

その後松山藩主は、第13代藩主を務めた松平勝成が第15代藩主として再任される。
以上「伊予松山藩歴代藩主の家系を見る」を記載してきたが、文献は、昭和46年松山市発行の「松山城」から引用と私の主観がある。

画像は、松山城本丸と本壇を上空から撮影した。
本壇の連立式城郭がよく判ってもらえると思う。
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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 15 松平勝成(第13代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 15 松平勝成(第13代藩主)

第12代藩主定穀(勝善)にも子宝に恵まれず、讃岐国高松藩主第9代松平頼恕(よりひろ)の6男を養子とした(松平定成・勝成)
松平定成・勝成(以下勝成と呼ぶ)勝成は、第15代将軍、徳川慶喜の従兄にあたる。

勝成の時代は、大変な時代で幕府の命令で長州征伐に、勝成は四国軍の先陣をきって徳山に上陸、松山藩では、家老水野佶左衛門と藤野正啓とが大阪に赴き征長総督徳川慶喜と作戦打ち合わせを行った。長州では恭順派が主戦派を抑えて藩主は責任者を処分して謝罪の誠意を示したので幕府は征伐の中止を命じた。

翌慶応元年主戦派の高杉晋作らは恭順派を抑えで軍備を増強し幕府側に抵抗第2回長州征伐が始まり、以後と鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、維新となっていく。
勝成は、明治45年(1912)81歳の長寿で逝去するが、勝成も子宝に恵まれず、伊勢国藩主藤堂高猷(たかゆき)の5男を養子に迎えは第14代松平定昭として継がれ維新を迎える。

松平勝成、明治45年(1912)81歳の長寿で逝去
従四位上 左近衛権少将  隠岐守

画像は、松山城天守で、慶長7年(1602)加藤嘉明が築城した天守は5層の偉容を誇っていたが、寛永19年(1642)久松松平定行はこれを3層に改装したが、天明の落雷で焼失、現在の天守は、その後嘉永5年(1852)に復元されたものでわが国城郭建築史上における最後の天守として注目されている連立城郭である。

天守は、地盤面から4m高く石垣を築き天守台に天守を築き石垣の中は米蔵となっている。(古来これを地下1階と呼ぶ)内側の石垣は湿度調整の配慮から安山岩を積み、土間はやはり湿度調整にため素焼きの瓦を敷き詰め、部材は防虫効果を配慮して楠木を使用し万全な配慮がなされている。

天守台の上には、3層3階の後期層塔型天守が築かれている。
建造時期は、嘉永5年(1852)12月20日の再建完成で、あるが落成式は安政元年(1854)2月8日に盛大に行われたので、公には安政元年とされている。

第12代藩主松平勝善の建造である。


昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。

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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 14 松平勝善(第12代藩主)

2010年11月05日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 14 松平勝善(第12代藩主)

第12代藩主となった定穀は、嘉永6年(1853)第12代将軍・徳川家定公にはばかり松平定穀は、勝善に、定成は、勝成と改名した。

なお第11代松平定通は子宝に恵まれず、薩摩藩主第9代島津斉宣(なりのぶ)の11男を養子とした(松平定穀・勝善)
松平定穀・勝善(以下勝善とする)の城郭復興計画が推進する。・・島津斉宣は、篤姫の祖父である。

弘化4年(1847)11月小川九十郎を普請奉行に命じ12月4日家老の服部玄蕃も参加して天守の位置を検討し、まず天守・小天守等々本壇の設計に着手、嘉永元年2月7日鍬入れ式を揚げ復興が始まった。
工事を着手してから6年嘉永5年(1852)12月20日天守を初め城郭全部が完成、落成式は安政元年(1854)2月8日に盛大に行われた。

実に天明4年の天守焼失から71年を経過し、また定通の復興計画から文化3年からすれば、35年の後の事であった。
松山藩としては大規模な工事でありこれらの経費の捻出は、藩の節約によるものと家臣の俸禄の減給でよるものであった。
落成式には先ず70歳以上の老人に酒を振舞い労をねぎらったとある。節約の感謝の表れであろう。

徒歩目付けの秋山久敬(坂の上の雲・主人公、秋山好古・秋山眞之)家も10石に減給されていた。

現在見る伊予松山城本壇の天守はこの時に再建されたもので、わが国の城郭のうち連立式建築の最も完備した形式と偉観を持つこととなった。

連立式城郭とは、天守が並立する二基以上の城櫓によって形成したものをいい、普通に中庭の備えがある。
松山城は天守を中心に多聞北隅櫓・南隅櫓・小天守・さらに東北に天神櫓・南東に二ノ門櫓を配している。

この様式を持つ城郭として全国に知られているものに、姫路・和歌山・の両城があり、なかでも松山城は安政元年の復興で、江戸時代の古城郭として最も新しく、かつ完全なものとして注目されている。

勝善は、松山城復興完成を終え、安政3年(1856)40歳で逝去、藩主は第13代松平勝成に継がれる。
従四位 左近衛権少将  隠岐守

画像は、松山城ニノ門東塀で、ニノ門とニノ門南櫓を結ぶ塀で枡形を通りニノ門の直前に迫った寄手を側射する防御塀。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。

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