金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

早期の貝塚の成立と貝殻沈線文土器様式の展開

縄文時代早期の貝殻沈線文土器様式の展開
関東地方から東北地方への土器形式の広がりからは、海辺の生業が革新され、貝塚が成立したものと考える。
関東地方では集落遺跡が漸次増加し、その生活残滓の集積地として巨大な貝塚が出現する。
それまでは海辺の生業は当たり外れの大きいものだったのが、潮の干満が予測できることになり、
作業が計画的に出来ることになった。
それは太陰暦が造られたことであり、生産力が大幅に増大したことによるものだろうと思う。
東北地方ではそれにより、定住生活は安定したものとなり、その廃棄物として巨大な貝塚が造られるようになった。
その影響力は縄文土器の模様を、貝殻沈線文土器様式が押型文土器様式に対して、列島を二分するほどの強力なものと成った様子からも分るのでは。


何よりも貝殻沈線文というのは、紛れもない海辺の生業の成果物の残したもの、貝殻を示している。


その技術的成果を示すもの、それは供献土器に太陰暦の開発 半年6朔望  6波状突起口縁の土器として記録されていたものと考える。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

総説  
 縄文文化の成立期としての「早期」である、約1万年前~6千年前までの時代である。この時期、一部の地域から順次、住様式としての竪穴住居が確立、初期的な縄文集落が形成され始めた。
 鹿児島県鹿児島市川上町の標高約170mの舌状(ぜつじょう)台地上にある加栗山遺跡(かくりやま)や同県国分市上野原遺跡で、縄文早期前葉の約9千年前の、前者で竪穴住居跡が15棟、後者で52棟が発見された。各種の炉跡や貯蔵穴が多数発掘され、両者とも定住集落と考えられる。ただ二枚貝の貝殻の腹縁で、器面に直線、刺突、或いは押圧したりして、三角形や菱形など幾何学紋様を施文したりする貝殻文土器期に限られ、その文化を継承する集落遺跡は、当地のみならず鹿児島県下でも未発見である。
 関東地方では集落遺跡が漸次増加し、その生活残滓の集積地として貝塚が出現する。1,000年以上に亘る撚糸文土器期全体で、発掘例として約300棟に過ぎないが、その出土状況は南九州とは明確に異なり、一定の構造とその継続性が確認される。

 長期に亘る撚糸文土器様式が続いて、近畿・中部地方に押型文(おしがたもん; 多縄文)土器様式が、さらに北海道東部の帯広市八千代A遺跡でも、無文や条痕文、絡条体圧痕文、刺突文などがある、底が平らで、底面にホタテ貝のあとが付けられたことに特徴がある暁式土器(あかつき)など、それぞれの地域的特色を持つ土器様式が確立した。
特に、この時代に、西日本に広く流行した押型文土器が、縄文早期のこの時期に確認されていない。

 東北地方はこれにやや遅れ、草創期から早期に入っても、東北地方ではしばらく土器様式のはっきりしない時期が続いた。

 早期前半、関東地方一円に撚糸文土器様式が展開し始めた頃、東北地方ではその南半分の地域まで、僅かにその撚糸文土器を携えた人々の往来があるのみで、草創期の高畠町の洞窟遺跡群周辺では、その後の活動址が見られない。

 しかし、早期中葉になると様子は一変した。日計式押型文土器(ひばかりしきおしがたもん)が登場し、この段階で東北地方にも竪穴住居が普及し、はじめて初源的な集落が形成された。
 日計式押型文土器は、同じ頃中部地方で盛行する単純な山形文の押型文土器とは違い、棒状の施文具に複雑な連続鋸歯状文(れんぞくきょしじょうもん)を刻み、それを尖底土器の外面にころがして、幾何学的な連続文を付ける土器である。名称はこの土器が初めて学術的に調査された、青森県日計(ひばかり)貝塚に由来する。
 この土器を持つ文化は、東北地方ほぼ全土に広がり、明確な様式としての特徴を備えた最初のものとなった。

 そして、間もなく、今度は土器の文様施文具に貝殻を多用する、サルボウやアカガイなどの二枚貝を押し当ながら引いて沈んだ線状の文様(沈線文)などを施す貝殻沈線文土器(かいがらちんせんもん)様式に移行した。この時代になると、極めて密度の高い縄文社会が確立していき、目まぐるしく土器様式は様相を変えていく。他の地方の比ではなく、東北地方における縄文人の急速な生活様式の変革が読み取れる。

 この様式は、細かな型式の変化で、古い方から白浜・小船渡平(こみなとたい)、寺の沢・物見台、吹切沢の各型式に別れる。物見台式や吹切沢式の時期には、青森県千歳や岩手県長瀬などで7~8 軒から10数軒の規模を持つ集落が各地につくられていた。 もちろん、一時期に存在した竪穴はせいぜい2~3軒だ。まだ中期の大集落とは較べものにはならない規模ではあるが、縄文時代の地縁的集団の芽生えが、ここには確かに認められた。
 長瀬の遺跡では長径10m近く、竪穴の堀込みの深さが1mにも達する堅固な住居跡が発見された。

 何よりも、この貝殻沈線文土器様式は、北は津軽海峡を越えて北海道南部まで、南は撚糸文土器様式の後に生み出される関東地方の沈線文土器様式にまで、驚くほどの浸透力でその影響を及ぼし、中部地方以西の土器様式を代表する押型文土器様式とともに、日本列島を東西に二分するほどの文化力を示した。
 この段階で、竪穴住居、集落、貝塚、土偶、磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)など植物性食料加工具としての石器など、縄文文化の主な要素をすべて獲得し、縄文時代前期以降揺るぐことのない“縄文王国”としての「東北」の地位が確立した。

