日でかけて楽しかった講演の感想をあっぷします。
公開シンポジウム べてるに学ぶ -おりていく- 生き方
「浦河べてるの家」についてはマスメディアを通して知っていた。しかしその理解は一面的なものに過ぎなかった。新聞の記事をみて知っていたこと、もしくは、テレビのドキュメント番組により、べてるに暮らす人々の一面を見ることにより作ったイメージは現実のものとは当然に違うという理解が足りなかった。
私は彼らを一つのステレオタイプにはめ込み理解していたように思う。
それが今回シンポジウムで、彼らの生の声を聞くことによりわずかながらも現実の彼らへの理解に変えられたように思う。
彼らに対する私が思い込んだステレオタイプとライブから受ける理解どのような点が違ったか。
彼らを「精神を病んだ人たち」と定義した場合、そこには、私のいる世界以外の人達に向ける視線が現れている。精神を病んだ人達がいる世界はどのようなものなのか、という非当事者の視点だけが一人歩きしていく。この点が大きくなりすぎると、ともすれば精神を病んだ人達には「心がない」というような偏向した思い込みをもたらす。
私自身は、彼らに対し偏見を持つことなく、彼らを無配慮に排除するというような思考は絶対にもっているはずはないとおもっていた。
今回ライブで彼らの声を聞くことにより、私の中にあった絶対そんなことはしない,していないというそのことに疑問がでた。
自明のことに対する疑いを絶えず持て、ということは日々意識しているつもりではあるから、あらためて確認したというほうが正しいかもしれない。
テーマに掲げられた「おりていく生き方」、彼らの言うこの言葉の中にも、私が思うような疑問があるように感じる。 おりるという発想自体が、対象をあるがままに受け入れるということから離れている。おそらくかれらはこの言葉を自嘲的に使うのであろうが、彼らに対峙するものはその言葉を額面どおりに受け取ってはならない。
「おりていく生き方」というのはいわゆる一般社会へのアンチテーゼであって、彼ら自身が生きる方向性とは異なる。病気を治さない、治せない、病気の原因をたぐってみたところでそれで? という発言からもわかるが、そのままであるということをどのように受け止めていくか、そのことを考えていかなければならないのだ。考えるのは彼ら自身、そして私たち自身である。自分自身を受け入れることができないまま世界を捉えようとするから、対象に何らかの差異を見つけたとき安易に、自分とは異なるものとして排除しようとするのだろう、そんなことを今回考えました。
自分自身を見つめるきっかけになったと思います。また彼らと直接会って話がしたい、身近に感じたいというようなこともいまかんがえています。
JOHNY
公開シンポジウム べてるに学ぶ -おりていく- 生き方
「浦河べてるの家」についてはマスメディアを通して知っていた。しかしその理解は一面的なものに過ぎなかった。新聞の記事をみて知っていたこと、もしくは、テレビのドキュメント番組により、べてるに暮らす人々の一面を見ることにより作ったイメージは現実のものとは当然に違うという理解が足りなかった。
私は彼らを一つのステレオタイプにはめ込み理解していたように思う。
それが今回シンポジウムで、彼らの生の声を聞くことによりわずかながらも現実の彼らへの理解に変えられたように思う。
彼らに対する私が思い込んだステレオタイプとライブから受ける理解どのような点が違ったか。
彼らを「精神を病んだ人たち」と定義した場合、そこには、私のいる世界以外の人達に向ける視線が現れている。精神を病んだ人達がいる世界はどのようなものなのか、という非当事者の視点だけが一人歩きしていく。この点が大きくなりすぎると、ともすれば精神を病んだ人達には「心がない」というような偏向した思い込みをもたらす。
私自身は、彼らに対し偏見を持つことなく、彼らを無配慮に排除するというような思考は絶対にもっているはずはないとおもっていた。
今回ライブで彼らの声を聞くことにより、私の中にあった絶対そんなことはしない,していないというそのことに疑問がでた。
自明のことに対する疑いを絶えず持て、ということは日々意識しているつもりではあるから、あらためて確認したというほうが正しいかもしれない。
テーマに掲げられた「おりていく生き方」、彼らの言うこの言葉の中にも、私が思うような疑問があるように感じる。 おりるという発想自体が、対象をあるがままに受け入れるということから離れている。おそらくかれらはこの言葉を自嘲的に使うのであろうが、彼らに対峙するものはその言葉を額面どおりに受け取ってはならない。
「おりていく生き方」というのはいわゆる一般社会へのアンチテーゼであって、彼ら自身が生きる方向性とは異なる。病気を治さない、治せない、病気の原因をたぐってみたところでそれで? という発言からもわかるが、そのままであるということをどのように受け止めていくか、そのことを考えていかなければならないのだ。考えるのは彼ら自身、そして私たち自身である。自分自身を受け入れることができないまま世界を捉えようとするから、対象に何らかの差異を見つけたとき安易に、自分とは異なるものとして排除しようとするのだろう、そんなことを今回考えました。
自分自身を見つめるきっかけになったと思います。また彼らと直接会って話がしたい、身近に感じたいというようなこともいまかんがえています。
JOHNY