金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

太陽暦を基準として縄文時代の文化進展との対応

太陽暦の開発進展  波状突起口縁の土器の数字記録の経緯


太陽暦


縄文前期石棒が作られる
中期 石棒が巨大化、形もキノコないし男根型に成形される


農耕開始
諸磯式土器の頃、模様が縄文からマメ粒文に変化
縄文中期勝坂式土器の頃にはマメ類が栽培種に大型化


前期末 土偶が作られる
中期始め 立体型土偶が作られる

 

 

図はお借りしました

引用しますーーーーーーーーーーーーーー

■ユーラシアのヴィーナス像は旧石器時代に多く発見され、土偶も縄文草創期から出現するので、縄文中期以降に粗放農耕が行われていたとしても、土偶祭祀と農耕を直接結びつけることはできないとして、北方狩猟民の家の守り神と結びつける考えもある(渡辺, 1998; 1999)。また、土偶だけでなく石棒にも意図的に壊された形跡があり、一般に使い終わった呪物は壊してから破棄するという観念があったのかもしれない。

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■集落の構造や遺体の埋葬方法からみて、明確な社会的階層は存在しなかったと考えられる。埋葬人骨の抜歯パターンによる分析や子どもに対する副葬品の分析を合わせて考えると、縄文社会は基本的には母系的な部族社会であったが、晩期北日本の亀ヶ岡文化では、北米北西海岸にみられるような、高度な漁撈にささえられた、より父系的な首長制社会が形成されていったらしい。また前期~後期の中部・関東で発達する環状集落には2分節、4分節の構造がみられるので、単系出自・双分制、さらには重系出自・四分制の親族組織が存在した可能性がある。(縄文文化と関係が深いとされるアイヌの社会は重系である。)(→北東アジアの社会)

政治的指導者と宗教的職能者

■また後期以降には、埋葬法は一般人と同じでも、一部の人物が装身具とともに葬られていることがあり、 政治的な首長ないし宗教的職能者であった可能性が高い。腰飾りは男性に多く、貝輪は女性に多く、ヒスイなどの石の玉、耳飾りは男女双方が身につけている。このことから、あるていど男女の政治・宗教的分業が行われていたことがうかがえる(片岡, 1983)。(写真:ヒスイ製大珠/晩期/山梨県金生遺跡/大泉村歴史民俗資料館)

■一般に、狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーでもあり、農耕・牧畜社会になると、男性の祭司的首長と女性の憑霊型シャーマンが分化する。このモデルにしたがえば、まさに縄文時代にこの分化のプロセスが進行したものと考えられる。

■しかし、かりに、もっとも希少であったヒスイの首飾りを政治的首長の象徴と考えると、縄文社会では男女の両方が政治的なリーダーになることができたということになる。さらに、腰飾りを祭司的男性、貝輪をシャーマン的女性の象徴とすると、たとえば福岡県の山鹿貝塚(後期)から出土した、玉と多量の貝輪を同時に身につけていた成人女性は、シャーマンと首長を兼任する存在だったということになる。これは、職能者の分化の一般モデルにはあてはまらない。そして逆に、弥生時代以降の文献にあらわれる、シャーマン的女王との連続性をうかがわせる。(写真:ヒスイ製首飾りをつけた女性像/茅野市尖石縄文考古館)


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