 北海道函館市の函館空港現滑走路の東側にある中野B遺跡では、縄文時代早期中葉の段階、約7,000~7,500年前まで居住が繰り返され、竪穴が700軒以上という集落跡が発掘された。
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早期前半
 草創期終末、関東で口縁部文様の再生が試みられるもののすぐに挫折し無紋化に向かう。しかし、花輪台式で試みられた羽状縄紋や口縁部平行線が東北に伝わり日計式を成立させた(らしいが、日計式は横帯構成を発達させる点に同時期の多地域との相違があり、室谷下層式等の伝統が東北北部で残存したのではないかという見解にも魅力が有るが、現状では間が繋がらない)。日計式は花輪台式から又は日本海側を通して押型紋を受容する。これにより横帯と描線が明瞭な装飾を成立させる。

 日計式の押型紋を沈線で置き換えて貝殻沈線紋系土器群(田戸型式群)が成立する。なお、沈線という要素については花輪台式終末に伴う木の根タイプを祖源とする考えが有り、重要であるが、文様構成の上ではあくまで日計式を基本としている。

押型紋型式群においても横帯を基本とする構成が採用されるとともに九州に分布を広げる。この段階を早期の開始と考える。学史的経緯に鑑み、ホライズンとしての押型紋及びI文様帯の成立という観点から大別の境界はこの時期におくのが適切と考える。九州においても初期の押型紋土器は帯状の施紋が目立つが、これは当該地域の無紋土器の伝統を示す。各地の帯状施紋の押型紋は同時性を示すのではなく、各地域における無紋を主とする型式との関わりで成立したということである。

 田戸型式群は、東北北部では、日計式の縄紋の代替である貝殻腹縁紋が盛行し、文様が衰退する傾向を辿るかたわら、北海道内の分布を拡げていく。道東には出自不明の暁式に始まる素文平底系土器群(暁型式群)が有るが、これにも影響を与えている。一方関東地方では特定帯の選択、異系列の融合による複合文様帯構成、蕨手紋の成立など、沈線文の発達を見せる。そうして発達した田戸上層式の文様構成が広がり、中部高地から北海道南部まで類似した型式の分布を見せる。その余波は押型紋型式群にも及び、隆帯や押引紋を採用させる。次段階に再び地域差が拡大し、道南では幅狭な口縁部文様、東北では羽状貝殻紋、関東では空洞化した隆帯文、中部高地では沈線による充線鋸歯文を主体とするようになる。ここまでを早期前半とする。南九州では前平型式群が独自の変化を辿っていたが、押型紋型式群と分布圏を接するようになる。

早期後半  動きの基点の一つはは道南で、貝殻腹縁紋の代替の絡条体圧痕が多用されるようになる。これは道東に影響を与え、絡条体圧痕文系土器群(東釧路型式群)への変化を促し、一方、南下して子母口式を成立させる。
東海東部では押型紋型式群の脇役であった撚糸紋の原体を流用した「ミオ坂式」の成立である。中部高地の充線鋸歯文は関東に影響して隆線の充線鋸歯文を成立させる。これがさらに広域に広がる文様となる。
関東では貝殻条痕紋土器群(茅山型式群)の成立であり、北上してムシリ式を成立させるがこのムシリ式は体部の貝殻紋を縄紋に置換しており、縄紋条痕土器群(赤御堂型式群)の成立である。

 一方、九州では隆線による充線鋸歯文を口縁部文様として持ち、胴部装飾に押型紋の残る手向山式が前平型式群の分布圏まで席捲する。そして、沈線や刺突による鋸歯状・菱状の口縁部文様と縄紋系(縄紋→結節縄紋→複列結節→網目状撚糸)の胴部装飾の塞ノ神型式群となる。

茅山系型式群は東北中部にまで分布を拡げ、西は瀬戸内地域にも類似するものの出土が見られるが、

近畿・中四国の主体は塞ノ神型式群のようだ。塞ノ神型式群の平栫式と茅山型式群の鵜ヶ島台式・茅山下層式の文様は、遠祖が共通するとはいえども、異なった変化を辿った上で要素や図形に無視しがたい類似が有り、相互の影響を示すようである。

 早期末は茅山型式群の地域差の拡大が変動要因となる。近畿東部・東海では連続刺突を基調とする石山型式群が成立し、関東では列点状圧痕による鋸歯文を基調とする吉井型式群を産み、その後石山型式群と互いに近寄っていく。東北南部は幅広い鋸歯文を残す梨木畑型式群となる。道東で盛行する東釧路型式群は赤御堂型式群に羽状縄紋を成立させる。縄紋の使用は梨木畑型式群そして吉井型式群にも次第に浸透して行く。また、日本海に沿って山陰まで伝わったようだ。梨木畑型式群では文様帯が圧縮し、幅狭充線鋸歯文を成立させる。東海東部の吉井型式群に隆帯が発生し、木島型式群に変化する。この型式群には蕨手文も発生する。これら、幅狭充線鋸歯文・蕨手文・隆帯・羽状縄紋が組合わさった羽状縄紋系土器群(蓮田型式群)の成立をもって前期とする。

 一方、九州では塞ノ神型式群が退化してほとんど条痕紋のみになった後に微隆線による文様を持つ轟型式群が成立するが、この間の移行はよくわからない。また、石山型式群は北陸・近畿に残存するようだが(佐波式、粟津SZ)資料が乏しい。


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