心證寺住職のブログ

諸天昼夜 常為法故 而衛護之 諸天善神に護られて

節分は、”じゃばら湯”

2017年02月03日 | 日記

今日は節分。近所の銭湯「杉戸浴場」に行ってみると、こんなポスターが。

じゃばら湯?何が入ってるんだろう?と思いつつ入ってみると、湯船に柑橘類のぎっしり入った袋が。

じゃばらは、和歌山県北山村にしか自生しない幻の柑橘類だそうで、特に花粉症に効果があるとかで人気になり、村の財政危機を救う奇跡の立役者になっているんだとか。村では、「ジャバライダー1号、2号」なるキャラクターも登場して活躍中のようです。

北山村観光サイト

 

それはともかく、いちばん寒い季節、とっても温まりました。

銭湯から出てみると、のぼりが夜風に翻っていました。

杉戸浴場さん、がんばってるなぁ。

明日は立春。春はもうすぐそこ。

杉戸浴場

心證寺ウエブページ

 


初詣の願いごと

2017年01月23日 | 日記

正月に帰省した妻から聞いた話です。

実家の近くの神社にお参りに行ったとき、二人の女の子を連れたお父さんが、

「お願いごとしちゃだめだよ。『いつも守ってくださり、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。』って言うんだよ。」と教えていたそうです。


ああ、そうだなあと思いました。
お参りに行くと、いろんな願いごとをします。中には、つい、我欲を太らせてしまうような願いごとをしてしまうこともあります。

そういう願いごとをしないで、神さま仏さまに守っていただいて、毎日無事に過ごすことができたことに感謝する。

そうありたいですね。

願いが叶うかどうかは、日頃の行いによるもの。神様はすべてお見通しです。

心證寺ウエブページ


年賀状の写真

2016年12月26日 | 日記

今年も残り少なくなりました。

そろそろ年賀状を出さなくちゃと思ってます。

毎年、お寺関係の年賀状、お寺関係ではない社交上の年賀状、プライベートな年賀状と3種類作っています。

プライベートバージョンは、子どもが生まれて以来ずっと家族全員の写真だったのですが、子どもたちがみな独り立ちして昨年は夫婦ふたりだけの写真になりました。

今年(平成29年正月用)は、ついに人間は姿を消し、今年飼い始めた愛犬の写真となりました。よくあるパターンだと我ながら思います。

(ここからは、ただの飼い犬自慢です。)

平成28年2月生まれ。3月にブリーダーさんのお宅で撮った写真です。こんなに小さかった。

生後50日経った4月、道中、桜の花が満開の中を迎えに行き、さくらと名付けました。ころころ。

ゴールデンウィーク、初めて首輪をしました。

6月、ワクチン接種も終わり、公園デビュー。

8月、暑い夏も元気に乗り越えました。

11月、6月の写真と同じ公園。こんなに大きくなりました。

12月、年賀状に使った写真。ずいぶん落ち着いてきました。

 子犬を育てていて、外出時の安全を守るため、他の人や犬とうまくコミュニケーションをとるため、食の安全や健康を守るためなど、きちんとしつけをすることがその子の将来のためになることは、人の子どもと同じだなあとつくづく思いました。

また、信頼関係が増すほどに飼い主に甘えたり、頼ったり、すねたり、喜んだり、いろいろな表情を見せてくれます。

ボール、りんご、おやつ、散歩、おしっこ、ダメ、よしなどのことばも理解するようになりました。

大切に育てていこうと思っています。


骨董市の掛軸

2016年10月08日 | 日記

先月、名古屋骨董祭で掛け軸を一本買いました。

水辺に蘆と蓮。そこに集う白鷺、かわせみなどが明るく軽快な筆さばきで描かれています。

いい物を見つけたなあと喜んでいます。

作者は、暘谷山人とあります。

左上には、この絵を描いたいきさつが書いてあるようです。

「大正丙辰五年(1916)秋 機動演習の旅に従いて、遠州浜名郡松倉郷の下位氏に宿す。主人、余の画を求む。よりて、帰り来たりて武事の余暇にこの図を写して贈る。丙辰初冬暘谷山人。」と読むのでしょうか。

調べてみました。暘谷山人とは、川村暘谷(ようこく)という文人画家のようです。 明治15年東京に生まれ、昭和30年に没しています。それ以上のことはわかりませんでした。

