john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

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王であるキリストの主日です。

2018-11-25 12:34:46 | カトリックのひとりごと



カトリック教会は今年は今日で終わりです。
いよいよ待降節か・・・。

今日、池島神父様のミサ依頼をしてきました。
早く永福の冠が戴けますようにと。

今日のミサは王であること。
イエズス様は王の中の王
king of kingsと呼ばれている。
この世の中に君臨したいかなる王だとしても、また、その全ての王を集めてもこの王に勝る王はいない。
しかし、イエズス様は、この世の王であるであるとは一言も言わなかったし、望んでもいなかった。
イエズス様は救い主であり、私達の主なのだ。
憐れみの神であり、愛の神だ。
王という名称はイエズス様には似合わないような気がする。

今日も車がないのでバスと地下鉄にて教会にいってきました。
雪も降ってきたので自転車も乗れず・・・😟

今日で3連休も終わりか・・・

やっぱりくだくだな3連休でした😓
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気になる修道女〜というか心配してます。

2018-11-24 13:58:22 | カトリックのひとりごと



この修道女さん。
以前、ベッドに寝て首に管を入れてました。
苦しいのに微笑まれてました。

誰なのか?はわかりませんが、というか今の時代の人だとは思いますが、何故か心配になってしまいました。
どこの修道院の方でしょうか?

前にアメリカの方で末期ガンの方で、何が欲しい?と聞いたら『カフェラテが飲みたい』という方がいましたね。

その方も50代なのですがかわいらしい方で笑顔が素敵な方でした。

この修道女さん、大丈夫かな?
生きているかな?
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ゲッセマニで祈るイエズス様が一番好き

2018-11-24 12:16:40 | カトリックのひとりごと
キリスト者にはそれぞれ聖書の中で好きな場面があると思う。
やはり、十字架でのイエズス様は信者でなくても心に残る場面だろう。

自分は、数ある場面の中でゲッセマニの園の場面を選ぶ。

イエズス様は最後の晩餐において使徒たちに訓戒を与え、聖体を制定し終えた後の場面だ。

3人の側近の使徒たちとゲッセマニの園にいき、永遠の御父に祈りを捧げる。
目の前には天使達が、これから受難において使われる道具を持って立っている。
イエズス様は人類の犯した罪と犯すであろう罪を示され、その罪を血の汗を流しながらあがないはじめる。
3人の側近の使徒たちは眠っているので、慰めるものはいない。
孤独のなかで何も言ってはくれない御父と対話し、最後には神様のみ旨が行われるよう祈る。

御父は何も言ってはくれないかったので、冷たい印象を受けるのかもしれない。
でも、これから死に行く子供を見て御父も苦しんでいたんだと思う。
私達にも御父がイエズス様に示した態度をとるのだと思う。

私達が苦しいとき、神は何も言ってはくれない。
神は何も答えてはくれないから、多くの人は神に見捨てられたと神を呪う。
しかし、違うのだ。
神様は、ずっとそばにいる。

イエズス様は祈り終えた後、最後の受難の決意を固める。
この決意こそがあがないをほぼ完成させたと言ってもいいと思っている。

それは、キリスト信者になる時の洗礼に似ている。
キリスト者になって、この後の人生をキリストとともに過ごしますという覚悟。
カトリック者でもないのに、カトリック教会のことをなんだかんだいう人がいるが、そんな人たちとは覚悟が違うのだよ。
そういう人たちは、自分に不都合が起きた場合こういうだろうから『私は、カトリック信者ではないんです、ただ、興味があって勉強していただけなんです』と。

例えば、現代に踏み絵が復活しましたとすると、そういう人たちは、同じことをいうのでしょう。

しかしながら、別の側面もあります。
私達は、そういう人たちが早くカトリック教会の一員、いや、神様の友となれるよう願っています。
カトリック教会のしがらみや問題は気にせずに、神様だけを信頼して洗礼を受けていただきたいのです。
教会は共同体とは言え、基本は一対一、神様と自分であるのですから。ここがしっかりしていれば問題ありません。

イエズス様は、決意を固めた後、立ち上がります。
最愛の弟子でありながらも、最大の裏切り者となったユダのもとに・・・。

ゲッセマニの園はいろいろな事を教えてくれます。

一番は祈る姿勢でしょうか。
体の姿勢もそうですが、祈る意向も大切です。
祈りかたや信頼、委託の大切さ。
どうしょうもない、避けようのない出来事が自分に降りかかってきた時の決意。身の振り方。
いろいろあります。

テレーズは、尊い面影のみ顔のイエズス様が好きだみたいですが、聖ヴェロニカの布に写されたイエズス様の顔のことでしょうかね?

