金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

12000年前 ナトゥーフ文化と縄文文化の比較

ナトゥーフ文化(ナトゥフィアン文化)?Y染色体ハプログループE1b1b?  2022.07.22
ナトゥーフ文化(英語:Natufian culture)は、紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化。

      


 人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、定住あるいは定住に近い生活が行われていた点に特徴がある。


 おそらく世界最古の都市であるとされるイェリコは、この時期に建設された。
 いくつかの考古学的証拠は、穀物、特にライ麦の計画的な栽培が、ナトゥーフ文化期後半にテル・アブ・フレイラにおいて行われていたことを示しており、これは人類史における最初の農耕の証拠である[1]。とされていて、土器の存在が無いこと、貝塚の形成も見えていないようだ。
他方
縄文時代草創期、早期 は定住が始まる前、または始まっている時期であり、磨製石器や土器が存在する文化を持っていたことから定住にきわめて近いのに農耕開始は明確にされていない。
貝塚が形成されていることから定住に近いことまた、太陽暦の始まる痕跡があり、太陰暦の存在も推定出来る。

縄文時代早期 定住開始と農耕開始の前に貝塚形成からの定住の形態が想像できる。
ヤンガードリアス以前から豊かな自然に育まれていた縄文文化は、ヤンガードリアスの寒冷化でもその影響は大きくなかったとみられていることから、海の生業は後退を余儀なくされたとしても、林からの生業は残されて、社会はナトゥーフ文化のように崩壊すること無く継続していたと思う。


貝塚形成から見て縄文早期には太陰暦が開発されていたのでは無いか。その前提として二至は地理的立地の利点から早くから知ることが出来て、月の朔望は古代先史世界では先ず初めに造られたとされているようだから、最初は太陰暦 半年182日 月の朔望 6回が認知されていたと考える。

 


さらにヤンガードリアスの期間の間に農耕の根底的基礎技術である太陽暦が 半年4分暦 後の四立八節の暦が、雑穀農耕の必要性から成立していたものと考える。


これらの暦は、金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が4500年前に既に成立して、現代の太陽暦に劣らないと思うことから、これが成立するまでの開発期間を想像すると、縄文時代早期にそれがあることは想定内であり、縄文時代の他の文明と比較して極めて特殊な突起土器の存在理由は、太陽暦と太陰暦の開発を象徴する記録された数字とみる以外には考えられない。
早期から前期の縄文文化の発展は、雑穀農耕文化は今明確では無いものとされているものの、太陽暦と太陰暦がその後も継続して発展して、阿久遺跡や三内丸山遺跡に繋がっていたものと考える。

波状突起口縁は海の波 海のイメージ

以下引用して整理しました。
沈線文期  海況激変前

条痕文期  条痕文期に海況が激変し印旛沼や東京湾が海になり、それを活用した貝塚が発達します。この激変の状況は前代の沈線文期の貝塚分布図と較べると一目瞭然です。

茅山式期  海況の激変に対応して縄文社会も茅山式期に急発展し、食物も海産物が急増し、雑食性が急進展したと考えられます。

この頃に対応して波状口縁が普及することと海況変化・食性変化と関係あるのかどうか、興味が湧きます。
---ここまで

このような記載があることから、波状突起口縁の土器は海況変化と繋がりそうであることが分かり、波状突起口縁の土器は海に繋がるイメージを表現したもので、太陰暦に関するものと断定したい。
波状突起口縁の土器としては、早期以来 6波状突起口縁の土器、前期には 12波状突起口縁の土器が造られてきており、半年 6朔望月、一年 12朔望月と縄文世界の知識の広がり、深まりと伴に進化してきたものと推定する。
こうした土器はその後、関東から東北地方へ影響が広がって行っているということも云われていた。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

花見川流域を歩く HANAMIGAWA RYUIKI wo ARUKU
このブログでは、千葉県北西部の小河川花見川の流域を散歩して、感じたことを記録しています。

3 参考 条痕文期の貝塚、貝塚を伴わない遺跡

条痕文期の貝塚、貝塚を伴わない遺跡
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
条痕文期に海況が激変し印旛沼や東京湾が海になり、それを活用した貝塚が発達します。この激変の状況は前代の沈線文期の貝塚分布図と較べると一目瞭然です。

