「三河国八橋のかきつばた」最終章です。
今から1100年前、伊勢物語が書かれて以来、三河国八橋は多くの教養人を魅了し続け、日記、紀行文をはじめ、能、絵画、工芸、織物など様々な分野で定番のモチーフとなりました。
尾形光琳筆八橋図
その大元となった「伊勢物語」東下りの段をもう一度見てみます。
みかはの国八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。
その沢のほとりの木の陰におりゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。
それを見て、ある人のいはく、「かきつばた、といふ五文字を句の上(かみ)に据(す)ゑて、旅の心を詠め。」といひければ、よめる。
からごろも(唐衣) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
と詠めりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。
八橋の地名の由来が、「川が蜘蛛の足のように流れているので、橋を八つ渡したことから八橋というのだそうだ」と書かれています。
では、在原業平一行が八橋にたどり着いたとき、本当に川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡されていたのでしょうか。
伊勢物語よりも、さらに古いとされる「古今和歌集」にも、伊勢物語にある在原業平の歌がすべて収録されています。八橋で詠まれたこの「からころも」の歌にも、物語風の詳細な詞書きがついています。
三河の国八橋といふ所にいたりけるに、その川のほとりにかきつばたいとおもしろく咲けりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふ五文字を句のかしらにすゑて旅の心をよまむとてよめる
これを見ると、伊勢物語の記述とほとんど違いがないことがわかりますが、「八橋の地名の由来」については、書かれてはいません。
もしかすると、、「川が蜘蛛手になって、橋が八つ渡してあった」というのは、実景ではなくて、伊勢物語が編集されたときに、地名の由来が書き加えられたのかもしれません。
「八橋の地名の由来」について、地元には一つの伝説が残っています。 知立市HP「八橋の地名のおこり」
川の流れに二人の子どもを亡くした母親が、観音様のお告げにより、八枚の板を互い違いに渡すことで橋を架けることができ、それ以来、村人も安心して川を渡ることができるようになったという話です。
承和九年(八四二)五月のことといいますから、ちょうど業平の若い頃にあたります。
知立市のHPにあるこの話は、伊勢物語の記述にずいぶん合わせて書いてあるなという印象があり、後世の脚色が多いようにも思いますが、亡くなった二人の子どもの供養塔がある無量寿寺の説明板は,もう少しシンプルなものとなっています。
伊勢物語以降、かの名高い八橋をひと目見てみたいと多くの文人墨客が八橋を訪れ、そのようすを日記紀行文に記していますが、橋もなく、かきつばたもなく、がっかりしたというものがほとんどです。
業平は、みやび男、色好みのいちばんはじめ(元祖)として愛されてきました。風雅を好む人々の間で八橋のイメージは膨らんで、ついには、様式化された一つのモチーフとしてさまざまな分野で用いられるようになったのではないでしょうか。
心證寺ウエブページ