それぞれ信心はあっていいと思います。
イエズス様の聖心や御肩やマリア様の汚れなき御心や
などなど。
どれをとっても良いものですから。
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教訓と思い出 23〜信頼

2018-11-23 20:04:50 | 教訓と思い出
信頼

神の愛と御憐れみについての彼女の談話は尽きることがなかった。彼女の信頼はひるまぬものであった。
そして、自叙伝の6章に断言しているように、
彼女は「聖人、しかも大聖人になる」ことを幼少の頃から望んでいたには違いないが、その大望は
「私の所有物」と彼女自身称していたイエズスの御功徳の無限の富の中に吸い込まれて行ったのであった。
それゆえに最高の希望ですら、彼女には無謀とは思えなかった。

あまり望みすぎるとか、神に願いすぎるとかいうことを恐れるべきではない、と彼女は断言していた。
「この世には、人から招いてもらったり、上手に取入ったりする、すべをわきまえている人々がいます。
神様が私どもに与えるおつもりでないものをお願いしますと、彼はたいへん御力があり、冨者でいらっしゃいますから、ご名誉にかけても私どもにお断りになるわけにいかず、
与えておしまいになります。」

しかし彼女は慰めを求めたり、苦痛を和らげていただくためにはこの聖なる大胆さを決して用いなかった。
現世的恵みについては、彼女は非常に用心深かった。彼女は、神が自分には何も拒み給わないと信じていた。

そして、「神様が私の言うことを、どうしてもきき入れなければならないと、お思いになるといけませんから」と言って、非常に控え目にしていた。したがって彼女が何かの望み、あるいは苦しみの軽減を願うならば、それは他人を喜ばせるためにほかならなかった。

しかも、「聖母マリアを通じて、その祈りを捧げていた。」それについて彼女は次のように説明した。

「聖母マリア様にお願いするのは神様にお願いするのと違います。

マリア様は私の小さな望みを、どうしたらよいかよくごぞんじです。それを言うべきか言うべきでないかを・・・・・
とにかく神様が私の祈りを無理におききとどけにならないよう、万事において聖旨が行なわれるように気をつけてくださるのはマリア様のなさることでございます。」

「自分の死後、地上のために尽す」という希望を述べた時、彼女は「それが神様の聖旨であるかどうかを知るために、彼の御目を仰ぎ見る」という条件をそれにつけた。
この委託が、カナで「あの人たちにぶどう酒がなくなりました」と言うだけにとどめられた聖母マリアも、ただ「あなたの愛している人が、病気です」と言うだけにとどめられた聖母マリアの御祈りを模倣したものであるということに、彼女は私どもの注意を促した。

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ヨハネの雑記〜わからないなぁ?

2018-11-22 22:51:06 | 雑記
ヨハネの雑記ってほんとに雑記でずっと前から、なんとなく自分でもくだらないと思って書いてます。

が・・・なんか理由がわからないんですが評判が良い😀

何でかわからない。

ヨハネって私の洗礼名です。
堅信名でもあります。

アメリカ的にいうとミドルネーム?
日本的に言うと戒名?になるのかな。

因みに戒名頂くのにはかなりのお金がいるそうな😓
高位の戒名は高いんだそうな・・・🤔

理由はわかりませぬ。
死んだらイエズス様み前に皆立つのにね。
戒名があの世の名前になるとはどうしても思えないし、あんな長い名前は嫌だ‼️

そう考えると洗礼名のような天の名前をもらっていない人の名前ってどうなるのだろう・・・。

そうだ、ブログで気をつけていることを書かないと。

決して押し付けブログに、ならないこと。
教えようブログにならないこと。
教えることは嫌いじゃないですが、人生教えられっぱなしです・・・(笑)

共有ブログですね。
教えてもらうのが理想です。
結構話を聞くのは好きな方なんで。

さてと明日から3連休。

でも、今、雪が降り続いてます。

今日、駅から自転車で帰れない・・・?