海況の激変に対応して縄文社会も茅山式期に急発展し、食物も海産物が急増し、雑食性が急進展したと考えられます。
なお、この頃に対応して波状口縁が普及することと海況変化・食性変化と関係あるのかどうか、興味が湧きます。
日本最古の丸木舟が出土した市川市雷下遺跡からは茅山上層式土器が出土しています。

沈線文期の貝塚と遺跡分布図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」から引用
前代の沈線文期には印旛沼、東京湾岸には貝塚はなく、遺跡も少なくなっています。この時期には海面が低く、海がまだやってきていない状況です。
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時期<縄文時代早期>
 三戸郡南部町森越字館野出土

 口縁から底部にかけ2か所に段を有し、口頚部に横長の透かしをもつ。器面には横走の貝殻条痕と、ロ頚部には2ないし3段の刺突文が施されている。東北北部において、南関東の早期後半に位置づけられる茅山式土器の影響を強く受けた珍しい土器で ある。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

古代メソポタミア文明に先立って現在のシリア北部(古代のレバント東部・メソポタミア西部)にあった考古遺跡。今から11,000年以上前に穀物を栽培した跡が見られ、現在のところ人類最古の農業の例となっています。
テル・アブ・フレイラの遺丘の下から見つかった住居跡は、今からおよそ11,500年前に成立し、10,000年前頃まで続きました。
おそらくレバント南部に早くからいた亜旧石器時代のナトゥーフ文化人が北東方面に当たるこの地に勢力を拡大したとみられます。
集落は少数の円形の住居から構成され、木や小枝等で作られていたと考えられ、人口は最大で100人から200人でした。
この時期、食料は野生動物の狩猟、魚釣り、野生植物の採集で得ており、住居の地下には食物が蓄えられていました。
狩猟の対象だった主な動物は、毎年この周辺を移動するガゼルや、その他大型動物はオナガー、ヒツジ、ウシ等で、小形動物ではノウサギ、キツネ、鳥等を年中狩っていました。また採集されていた野生植物には、二種類の野生のライムギ、アインコーン(ヒトツブコムギ)、エンメル麦、ヒユ、その他レンズマメやピスタチオなど野生の子実類がありました。
この後、放棄されていた時期を挟み、今から9400年前から7000年前にかけて、新石器時代のテル・アブ・フレイラの集落が成立しました。
これは最初の集落より10倍は大きく、15ヘクタールの面積のある当時の中東でも最大級の集落でした。
泥レンガから長方形の住居が作られ、古い住居が崩れた泥の上に新しい住居を再建したため、集落の下には大きな丘ができあがりはじめました。
栽培されていた植物の種類は飛躍的に増え、出土した当時の人々の遺骨に残っていた変形から、人々は農業に関する重労働、とりわけ粉ひきで体を酷使したことが示唆されています。
また家畜を集めて飼育することも始まり、今から7300年前には土器が使われ始め、機織りもその少し前に始まりました。
この集落は今から7000年ほど前に放棄されたと考えられています。
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ヤンガードリアスと農耕の開始
ヤンガードリアスはしばしば西アジアでの農耕の開始と関連付けられる(Bar-Yosef,O.and A.Belfer-Cohen,2002)。寒冷化と乾燥化がその地域の環境収容力の低下をもたらして前期ナトゥーフ時代の住民の生活様式を変化させ、更なる気候の悪化によって食料を生産する必要性が生じたという説がある。一方、この寒冷化が終わったことが農業の開始と関係するという説(Munro,N.D.,2003)[13]もあり、この問題については議論が続いている。シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)では最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。

