徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

2015京都紅葉巡り・常照寺/源光庵

2015-12-03 09:37:57 | 京都散歩
2015 11/17 鷹峯 常勝寺 源光庵


北大路バスターミナルから 市バス北1系統に乗車し、「鷹峯源光庵前」下車、 まず常照寺へ

相変わらず雨が降り続き、すでに日も傾いてきた15:40分

吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、二代目吉野太夫が寄進したものである。
14歳の若さで2代目吉野太夫の名跡を継いだ徳子は、やがて「寛永三名妓・天下随一希代の太夫」と謳われ、
その名は遠く明国まで聞こえたという





帯塚 帯に感謝し祈りを捧げる全国初の塚だそうだ  塚石は四国吉野川産の吉野石で珍しい帯状をなしている。重さ6t



本堂
常照寺は本阿弥光悦が徳川家康より拝領した光悦村の一部で、本阿弥光嵯は久遠寺・日乾を招いて、法華の鎮所を建立する。これが、常照寺の前身である。その後、日蓮宗の檀林(鷹峰檀林)開かれ、最盛期には学僧200余人が学んでいたと記録が残る。

まず、別の部屋に通され、寺の歴史と吉野太夫などのビデオを拝観、そのあと住職さんの説明を受ける
鷹峰檀林(たかがみねだんりん)


参道の灯篭にはすでに灯りがともっていた


散ったもみじが敷かれていた



鬼子母尊神堂  鬼子母尊神はもともと子供を殺して食べる悪鬼だったが仏の教えを聞いて懺悔し、改心した後、
子育て、子授けの神様、信仰するものを守護する神様となった


初めて訪れた雨の常照寺、人も少なく静かだった





山門を下りると、白馬観音や墓地のある池に続いている


吉野太夫の墓や太夫ゆかりの吉野窓を設えた茶席遺芳庵、 見落としてしまった  16:00に出る


次に歩いて数分の近くの源光庵へ、最初こちらに行こうとしたら大型バスの団体客がいたため・・
16:05 しかしこの時間にも関わらず、まだ大勢の観光客がいる。 もう日没近くなのに
以前昼頃訪れたときはそれほどでもなかった。TV-CMの影響かな


源光庵本堂
源光庵 源光庵は鷹峯山(ようほうさん)と号する曹洞宗の寺院で、貞和2年(1346)に大徳寺の徹翁国師によって創建され、
後に曹洞宗に改宗されました。


本堂と書院の北に、釈迦谷山を借景とした枯山水庭園がある。江戸時代初期の作庭という。
築山に亀島の石組があり鶴亀の庭という


書院庭園



書院の江戸時代の山口雪渓(1644-1732)筆の襖絵






本堂、丸窓の「悟りの窓」、角窓の「迷いの窓」  まだ紅葉の進み具合は半ば
本堂の庭に向かった壁面には丸い窓と四角い窓が開けられ、四角と丸に縁取られた絵のような光景は禅の教えを
表現しているのだそうです


「悟りの窓」
「禅と円通」の心を表し、ありのままの自然の姿、清らか、偏見のない姿、つまり悟りの境地を開くことができ、
丸い形(円)は大宇宙を表現している




見る場所を変えて・・


「迷いの窓」
四角い形は、人間が誕生し、一生を終えるまで逃れることのできない過程、つまり「人間の生涯」を4つの角で象徴している。
この「迷い」とは「釈迦の四苦」のことで、この窓が生老病死の四苦八苦を表しているといわれています。


外が暗くなってきた。 ISO640、露出-1  何とか写真に収めることができたのは観光客が少なくなってきたからだろう


血天井
1600年、関ヶ原本戦の前哨戦だった伏見城の戦いで、攻城軍の総大将・宇喜多秀家、副将・小早川秀秋による4万の大軍に対して、
城を守った総大将・鳥居元忠らはわずか1800人の兵だったという。鳥居ら380人は自刃して果てた。その際の血の海となった床が、
その後、各所の寺の天井板に使われたといわれている。
手形足形とか判らなかった


再び人の少なくなった書院庭園を眺める










16:40寺を出た。 雨が降りしきる中、バスで2条駅まで。 祇園のカプセルホテルに宿泊。
雨のため夜間拝観断念。花見小路の近くだったので付近や祇園辰巳大明神あたりを雨の中散策・・

翌日は嵐山へ


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