EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日露友好のかけ橋 3

2010年02月25日 | 伊予松山歴史散策
日露友好のかけ橋 3


画像は、松山市が、昭和41年4月20日、ロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦・ヘルスベートの艦長のV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立したものである。
「明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。捕虜となり松山に収容された露軍兵士の心の支えとなった大佐である。」

松山の収容所で過ごした露軍兵士達は、ゆったりとした収容生活を過ごし、道後温泉の入浴も許され、松山市内見学、砥部焼見学(現、砥部町)、郡中五色濱(現、伊予市)へのピクニック、時にはお酒まで振舞われた。
兵士達は、捕虜になったら松山の収容所行きを希望する者が多かったと言われたそうだ。

最近、松山城三ノ丸で埋蔵文化財の発掘調査がされているが、此処でロシヤ金貨が発掘されこれに頭文字の刻印が発見された。ロシヤ兵士と収容所病院で勤務していた看護婦の頭文字ではないかと??・・淡い恋が芽生えたのではと騒がれている・・・このような行為はご法度だったので二人は引き離されたのではないか??
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日露友好のかけ橋 2

2010年02月25日 | 伊予松山歴史散策
日露友好のかけ橋 2

松山市民の尊い行為に感謝するためにロシヤの作家V・グザーノフは捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシヤ側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなり地元では、これを「日露友好のかけ橋」とされている。

画像は、平成6年10月、ロシヤから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立した。
 
参考事項:V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦のロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦、ヘルスベート艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。


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日露友好のかけ橋

2010年02月25日 | 伊予松山歴史散策
日露友好のかけ橋


松山市御幸一丁目(松山大学御幸キャンパス横)にロシヤ兵士の墓地がある。
明治37年、38年に起こった日露戦争の時、捕虜として松山収容所で亡くなったロシヤ兵士98名の墓地である。

気候温暖、輸送に便利の理由から松山に全国で最初の捕虜収容所が出来、最高時は6000人達した。松山の人々は心の通った持て成しをしたためか、不慮になった兵士は収容所は松山に行きたいと言ったそうだ。

地元の老人会、婦人会、勝山中学校生徒会の皆さんは、長い間墓地の清掃と供養を続け保存に努め現在も活動は継続されている。

松山での好意が世界に知られ最近は、ロシヤからゆかりの人達が訪れこの行為にたいし敬意を表し日露友好が深まった。

この尊い行為に感謝するためにロシヤの作家V・グザーノフは捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシヤ側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなった。 
地元では、これを「日露友好のかけ橋」とされている。
98名のお墓には献花が絶えた事がない。

画像は、ロシヤ兵士98名が眠るロシア兵士の墓地で、ロシヤから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像も入り口に建立されている。全ての墓碑は、遠く故郷ロシヤを望んで北向きに建っている。

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