やっぱり車がないのは痛いなぁ〜😟

三連休明けが怖いですが😧

結局、バスで帰宅でした。

最近思うこと。

自分が発した言葉は、結局は自分にかえってくると言うこと。
昔の人は良いこと言うよなぁと。

聖書でも、目には目を、歯には歯を、であってはならないと言っているし。

だから、むしろ沈黙している方がいい。

世の中、悪口を言わなければ生きていけない人はいっぱいいるからね。

自分もそうじゃないとは言えないけれど、なるべくそういう会話の輪には入らないようにしている。

結局、相手を下に見るという罪に陥っているのだからね。

言葉は良い言葉、明るい言葉、楽しくなる言葉を使いたいものですね。

これだけでも世の中、少しは住みやすくなるんじゃないでしょうか?
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教訓と思い出22〜幼児らの分け前

2018-11-21 22:41:58 | 教訓と思い出


「聖主はかつてゼべデオの子らの母に向かって、
『わたしの右と左との席は、これはわたしがきめることではない。
その席は、わたしの父がお定めになった人々のものである。』とお答えになりました。

大聖人や殉教者たちに与えられなかったこの特別席は、小さい子どもたちの分け前になるでしょう
と思います。ダビド王もそれを予言して 『 年若いベンジャミンは(聖者らの)集まりを支配するであろう 』
と申しましたでしょう。」

彼女が天国に行ってから、どういう名で祈ったらよいかと尋ねられて、
「小さいテレーズと呼んでください」と、彼女は謙そんに答えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

キリスト者ならば、聖書をブログに載せるべきだと何回も感じましたが、私は聖書を載せるべきは我が使命にあらずという結論に達しました。
私の浅はかな知識では伝えきれないと感じました。また、聖書は自分の中で感じ、学んでいくものだと思ったりもしています。
部分的には引用するときもあるかもしれませんが、解説は司祭さまにおまかせいたしましょう。

私が伝えるべきはイエズス様を生きた聖人たちです。
聖人たちを崇敬するのは、だめだという方もいらっしゃいますが、どうでしょうか?
聖人たちは聖書を生きていると考えることはできないでしょうか?
聖書イコールイエズス様であり、神の御言葉なのだと思います。
聖人たちは神の御言葉を生きた人たちなのです。
聖人たちを崇敬してはいけない?
私達は神様を真似るには弱すぎます。
まずは、神の御言葉を実際に生きた聖人たちのレベルまで自分を高めるよう努力すべきではないでしょうか?

それすらも月とすっぽんのレベルかもしれません。
でも、不可能ではないし、努力する価値は例えまったくそのレベルに近づけなくともやるべきだと思います。

神様は、その成果も見ますが努力を見るからです。

例えば、100メートル走をします。
健康な人はある程度の記録は出るでしょう。
でも、身体障害者の人や体の具合が悪い人ならどうでしょうか?
記録は確かに悪いです。
でも、頑張らなかったと誰が言い切る事が出来ましょうか?

努力をしても、成果が出ない人はいくらでもいます。

神様は人間が評価の対象としない部分を見透します。

神様は憐れみ深い方です。

神様のために苦しんだ人を見棄てることはあり得ません。

聖人たちが何もかも完璧にした人間だと考えないでください。
聖人たちも罪を犯しましたし、弱い人間たちなのです。

私が思いますに私達と聖人たちのどこが違うのか?

聖人たちは『神を多く多く愛した』のです。

それが私達と聖人たちの決定的な差なのだと思います。

でも、遅すぎるということはないのです。

今から、多く多く主を愛する事をしましょう。

聖テレーズを愛する先にはイエズス様がいます。

行き着く先は、全ての人がイエズス様なのだと思います。

そして、聖人たちの中で最高の模範が聖母マリア様なんです。
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訪問者が79000人を超えました。ありがとうございました。

2018-11-21 21:32:59 | 1000毎 goo版
1000毎に書いていたんですが、gooブログさんは調べないといけないんで、1000毎は無理ですね。

なので、スマホが熱で固まらないで調べられる時に書こうかなと。

さてと、私の地域でも初雪が降りました。
もう冬ですね。
雪国の子供達にとっては待望の季節。
雪国の大人にとっては頭の痛い季節となります。

灯油が高くなる。
雪が降り交通状況が悪くなる。
雪はねをしなくてはならない。
寒い。

あと、今年が終わるまで1ヶ月とちょっとなんですね。
早いですね。

地震少し治まったかな?
ちなみに北海道です。

まだ、車の保険会社同士の話し合いが続いてまして、車が修理すらされていない状況です。

いつになったら乗れるのでしょうか?