12000年前で針葉樹から落葉広葉樹への急変…
日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性…
縄文時代の気候変動の基本的史観(3)http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=257047
…グリーンランド氷床コアの解析によると温暖期と寒冷期の繰り返しは次のようにまとめられる。すなわちそれぞれのサイクルパターンは突然かつ急激な気温上昇(数十年以内)に始まり、徐々に寒冷化してゆく温暖期(数百年から4000年)へと続く。そしてやや急激な気温低下(数百年)を経た上で再び寒冷期(数百年~2000年)を迎えることになる。
このように連続的かつ暫時的な寒冷化、あるいは温暖化とは異なる過程があきらかになってきたのである。上記のサイクルは更新世と完新世の端境期でも大きく変わることはない。長らく続いた寒冷期の後に、完新世に匹敵するほどの温暖期(ベーリング期)へと急変する。そして若干の寒冷期(オールド、ドライアス期)を介して、再び温暖期(アデレード期)を迎えることとなる。さらに以前にも劣らぬ寒冷期(ヤンガードリアス期)を経た上で急激な温暖化によって完新世へと至るわけである。

注目すべきは上述した気候変動と歩みを合わせるように、植生レベルの変化が認められる点である。
辻誠一郎(1997年)によれば晩氷期から後氷期にかけて、モミ類、ツガ類、トウヒ類、マツ類といった針葉樹が優占する植生から、コナラ亜族を主とした落葉広葉樹林が優占する植生へ変化してゆく過程である。それによれば関東地域から西日本地域では、13000年前から12000年前に最初の変化が引き起こされたようである。

他にも数人の学者の研究から12000年前で針葉樹から落葉広葉樹への急変、10500年前にクリの出現などが報告されている。またこの同時期に隆起線文土器の出土が認められている。

昨今の研究では寒の戻りであるヤンガードリアス期(13000年前~12000年前)が注目されている。しかし縄文文化の始まりを評価するうえでこの時期の植生の寒冷化への変化は必ずしも明確に確認されていない。(※むしろ植生は温暖化に対応する形で変化している。この点において日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性もある)

また動物相においても同様である。晩氷期を迎える中でウマ、ヘラジカ、バイソン、オーロックスといった北方系あるいは草原環境に適した動物が姿を消し、ナウマンゾウ、ニホンジカ、ヒグマも絶滅していった。逆にツキノワグマ、イノシシ、カモシカといった動物が生息域を広げ始める。これらの変化は針葉樹の後退が挙げられており、植生変化と関連しながら動物相も変化していったのである。
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縄文期が基本的に定住型狩猟採集社会を維持し続けている間に、西アジアは、旧石器時代→新石器時代→銅石器時代→金属器時代にまで大きく推移していきます。
定住は旧石器時代の1万2500年前ころスタートしたようで、当時の定住的採集狩猟民による文化を「ナトゥーフ文化」と呼んでいます。人々は円形の竪穴住居(石の壁や貯蔵穴がある)に住んでいました。新石器時代を思わせるような、穀物収穫用の石鎌、製粉具である石皿、石鉢、石杵が大量に出土しており、農耕の範疇には入らないまでも、穀物が積極的に利用されていたのはまちがいありません。更新世末の遊動的採集狩猟民から、農耕によらないで定住型採集狩猟民へと移行したという点で、縄文時代の比較対象にされることもあるそうですが、その後の展開は全く異なります。

西アジアで定住生活が始まったストーリーとしては、以下のように考えられています。晩氷期の温暖・湿潤化にともなって狩猟採集民は、内陸ステップを含む広域に展開→13000年前ごろから数百年続いたオールデスト・ドリアス期の気候乾燥・寒冷化によって、比較的湿潤な死海地溝帯周辺に集中→人口集中によって資源をめぐるストレスの増加→集約的な穀物利用、貯蔵、そして定住という新しい生業・集落システムの発生。

農耕のさきがけは、1万300年前頃で、これ以降が新石器時代です。前半はムギ類とマメ類などの穀物栽培と狩猟の併用で、後半(8000年前くらい)になって穀物栽培とヤギ、ヒツジなどの家畜飼育の併用という形への経済の転換が完成します。これが土器使用の時期にあたるため、新石器時代は前期(先土器期)と後期(土器期)に分けられます。
新石器時代には、日干しレンガを用いた長方形の住居が一般的で、貯蔵施設やパン焼き窯も備えられていました。集落は大形化し、先土器期後半には10haに達するケースもあります(後のメソポタミアの都市国家は数十ha~100ha以上)。