大正5年は、今からちょうど100年前。第一次世界大戦のただ中でした。作者は30代の半ば。軍事演習に参加しています。どんな立場で参加していたのでしょうか。下位氏という個人宅に宿泊しているので、一兵卒というわけではなかったようです。画を描いてほしいと頼まれているからには、絵かきとして名が知られていたのでしょうか。

遠州浜名郡松倉郷は、現在の浜松市南区倉松町。
浜名湖の東、遠州灘に面した地域で国道1号が通っています。

インターネットの電話帳を見てみると、松倉町には、現在も下位さんがたくさん住んでいらっしゃるようです。

一本の掛け軸ですが、いろんなことに思いを巡らせることができて、おもしろいです。

心證寺ウエブページ


谷川俊太郎の講演会

2016年06月11日 | 日記

先日、詩人の谷川俊太郎の講演会に行ってきました。

何かと不安の多い今日この頃、「安らぐということ」という演題でした。

会場は愛知県立大学。

この講演会のために、「とんでもないこと」という新しい詩を書いてくれていました。

講演会と名付けられていましたが、谷川俊太郎さんが一人でお話になるのではなく、愛知県立大学国文学科の教授と対談形式で行われました。

これは、「ことばは、対話。一方通行は苦手」という谷川さんのご希望によるものです。

お釈迦様もさまざまな教えをお説きになるとき、弟子たちとの対話によってお説きになっていますね。

 

谷川さんには、ひらがなばかりの詩も多いのですが、それは、ひらがな=やまとことばは、くらしに根付いた体から自然に出てくるものだからだそうです

谷川さんの詩を読んでいると、作られているのは一つの入れ物で、読む人がその中に入って自分なりのストーリーを展開できる、そういう作品だと思います。

だからこそ、多くの人が自分自身のこととして共感できるのだと思います。

 

また、詩の中にでてくる「私」「僕」は決して自分自身のことではなく、自分から離れたフィクションなのだそうです。一つの物事を自分一人の目ではなく、自己をさまざまに分裂させ、多様な立場、視点から多元的にとらえようとしているとのことでした。

一人の神がいて、一つの真実がある、そういう西洋の考え方とは相容れない詩人だと思いました。

心證寺ウエブページ 


愛犬の公園デビュー

2016年06月05日 | 日記

愛犬の「さくら」です。2月生まれ、4月初めにうちにやってきて、ふた月が経ちました。順調に大きくなって、ワクチン接種も済んで、今日初めて公園に連れ出しました。

午前中は雨でしたが、午後は青空が広がり、さわやかなお散歩日和となりました。

行き先は、光明寺公園。木曽川の堤防に沿って、芝生が広がっています。

さくらにとっては、鳥の声も、花に集まる虫も、ジョギングする人も、サイクリングの自転車も初めてのものばかり。すべてが目新しく、気が散ってあまり散歩のしつけにはなりませんでしたが、とても喜んでくれて、お出掛けが嫌いになることはなさそうで、まあいいかという感じです。

初夏らしく、アザミの花がきれいに咲いていました。

心證寺ウエブページ


三河国八橋のかきつばた 5

2016年06月04日 | 日記

「三河国八橋のかきつばた」最終章です。

今から1100年前、伊勢物語が書かれて以来、三河国八橋は多くの教養人を魅了し続け、日記、紀行文をはじめ、能、絵画、工芸、織物など様々な分野で定番のモチーフとなりました。

尾形光琳筆八橋図

 

その大元となった「伊勢物語」東下りの段をもう一度見てみます。

 みかはの国八橋といふ所にいたりぬ。

 そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
 
 その沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。  

 それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を句の上(かみ)に据(す)ゑて、旅の心を詠め。」といひければ、よめる。

  からごろも(唐衣) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

 と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。

 

八橋の地名の由来が、「川が蜘蛛の足のように流れているので、橋を八つ渡したことから八橋というのだそうだ」と書かれています。

では、在原業平一行が八橋にたどり着いたとき、本当に川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡されていたのでしょうか。

伊勢物語よりも、さらに古いとされる「古今和歌集」にも、伊勢物語にある在原業平の歌がすべて収録されています。八橋で詠まれたこの「からころも」の歌にも、物語風の詳細な詞書きがついています。

  三河の国八橋といふ所にいたりけるに、その川のほとりにかきつばたいとおもしろく咲けりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五文字を句のかしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる

これを見ると、伊勢物語の記述とほとんど違いがないことがわかりますが、「八橋の地名の由来」については、書かれてはいません。

もしかすると、、「川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡してあった」というのは、実景ではなくて、伊勢物語が編集されたときに、地名の由来が書き加えられたのかもしれません。

 

「八橋の地名の由来」について、地元には一つの伝説が残っています。 知立市HP「八橋の地名のおこり」

川の流れに二人の子どもを亡くした母親が、観音様のお告げにより、八枚の板を互い違いに渡すことで橋を架けることができ、それ以来、村人も安心して川を渡ることができるようになったという話です。

承和九年(八四二)五月のことといいますから、ちょうど業平の若い頃にあたります。

知立市のHPにあるこの話は、伊勢物語の記述にずいぶん合わせて書いてあるなという印象があり、後世の脚色が多いようにも思いますが、亡くなった二人の子どもの供養塔がある無量寿寺の説明板は,もう少しシンプルなものとなっています。

 

伊勢物語以降、かの名高い八橋をひと目見てみたいと多くの文人墨客が八橋を訪れ、そのようすを日記紀行文に記していますが、橋もなく、かきつばたもなく、がっかりしたというものがほとんどです。

業平は、みやび男、色好みのいちばんはじめ(元祖)として愛されてきました。風雅を好む人々の間で八橋のイメージは膨らんで、ついには、様式化された一つのモチーフとしてさまざまな分野で用いられるようになったのではないでしょうか。

心證寺ウエブページ


三河国八橋のかきつばた 4

2016年06月01日 | 日記

八つ橋のモチーフは絵画だけでなく、いろいろなものに描かれています。

茶碗とか

帯とか

京都銘菓の缶とか。

どれもに共通するのは、流水に「く」の字をつなぐように板橋を渡し、丸杭を打ち、橋の両側にかきつばたというものです。

このモチーフを元にして、造られた庭園もあちらこちらにあります。(写真は千葉県佐倉城址公園)

このモチーフが定着するのに一役買ったのは、琳派だと思われますが、それ以前からあったのかどうか、わかりません。

現存する伊勢物語絵巻の最も古いものは,和泉市久保惣記念美術館が所蔵する鎌倉時代のものだそうで、図書館で図鑑を見て調べてみました。

しかし、残念ながら八つ橋の場面は残っていませんでした。

ネットであれこれ調べているうちに、根津美術館で5月15日まで行われていた「国宝 燕子花図屏風展」に室町時代の伊勢物語絵巻が出展されていて、その写真がHPに掲載されているのを見つけました。根津美術館

それを見ると、江戸時代のものとはずいぶん趣を異にしますが、流水に「く」の字に曲がった板橋が架けてあり、両脇にかきつばたが咲いているところが描かれています。

また、國學院大學で平成24年に行われた「物語絵巻の世界 —國學院大學図書館所蔵作品を中心に—」において、上記とは別の室町時代の伊勢物語絵巻が出展されていました。國學院大學

それにもやはり、北斗七星のように連なった板橋が描かれています。

江戸時代以前の伊勢物語絵巻にも、板橋を連ねた八橋図は描かれているようです。

でも、在原業平が訪れた頃の「八橋」は、どのようなものだったのでしょうか。

その考察は、次回に。

心證寺ウエブページ


三河国八橋のかきつばた 3

2016年05月26日 | 日記

八橋図と言ってまず思い浮かぶのは

尾形光琳の「八ッ橋図屏風」(江戸時代)でしょう。

同じく尾形光琳の「八橋蒔絵硯箱」もよく知られています。

これは鈴木春信の浮世絵。(江戸時代)

これは前にも載せましたが、東京国立博物館が所蔵する「伊勢物語絵巻」。江戸時代の作品です。

これも前に載せましたが、京都銘菓西尾の八ッ橋、明治時代の包装紙。

ご存じ花札の図柄。

 

こうして並べてみると、八橋とかきつばたのイメージは、どれも同じであることがわかります。このイメージはいつごろ成立したのでしょうか。

 

伊勢物語ができて100年ほど後の一人の少女が、常陸国から京へ上る旅の様子を日記に記しています。有名な「更級日記」がそれです。

そこには「やつはしは名のみして、はしの方もなく、なにの見所もなし。」とあります。

さらに250年ほど後、鎌倉時代の中ごろ、一人の女性が尼となった晩年に善光寺や伊勢を詣でる途中、八橋に立ち寄っています。「とはずがたり」という日記です。

「八橋といふところに着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、友なきここちして

  われはなほ蜘蛛手にものを思へどもその八橋は跡だにもなし」

  

