EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 12 松平定則(第10代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 12 松平定則(第10代藩主)

第9代藩主を定国の子達は、早くして世を去り6男定則が10代を継承した。
しかし定則も17歳で逝去し藩の復興には寄与できなかった。
第11代は定則の弟定通が藩主を務める。

定則は、文化6年(1809)17歳で逝去、藩主は第11代松平定通に継がれる。

 画像は、一ノ門東塀で、一ノ門南櫓とニノ門南櫓の本壇石垣に建つ渡塀、本丸広場に対する備えを持つ。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 11 松平定国(第9代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 11 松平定国(第9代藩主)

第8代藩主を継承した、松平定静には嫡男が無く、第9代藩主定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男徳川御3卿の一つ田安家の党主・田安宗武の2男である。
伊予松山藩は徳川親藩の色が濃いくなった時代である。

定国は、定静生前からすでに伊予松平家に養子として入っていて養父定静から、定国の名前を与えられていた。
その定国にも苦難が生じた。天明4年(1784)元旦の真夜中に天守に落雷があり、そのために本丸の主要部を焼失し、朝方鎮火した。定国は病気療養中難を法龍寺にいて難を避け、翌朝帰城した。定国は直ちに急使を江戸に送りその旨幕府に報告した。幕府から使者が派遣せられ、本丸焼失のため参勤の時期を9月に延期するよう伝えられた。

定国は、城郭復興計画を幕府に請願し、6月29日その許可を受けた。
この頃松山では俳壇に黄金時代をもたらせ、栗田樗堂とその一派が俳聖芭蕉が逝去してから90年「芭蕉に帰れ」の俳諧復興運動が起こった。

松山藩主は俳句どころでなく城郭復興で苦難をしていた。
城郭復興が完成するのは、第12代松平定穀(さだよし)後に勝善と改名が安政元年(1854)に復興完成するのであるが、その間実に70年間伊予松山藩には天守がなかった。

藩は、大火の城下町の復興と城郭復興で大変であった。
定国は、文化1年(11804)48歳で逝去、藩主は第10代松平定則に継がれる。
 従4位 左近衛権少将 隠岐守 始中務大輔

 画像は、松山城一ノ門南櫓で、紫竹門東塀と呼応して本壇入り口を固める単層櫓で、本壇石垣上に臨みその北側に一ノ門が構えられる。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 10 松平定静(第8代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 10 松平定静(第8代藩主)

第8代藩主を継承した、松平定静は第4代藩主定直の5男の長男である。
定静の時代になると飢饉騒動苦慮の時代もなんとか治まり藩経済も安定化し、本来の藩政が動き始め、藩学にも活性化が出てきた。

従来、松山藩では、官学としてしての地位を誇った朱子学が隆盛であったが、この時代になり、やがて各学派の進展による儒学の黄金時代をつくると共に道徳規範をいっそう深く追求する傾向が生まれた。
またこの頃から俳句も盛んに行われるようになったとある。

しかしいい事ばかりでなく、明和7年(1770)12月26日の夜、現千舟町の足軽の家から出火して、現新立町まで類焼し、また同夜城北清水町も火事があって鉄砲町東詰めまで延焼し、松山にとって未曾有の大火で武家屋敷301軒、商家750軒、寺院2軒が被害を受けた。
この復興は次世代の9代藩主の大仕事となり受け継がれていく事になる。
定静は、安永8年(1779)51歳で逝去、藩主は第9代松平定国に継がれる。

 画像は、松山城本壇一ノ門内側である。
内から見ると、門の戸としては非常に珍しい造りの、上下が格子造りとなっていて、この格子造りがよく判ってもらえると思う。
建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。

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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 9 松平定功(第7代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 9 松平定功(第7代藩主)

第7代藩主を継承した、松平定功(さだかつ)は第5代藩主定英の次男である。
定功の時代も久万山騒動の影響で苦慮の時代であったが、藩の教育の必要性も鑑み推進している。
明和2年(1765)33歳で逝去、藩主は第8代松平定静に継がれる。

 画像は、松山城本壇一ノ門で、本壇入り口の虎口に西面して建てられた最初の門で、脇戸付高麗門、門戸は非常に珍しい造りで、上下が格子造りとなっていて、これは攻勢防御の築城思想から、出撃帰塁時の兵員数を計る仕組みとされている。

建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 8 松平定喬(第6代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 8 松平定喬(第6代藩主)

第5代藩主を継承した、松平定喬(さだたか)は第4代藩主定英の長男である。
藩主就任後僅か10日後に藩政に大変動が起こり家老職の更迭が断行されている。
それは、享保の大飢饉と定英の逝去が原因で久万山騒動が勃発、大飢饉の余波で農民の経済は良好でなく、年貢の負担が重くのしかかっていた。

この危機を大宝寺住職(四国ヶ所第44番札所)の斡旋で解決したが、家老、重臣の一部は処分されている。
定喬の時代も苦難の時代での立て直しに苦労している。
宝暦13年(1763)48歳で逝去した。従4位 侍従 隠岐守。
藩主は第7代松平定功に継がれる。

 画像は、松山城野原櫓で、乾櫓の東の本丸石垣に臨んで建てられ、北側搦め手を防御する。
櫓は1階の上に2階を載せ、通し柱は無く、大屋根の物見櫓から発達した望楼起源説の名残を残すものとして注目されている。

松山城最古の建物で豪放な木割で、礫詰めの太鼓壁、化粧屋根裏の構造と石落とし・狭間の備えを含築城当初の面影をよく残す貴重な建物である。
内部見学は年に一度お城祭り以外に見る事は出来ない。

建築時期は、慶長期、初代藩主加藤嘉明時代の建造で一番古い櫓である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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