ここでのストーリーはこうです。オールデスト・ドリアス期後の温暖期にナトゥーフ人は人口を増大→1万800年前ころからヤンガー・ドリアス期といわれる寒の戻りが始まり、資源減少による重大な危機→またしても死海地溝帯に集中し、地溝帯低地部に自生していた野生のムギ類の栽培化を開始(ジェリコやアスワルドなどのヤンガードリアス寒冷期の遺跡からは、栽培種の小麦や大麦が大量に出土)→気候が湿潤化した先土器新石器時代には西アジア各地に農耕が伝播。

>温暖期に人口を増加させた狩猟採取経済が、突然の環境悪化で重大な危機に直面したと想像できる。寒冷化による資源の減少が、人々に農業を強いたのである。(5402)参照
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C8 ナトゥーフィアン
氷河期末の温暖化に適応した定住的狩猟採集民
600万年以上も続いた人類の狩猟採集生活にピリオドが打たれたのは、西アジアが最初である。1万年より少し前、ムギやマメ、ヤギ・ヒツジを生産する食料生産経済へ移行した。この経済変革はその後、文明の誕生につながり、ひいては現在の私たちの生活基盤そのものを築くことになった。人類史上の大事件であったといってよい。

この変革には、日本の縄文時代から弥生時代への移行も含まれるが、周辺地域(日本の場合は中国や朝鮮半島)からの外的刺激で移行した場合と自発的に移行した場合とでは意味合いが違う。西アジアの移行は、自発的な移行が世界で最初に達成されたケースとして、そのプロセスの理解にはつとに注目が集まってきた。

これまでの理解によれば、まず、定住が始まりついで植物栽培、そして動物の家畜化がおこった。1万5000年頃前から1万年前頃にかけての出来事である。

その幕開けを飾ったのがナトゥーフィアン(ナトゥーフ文化)という西アジア地中海沿岸にひろがった生活様式である。展示物のような三日月形の細石器を特徴とするが、同時に、石壁をもつ竪穴住居、重量石器、さらには岩盤をくりぬいた容器など持ち運び不能な施設がともなう。定住の証しである。

この研究に格好の資料を提供したのがシリアのデデリエ洞窟である。1989年から2011年まで赤澤 威教授(元総合研究資料館)らを中心に発掘された。道具や建物にも重大な発見が含まれていたが、最も注目すべき発見は大量の有機物遺物であった。建物が焼けていたために食用植物が炭化して良好に残っていた。最も多かったのはエノキやピスタチオ、アーモンドといった木の実類である。一方、ムギ類やマメなど、新石器時代以降、栽培化される植物も見つかった。ヤギの放牧がさかんな現在、周辺地域は禿げ山になってしまっているが、かつては豊かな植生が利用できたのであろう。

この文化の開始は更新世末の気候温暖期、いわゆるベーリング・アレレード期の開始とほとんど一致している。温暖化とともに森林環境が拡大し、内陸沙漠には草原が出現したのだろう。森林と草原双方の資源が利用できるデデリエのような山麓部には多くの集落が設けられた。人口増と定住。その進展にともない狭い地域に定着した集団は、利用できる資源の徹底的な開発に向かったらしい。ナッツ類の利用と同時に穀類の本格利用が始まったことに大きな意義がある。

この経済は、1万3000年から1万1500年前まで続いた寒冷乾燥期、寒の戻りともいうべきヤンガードリアス期に変更を余儀なくされる。資源の縮小に直面したステップ地帯の集団は、穀物栽培に乗り出したらしい。そして、ヤンガードリアス期が開けた頃、完新世の始め、そこで始まるのは本格的な食料生産であった。 (西秋良宏)

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ナトゥーフ文化(ナトゥフィアン文化)?Y染色体ハプログループE1b1b?
 2022.07.22

