杉並の純一郎(3)

2009年12月で68歳に!
先の戦争が一体なんだったのかを今一度勉強し、次の世代に伝えてゆきたい。

「昭和のまちがい」を読む

2007-01-16 00:43:01 | Weblog
「昭和のまちがい」

 昭和42年発刊の「昭和のまちがい」を読んだ。1932年生まれの岡田益吉というジャーナリストが書いた本だが面白い。昭和のまちがいは全て大正にあるというのが題名の由来である。私が面白いと思った所を引用してみる。受け取り方は読者にお任せします。
副題は「新聞記者の昭和史」、まずは後書きの後ろ半分を引用してみよう。

 「日本がファッショになり、一方大正マルクス主義が流行したのも、昭和初期の恐慌が原因しているが、その又原因は大正時代の放漫財政にあった。‘大正、昭和をころす’とあえて言いたい。
日本がファッショになり、政党政治が破壊された原因の一半は、また元老西園寺公の独断的行動にあったことを強く指摘したい。
 私は今までの昭和史観を覆そうと思う。満州事変は決して帝国主義でも侵略主義でもなかった。ただ後半になってそうなってしまったのである。満州国さえ育成しておけば日支関係は再建されたし、日本は二度と戦争を起こさないで済んだ。それを支那事変に引きずり込まれた。これほど馬鹿げた戦争はなかった、このことはいずれ書きたい。(中略)どこに‘昭和のまちがい’あったか、いつから‘くいちがい’が起こったか、それをありのままに見るのも一つの批判だと思う。イデオロギーで歴史を批判するのは一番愚劣だとおもう。だからなぜなら人間は本来愚劣なもので、将来を見通すこともできずタイミングをいつも誤るものである。新聞記者の感覚はおぼろげだが、そのズレを直感する。岡目八目という事かも知れない。」で終わる。上述で‘いずれ書きたい’とあるが残念ながら私には氏の他の著作が見当たらない。

東久邇宮の日米戦争予言
 「日本の皇族の中でも異色とされていた東久邇稔彦王(終戦直後の首相、現在民間人)が、大正9年(1920 第一次大戦後 著者注)4月フランスへ留学したさい、ペダン元帥にあったとき、
‘日本は日米戦争やるのか’
ときかれたので、彼はビックリして、
‘日本陸軍は日米戦争は考えていない。対米作戦計画というものは全く無い’と答えると‘それは嘘だ’とペダンは笑った。
二度目にあったときも元帥は、
‘アメリカでは、お前の国を討つかもしれないから、よほど用心しなければいけない’
と力を込めていったので、東久邇宮はおかしな話もあるものだと思ったという。
その後も、ホテルのマネージャーから、
‘このホテルにはアメリカの高官が沢山来ているが、あなたが食事に来ると、あのジャップを今にたたきつけてやると、いっている」と告げ口されたり、ポメリー・シャンパン会社というシャンパンの本場に招かれたときに、そこの社長夫人(アメリカ婦人)から、
「あなたは私の敵です。今に私の国は日本と戦います」と大真面目にいわれた。
二度ならず三度まで、フランスへ来て日米戦争論をきかされて、嫌な気持ちにもなり、又不思議におもったので、東久邇宮は、クレマンソー(第一次大戦中のフランス首相)に会ったとき、
‘あちこちで、日米戦争が将来起きると聞かされているが、それはほんとうか’ときいたところ、虎といわれていたクレマンソーは次の如く答えた。
‘それは当たり前だ。アメリカは、太平洋に発展するには、日本はじゃまなんだ。太平洋
や中国大陸で、アメリカが発展するために、日本の勢力をとりのぞかなければならないのは、当たり前だ。フランスにきているアメリカの軍部の高官連中は、みんなこういっている。今回の戦争{大正7年11月に終わった第一次世界大戦}で、ヨーロッパでは、じゃまになるドイツをたたきつけてしまった。今度は太平洋でじゃまになる日本をやつける、といっているよ。
アメリカはまず外交で日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交が下手だから、アメリカにぎゅうぎゅういわされるにきまっている。そのうえ日本人は短気だから、きっとケンカを買うだろう。つまり日本の方から戦争をしかけるようにアメリカは、外交をもってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い、軍需品の生産は日本とは比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。だから、どんなことがあっても日本は我慢をして戦争をしてはいけない‘
東久邇宮は大正12年1月に日本にかえり、ぺダン、クレマンソーの日米戦争必然論をあちこちで話すが誰も本気にしなかった。ただ一人西園寺公だけが{国家の指導者は慎重にあるべき}と同調したとある。そして、クレマンソーの言うとおりの先の戦争になってしまうが、日本は対米戦への備えを怠り、充分な準備の無いまま戦争に突入し無残な敗戦を迎えた。ブライスの話は1912年ごろ、即ち日露戦争後にアメリカが日本へのオレンジ計画を含め軍事作戦を構築し始め、イギリスがそれを知らされないまでも理解し始めた時期であろうし、第一次大戦後には日本を標的として戦うことがアメリカ軍の高官レベルまで周知され始められ、それがヨーロッパで語られ始めたと言うことが理解できる。そして、そのような情報にあちこちで接しながら日本はそれに気がつかずにいた。おそらく日本としては勝てる相手ではないから戦わないということであったのだろう。しかし、相手は戦うことを前提にしていた。それに気がつかない、国としてこれ以上おおきな間違いはないのではないか。岡田氏もそう指摘している。