他にも、鎌倉・室町時代の旅日記で八橋のことが記されているものはいくつかありますが、どれも、「かの有名な八橋を一度この目で見てみたいと思ってやってきたが、橋も花も何もなくて、がっかりした」というものばかりです。

三河八橋の無量寿寺のかきつばた園は、江戸時代末期に作られたものだそうです。上の写真の庭園は、平成になって整備されたものです。

つまり、本家本元の三河八橋のかきつばた園も、「八橋とかきつばたのイメージ」に倣って、後世に作られたものということになります。

「八橋とかきつばた」のイメージは、江戸時代には、しっかり固定したものとなっています。いつごろ、だれが描いたのでしょうか。

現存する室町以前の「伊勢物語絵巻」に八橋の部分が残っていれば、どんな風に描かれているか、見てみたいものです。

どなたかご存じの方があれば、お教えください。

私が訪ねた当日、無量寿寺では、在原業平の法要が営まれていました。観音経を読誦していたので、一緒にお唱えしました。

(つづく)

心證寺ウエブページ


三河国八橋のかきつばた 2

2016年05月25日 | 日記

かきつばた園のある無量寿寺あたりは、八橋町という地名です。

旧鎌倉街道が通っています。

京都と鎌倉を結ぶ重要な街道として多くの旅人が行き来しました。
江戸時代になると、東海道が鳴海から岡崎へ行くのに都合のよい2kmほど西のルートを通るようになり、池鯉鮒(知立)に宿場ができます。


鎌倉街道を無量寿寺から10分ほど西へ歩くと、[在原寺」があります。

在原業平を弔うために建立したといわれています。

 

さらに西へ5分ほど行くと、名鉄三河線の踏切をはさんで「業平塚」と「根上がりの松」があります。

「業平塚」には、高さ1mほどの宝篋印塔が建ち、その形式から鎌倉末期頃の建立と推定されます。

「根上りの松」は根が2mほど持ち上がっていることから、そう呼ばれるようになったそうです。

安藤広重の「東海道名所図会」には、この「根上がりの松」と「業平塚」が描かれています。

手前が「根上がり松」、奥が「業平塚」です。現在は、両者の間を名鉄三河線が横切っています。

業平塚のある場所が、愛知県指定の「名勝八橋伝説地」になっています。

在原業平の旅した平安初期には、このあたりは湿地帯だったようですが、現在その面影はありません。

かきつばたも見ることはできませんでした。

用水路、排水路が整備され、豊かな農地が広がっています。

ちょうど「麦秋」といった趣でした。

(つづく) 

心證寺ウエブページ


三河国八橋のかきつばた 1

2016年05月23日 | 日記

伊勢物語の東下り(あづまくだり)で名高い、三河国八橋のかきつばたを見に行ってきました。

GWの頃から咲いていたようで、私が行ったときには、残念ながら、もうほとんどの花は終わってしまっていました。でも、こうしてきれいに咲いているところだけを切り取って写真にすれば、それなりに見えますね。

伊勢物語は、1100年ほど前に成立した日本最古の物語です。在原業平(ありわらのなりひら)をモデルに一人の雅(みやび)な男の生涯を描いています。

主人公は、許されぬ恋のため、京を離れ、わずかな従者とともに、あづまの国へと傷心の旅に出ます。途中、三河国八橋に至ります。水の流れが蜘蛛の足のように八筋に分かれ、八つの橋が架けてあるので八橋というのだそうだと聞きます。八橋の沢のほとりで、当時の携帯食「乾飯(かれいい)」を食べます。沢のほとりには、かきつばたが美しく咲いていました。旅の憂さを晴らすため、一行は「かきつばた」の五文字を句の頭に織り込んで、即興で歌を詠もうということになりました。主人公は都に残してきた恋しい女を思って歌を詠みます。

ら衣つつ慣れにししあればるばるきぬるをしぞ思ふ

(五七五七七それぞれの句の頭( 部)が「か・き・つ・は・た」になっています。)

誰もが都を思い出し、その歌に涙しない人はなかったと言います。

(その涙で「乾飯」は、ふやけてしまった(ほとびにけり)というオチがついていますが、私の母は、うどんやラーメンが水分を吸ってのびてしまうことを表すのに、今でも「ほとびる」という言葉を使います。)