ナトゥーフ文化(英語:Natufian culture)は、紀元前12500年から紀元前9500年にかけてレバントに存在した亜旧石器文化。
 人類史において農耕が始まる前であるにも関わらず、定住あるいは定住に近い生活が行われていた点に特徴がある。
 おそらく世界最古の都市であるとされるイェリコは、この時期に建設された。
 いくつかの考古学的証拠は、穀物、特にライ麦の計画的な栽培が、ナトゥーフ文化期後半にテル・アブ・フレイラにおいて行われていたことを示しており、これは人類史における最初の農耕の証拠である[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ナトゥーフ文化
 ナトゥーフ文化(ナトゥフィアン文化)は最古の農耕とみなされる可能性がある。この文化の後に、土器前新石器時代Bが生じた。おそらく、これらの主体のどちらもが古代エジプト人の父系であるだろう。
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縄文文化とは、時間的に最も長く考えた場合、土器の出現(最も古い場合は約1万6500年前)から、水田稲作が開始されるまで(早くは約3000年前、遅くとも約2400年前)、狩猟・採集・漁労・栽培を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や石器を使い、本格的な定住生活を始めた人々が残した、日本列島各地における文化群の総称である。こうした文化が形成された時期を、日本の歴史では縄文時代と呼ぶ。

■複雑な社会に暮らした狩猟採集民の文化
縄文時代にはすでに磨製石器を用いているので、その意味では新石器時代と言うことができる。しかし、農耕・牧畜を行ってはおらず、その点でヨーロッパや西アジアにおける新石器時代とは異なる。しかしながら、縄文時代の人々は卓越した土器製作技法を有し、通年的な定住生活を行い、時には数十軒の住居から構成される大型の集落を形成していた。さらに直径1メートルにも及ぶ柱材を使用して大型建物を構築するほどの高度な建築技術を有し、クリやウルシ、マメ類(ダイズ・アズキ)などの有用植物の管理栽培を行い、漆工芸や編カゴ類の製作などをはじめとする極めて優れた工芸技術を持っていた。

また、イヌを飼育し猟犬として用いただけでなく、死亡した際には埋葬していた。
環状列石をはじめとする大型祭祀(さいし)遺構や土偶、石棒(祭祀に関連した磨製石器)などに見られるように複雑な精神文化を有し、墓や副葬品からうかがうことのできるように、時には成層化した複雑な社会を構成していた。従って、縄文人を単純な狩猟採集民として捉えることは間違いであり、生業形態や社会構造、精神文化を含め多様な面で高度に複雑化した狩猟採集民として理解すべきである。基本的には食料獲得経済の段階で、このような特殊な発達を見せた文化は、世界中を見渡してもほとんどない。縄文文化は、農耕・牧畜はなくとも「新石器革命」が起こった他国の先史文化に十分に比肩できる内容を持っており、その意味で日本が世界に誇ることのできるユニークな文化なのである。

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縄文草創期  当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって対馬海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。
定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[22]。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

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シュメール文明の最初期段階である紀元前12500年から紀元前9500年に存在していたナトゥーフ文化の時代なら同じくらいの文明度でしょう。ただし、ナトゥーフ文化の時代には世界最古の都市、世界最古の農耕、世界最古のイヌの家畜化が行われており、人類史における重要性ではかけ離れているといえるでしょう。

また縄文土器を縄文時代の先進性の表れと誤解している人によく見かけますが、世界最古のセラミック(陶器)は縄文土器ではなくチェコで発掘されたドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスと言われる紀元前29000-25000年のものとされる裸婦の人形(土偶)です。つまり、縄文土器以前から世界の人類はセラミックの技術を持っていたということです。

考古学の世界では、土器の発明は主に「定住生活」に密接していると考えられています。ようするに、以前から土器の作り方は人類は知ってたけれど移動採取の生活には割れ物は邪魔だったから、あえて作らなかったが定住生活に入ると土器を利用していたと考えられているわけです。
ドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスが紀元前29000-25000年ということを考えると、そお遠くない未来に縄文土器より古い土器が世界のどこかで発掘されても驚きません。

なお、「煮炊き」という行為は土器がなくてもできる。焚火の傍に皮や木製の器に水を張ればお湯は沸くし、または熱した石を放り込めば直ぐに水は沸騰します。熱した石が水に投入された結果で割れたと思われる割れ石は後期旧石器時代の遺跡で多く見られることから、現代、最古と思われる土器より前から人類は煮炊きを行っていたと思われます。

つまり、土器の生産は人類史にとってさして重要なものではありません。ただの定住生活への移行で発生した結果です。


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