あさってから三連休ですね。

カテドラルに行って祈ってこようかな。
神父様と話もしてみたいし。


前の会社は三連休なんてほぼとれませんでした。
元旦ですら出勤してましたから・・・・😕
今の所は、ルーズなんです。
月間ローテーション表もくれませんし、作業計画予定表もありません。
土曜日の出勤要請が金曜日の16:00の時もありましたし、それが常態化してます。
おかげで、病院の予約がまちまちになり、歯医者はほぼ病気とあいまって行ってませんし。

最初の頃に戻って書いてみます。

このブログを訪問してくださった方に聖母マリア様のお恵みと保護がありますようにお祈り申し上げます。



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ヨハネの雑記〜なんか腹立たしいなぁ

2018-11-20 20:20:32 | 雑記
特に自分がどうのこうの言える立場にない事は、重々承知しております。
ブログは公とは言え、何を書こうが自由であり、よっぽどのことでない限り、自由なのだと思います。
私も、ブログでは自由気ままに書いているんで、そう思います。
その上で感じたことを書かせて頂きたく思います。

私が思うにプロがカトに歩み寄る事はあっても、カトがプロに歩み寄ることはないということです。
カトの最大の特徴である聖母と聖体を認めていない(プロにも聖体はあるのでしょうが)プロとは本質的には違うのだと思います。
うまくは説明できませんが、聖母を認めないということは、神を認めないということであり、また、救いのみわざを認めないということにつながるということです。
神は、聖母を通して救いのみわざをはじめ、完成させ、それを聖霊により継続しているからです。
聖書中心といいますが、人間ごときに聖書の何がわかるというのでしょうか?
主が教えて下さった短い主の祈りでさえ、人間の浅い知識では説明は出来ないでしょう。

最近カトカテゴリーの中にプロが入って来ています。
私は、その心の中がわかりません。
プロならプロのカテゴリーで投稿すれよ、と思ってしまいます。
カトはプロには興味はありませんし、教えが本質的にちがうので訴えてくるものはないでしょうから。

あと、プロではないのですが、同じ記事を何十回と投稿しているもの。

訪問者をそんなに増やしたいのか?
ランキングにそんなに入りたい?
カトとしての自分の意志はないの?
伝えるべき自分の言葉ってないの?

とか思ってしまいます。

私は、あまり頭がよくないから理論的なことは書けないし、気のきいたことも書けません。

しかしながら、真剣に伝えたい、伝えるべき事を書いています。

すべてのキリスト信者に言いたい。

聖母をないがしろにする者は神をないがしろにする者と同じです。
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モーリスとテレーズを読み終えて

2018-11-19 22:00:37 | カトリックのひとりごと
モーリスとテレーズを読み終えて、テレーズの違う一面を見たような気がする。
異性に思いを寄せ愛するテレーズを。
しかし、この愛は世間の愛とは違うものだ。
テレーズ自身、自叙伝でこう書いている。
「栄光のために二つの魂が一つになってイエズスが喜ばれるならば、神をさらに愛せるよう互いに思いを交わすことが許されるのです。」

モーリスとの関係をテレーズは言う。
「互いのために作られた魂」だと。

聖人の中の聖人であったテレーズとモーリスは魂という未知の世界の中で結びつけられたんだと思うのです。
どうしてなのか?は誰にもわかりません。

聖人と言われる人がとるに足らない人を愛さないなどと 考えることが言えるでしょうか?
モーリスはそうではなく、神の愛に燃え、宣教の熱意に燃えている人でした。
しかしながら、過去の罪を忘れられない人でもあったのです。
テレーズはそんなモーリスを小さき道を通して神への信頼に導きました。
なかなかモーリスは白い司祭団になるまでに苦労した司祭であり、また、司祭になって宣教してからも、上長や宣教地、病気で苦労した人でした。

結局、モーリスは黒水熱、眠り病などの病気を経て、精神病院に入り、夢遊病患者みたいになり、33才でその生涯を閉じることになります。

聖テレーズはモーリスに宣教地にいって偉業を期待して、文通したのではないのです。
宣教師というものは、想像を遥かに凌駕した過酷な現実を強いられます。
その土地に馴染めるのか、食事の問題、どのように宣教するのか、悩みはつきません。
聖テレーズが宣教者の保護聖人と認められたのは、そのような過酷なまでに苦しまれている司祭たちに寄り添うためだったのです。聖テレーズ自身も宣教師になりたい人でしたし、殉教すら望んでいた人でした。
モーリスからの手紙は、神のみ旨であると認識し、また、モーリスを神が自分に託された姉妹であると感じたのでしょう、と私は思います。
神のわざにおいて偶然はあり得ないからです。
それは、誰しも同じだど私は思うのです。