かきつばた園は、無量寿寺という寺の境内にあり、かきつばた祭りで賑わっていました。

昔から描かれてきた、橋を八つ渡した様子を再現した庭園もありました。

京都の銘菓「八橋」も売られていました。

ここ八橋にちなんだ名だそうです。

(続きます)

心證寺ウエブページ


犬山祭りに行ってきました。その2

2016年04月06日 | 日記

(前回の続きです)

犬山祭りに行ってきました。

豪華な山車が何台も出て、賑わっていましたが、そもそも犬山祭りは、お城のすぐ下にある針綱神社の祭礼です。

もちろんお参りしてきました。ご祭神は、尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)だそうです。尾張一宮真清田神社にお祭りする天火明命(あめのほあかりのみこと。尾張氏の祖)の子孫にあたるようです。

日本で一番古い国宝の犬山城にも登ってみようと思ったのですが、

40分待ちとのことでやめました。

城下町を散策するのも風情があっていいのですが、この日はものすごい人出でこれもやめておきました。山車が間近に見られて満足でした。

お城のすぐ近くの小学校。塀がかっこいいかった。

心證寺ウエブページ


犬山祭りに行ってきました。その1

2016年04月03日 | 日記

犬山には、江戸時代からのからくりの山車が13輛もあって、ぜひ一度、行ってみたかったのですが、今まで一度もチャンスに恵まれませんでした。

今年、初めて行くことができました。犬山城と桜と引き並べられた豪華な山車。想像しただけで絵になります。

この日は駐車場に困ると思い、バイクを走らせました。一宮から木曽川の堤防を走って犬山に向かいます。堤防の両側にはずっと、桜並木が続きます。

心地よい風に吹かれながら、桜並木の中を行く。それだけでも春を満喫できます。

犬山城下の広場に着くと、豪華な山車がずらりと並んでいました。

彫刻、漆塗り、蒔絵、金箔、錦の布。江戸時代のものだそうですが、しっかり手入れがされています。

山車は、町内ごとにあるそうですが、山車の正面には町内のお偉い方が紋付き袴で座り、

子どもたちはお囃子を担当し、

若い衆は、山車を引き回します。そとからは見えませんが、もちろん、山車の中でからくりを操作している人もいます。

老若男女、町内あげてのお祭りです。地域の団結、世代間の結びつきも出来てきます。

一宮にもこういうお祭りがほしいです。お寺の行事もこういうものでありたいのですが。

山車の一番上の層では、町内ごとに工夫されたからくり人形が、それぞれの演目を披露していました。

大勢の観光客で賑わっていました。

次回に続きます。

心證寺ウエブページ


お母さん、おいしい弁当をありがとう

2016年03月28日 | 日記

一番下の息子が、大学入学のため、いよいよあさって旅立っていきます。

東京にいる兄も戻ってきて、家族総出で引越し作業をします。

 

その一番下の息子は、高校3年間+浪人1年間、毎日、母親(私の妻)手づくりの弁当を持って通っていたのですが、その弁当を持っていった最後の日、つまり、大学の合格発表の前日、予備校から帰宅し、妻が弁当箱を開けると、中に手紙が入っていました。

さらに中を開けると、

この手紙を見て、夫婦二人で号泣したのでした。

翌日、合格発表。見事息子の受験番号はありました。

 

私たちは、3人の男の子を育てましたが、こうして一番下が巣立って行くと、いよいよ子育ても一段落したなあとしみじみ寂しい思いです。

こどもは、授かりものだとよく言いますが、どの子も、仏さまのところから私たちのところにやってきて、大きくなるまでの間、しばらく私たちのもとにいて、世の中に巣立っていきました。その間、親として喜んだり、心配したり、腹が立ったり、温かい気持ちになったり。さまざまな経験ができ、人間的に成長できたと思います。

心證寺ウェブページ


暖かな新年、河津桜がもう咲いていました。

2016年01月05日 | 日記

暖かなお正月でした。

1月3日に尊神祭祈祷会を無事終え、片付けも終えて、翌4日の午後、暖かさに誘われ近くの公園に散歩に出かけました。

今年は暖かいのでもう紅梅が満開だと思って近づいて見ると、

梅ではなく、桜のようです。プレートを見ると、河津桜でした。

しかし、いくら河津桜でも、温暖な伊豆半島でさえ、見頃を迎えるのは例年2月だというのに、いくら何でも早すぎます。

心配になるほど、暖かな正月です。

心證寺ウェブページ