書籍之海 漂流記

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津田左右吉 『支那思想と日本』 から①

2009年05月20日 | 抜き書き
 言議を好み論弁を好むのが支那人の性癖であるが、それは外に向つて自己を主張し他を説伏せんとするところに本色がある。彼等は思索に長ぜず、反省と内観とを好まない。対するものの心理の機微を捉へて我が言に聴従させようとすることに力を尽くしても、思惟を正確にする方法は考へられず、論理の学は微かにその萌芽を見ながら成長せずして早く枯死し、却つて弁者の弁の如く真偽是非を没却する詭弁の術がそこから発達した。弁者といふのは、ものごとの真偽是非に一定の準則はなく、すべては考へやう次第いひやう次第であるとして、一種の警句めいたいひかたでさまざまにそれを論弁したものである。いくらかの形而上学的思索を試みた道家の所説も半ばは詭弁に堕してゐる。言説の多くが他に対するものであり実際的目的を有するものであるから、その思想は概ね断片的であつて、組織と統一とに欠けてゐる。或はまた自己の主張し又は要望するところを恰も現実に存在するものの如く考へ、それを根拠として理説を立てるのが支那の思想家に通有な態度であつて、儒家や道家の説が空疎に流れてゐるのはさういふところに一つの理由があるが、それは実は実行を要求する道徳や政治の教であるからであつて、畢竟、同じところに由来がある。実行を要求するところから、自己の主張を主張することにのみつとめ、それが実行し得られるかどうかを現実の事態そのものについて考へないのである。 (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」 本書24-25頁。原文旧漢字、太字は引用者)

(岩波書店 1938年11月)

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