日英同盟の弔鐘
 ワシントン会議の第4次本会議は対象10年12月10日に開かれた。まずは米国のロッジが立って、新しい条約の4条を静かに朗読した。新条約の終わりに、彼の言葉はなんであったか?
「本条約は、ワシントンにおいてできるだけ速やかに批准を了すべきものとする。そして批准と同時に1911年(明治44年)7月13日、ロンドンで終結された日英両国間の協定は終焉する。」
 日本代表団の顔面筋肉は緊張したままだった。一部英国代表は不愉快な顔をした。米国と中国の代表は大きく微笑んだ。すると突然英国全権バルフォアが起立した。
「私は、いま起って、ちょっとの間、諸君のご清聴を煩わすのは、条約全体についてではなく、単に日本から来た我々の友人と、英国代表部が直接関心をもつ条約の一項について一言述べるためである。
日英同盟に終焉すると第4条が規定していることに、諸君は気がつくであろう。日英同盟は二大戦争(日露戦争と英独戦争)において、その目的に奉仕し、共通の犠牲、共通の心配、共通の努力、共通の勝利の試練に堪えた。その激しい試練の中に結合してきた日英両国民は、汽車のたびを数時間ともにした二人の未知の人が分かれるように、この試練のおわりに当たって、お互いがただ帽子を取って丁重に別れることは出来ない。単なる条約の言葉以上の何者かが、より密接な何物かが、両国をつないでいる。、、、、、」
 この演説のはじめのころから、日本代表たちの顔は真実の感動を示した。(日英同盟廃棄十周年におけるモーニングポスト紙の回想記)(中略)
英国のピゴット少将とともに、強烈な親日家であった米国人、日本政府に前後15年間顧問をしていたフレデリック・モアーは、‘日本の指導者と共に’という著書の中で、
「英国に強要して、日本との同盟を廃棄させたことは、米国外交政策の過失だったと、私は痛感した。日英同盟は米国を脅威する筈がなかった。脅威という非難は真実ではなかった。日英同盟の廃棄は日本に衝撃を与えた。これが日本を独自の行動に向かわせた初めだった。、、、、これは、心理的にドイツとの協力への道を開いた。もし同盟が継続されていたら、日本において文官及び海軍の影響力が充分陸軍を抑え、中国へ向かわせることを阻止でたろうとさえ、私は思っている。」
 一番ものを言わなかったのは、日本人だった。ピゴットを恐れさせたのは日本人の沈黙であった。(中略)
 だが、日英同盟を継続できなかった責任をすべて英米の政治家だけで負うべきものであったか、日本の政治家がいかにボンクラであったかも十二分に検討すべきではないか。日英同盟の廃棄こそ、第二の‘大正のまちがい’であった。