聖テレーズが姉妹と認めたのは、生前ではモーリス、死後ではマルセル・ヴァン修道士くらいです。

聖テレーズが好きなのは聖テオファン・ベナールだと思っていましたから、モーリスという司祭の存在は想像していませんでした。

イエズス様が聖ヨハネ使徒を十字架上で人類の象徴としたように、テレーズもモーリスをテレーズを将来愛しながら神の道を目指す人達の象徴としたのではないかと感じています。

特に「栄光のために二つの魂が一つになってイエズスが喜ばれるならば、神をさらに愛せるよう互いに思いを交わすことが許されるのです。」

神を二人の真ん中において神を愛する人の為に・・・。

聖ファウスチナに福者ソポチコ神父がいたように
聖アラコクに聖コロンビエール神父がいたように。

各時代、各国にはそのような人はいると思います。

私と妹のように・・・。

私と妹の関係は、モーリスとテレーズの関係に似ています。

はじめは妹からのブログへのコメントでした。

神を心から愛するものに親しくなるのにさほど時間はかからなかったのです。

妹は難病ですので、私は神にずっと支え続けることを誓いました。それは、死んでも変わらないのです。

テレーズとモーリスと同じように私達の愛は世俗的な愛ではないんです。
信じられない人もいるのかもしれませんが、霊的レベルの関係とはそういうものです。

テレーズがモーリスに書いた手紙の一部を書いて終わりにしたいと思います。
「将来は見えませんが、イエズスが私の予感をそのまま実現されるなら、天国でもあなたの小さな姉妹である事を約束します。私達の関係が終わるどころか、もっと深くなるのです。修道院も柵もなくなって、私の魂はあなたの宣教地どこへでも、飛んでいきます。役割も変わりません。あなたは使徒職、私は祈りと愛です。」



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今日のミサ〜本当にお世話になった池島神父様が帰天したことを知りました。

2018-11-18 13:35:50 | カトリックのひとりごと
今日のミサは何も聞いていませんでした。
ただ、自分の本当の所属E教会の元主任司祭であった池島亟羽神父様の事を思い出していました。
私が、日本人でこれほど思いを寄せ、慕っていた神父様はいません。
この神父様の教会に初めて行った時にはもうおじいちゃん神父でしたが、決して嫌な顔をせず、寛容で優しい神父様でした。
引退し、老人ホームに入られた時、会いにいけばよかったかなと思っています。
池島亟羽神父様の亟羽はヨハネと読みます。神父様の霊名は使徒ヨハネで、私も使徒ヨハネです。

私は、この神父様といろいろな所に行かせて頂きました。
教会にこれない人へ聖体を持っていくのに同行させてもらったり、精神病院に慰問にいくのに同行させてもらったり、山口県への巡礼の旅にも同行させてもらいました。旅費は全額出して頂きました。
一対一のミサをしていただいたりしました。
また、知り合いの神父に紹介してもらうとき、『私の弟子だよ!』と冗談混じりに言ってくださいました。

本当に教会に気軽に行けたんですよ、この神父様の時には。
だから、多少遠いけど所属教会にしたんです。
昔ながらの神父様でした。
温厚で、不平を言わず、質素な神父さまでした。

教会って悩み、困っている人が門を叩く所でしょ?
今は、門前払いが意外に多いし、意外に閉鎖的なんだよね、カトリック教会って。

チマッチ神父さまに雰囲気は似ているかな。
ソ連?に捕虜にされて、大変な思いをして逃げてきたことも話してくださいました。

私は、あまり神父様たちと縁がなくあまり話した経験がないので、この神父様は特別なんです。

私は、神父様に対して神様の裁きは厳しいことを知っていますから、今日のミサは池島神父様のために捧げ、聖体拝領も池島神父様のため捧げました。

次回は、ミサ依頼をしたいと思います。

池島神父様へ
生前中はいろいろお世話になりました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
悲しみにくれている信徒も多いことでしょう。
これからは神父様が早く天国に行けるようにミサや祈りを捧げたいと思います。
イエズス様とマリア様によろしくお伝えください。
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