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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

これまでの訪問では無かった2009年6月硫黄島訪問での収穫!(2)

2009年07月16日 | 硫黄島・小笠原村
元山は名前のとおり、戦前は、坂もある地形だったようです。

「平地にならされてしまったから、当時の面影が全然なくて、
昔の記憶と重ねられないんだよ。」と、多くの戦前在住だった先輩が
言います。

確かに当時は台地状で坂道だったりしたものが、
平らにならされてしまったら、場所の位置関係など
記憶が混乱して、分からなくなるのも、もっともだと思います。

当時と変わらない、聳え立つ、「ランドマーク」は、
硫黄ヶ丘の 「船見岩」です。
その周辺の硫黄噴出孔は、位置や大きさを、しきりに
変えているようです。大きな噴出は同じでも、
様子が前年と変わっているのは1年でも分かります。
戦前は、もっと、大規模な硫黄の噴出があって、
最近の訪問の時に私たちが歩いている場所は歩けなくて
もっと、大回りをしていた、そうです。

私も、輸送機日帰りを含めて、4年連続5回の訪問ですから、
それに、元山が出身ですから、周辺の地理にはかなり詳しいです。
が、もちろん、私が詳しいのは今の硫黄島の地理で、
戦前のものではありません。


上陸の前の晩の、地図を囲んでの、「元山出身者グループの
里帰りについて」の打ち合わせで、
旅館太平館ご子息(以下、「太平館さん」)と、
祖父の店の向かいの豆腐店ご子息(以下、「おとーふやさん」)
のお二人の、戦前に住んでいた先輩との、
地図での位置確認などをしました。

太平館さんは、昨年秋の、「島民の集い」でも、お会いしました。
おとーふやさんは、15年前の「このあたりだろうか?」と
うちの伯父たちとの里帰りの時に一緒に、昨日記事の写真のあたりを
歩いたことを思い出しました。

慰霊祭が終わって、
いよいよ、今年は賑やかな、元山への里帰り でした。

会話もはずみます。太陽が真上ですから、
ちょっとした木陰を見つけて、休みながらの散策です。

若輩の私が、「見る場所と言っても、例年どおり、
船見岩に登って、噴出口見て、になりますよね。
明日の班行動でも同じ場所に、また来るのですけれど。」
などと、生意気なことを申し上げましたが、
元山だった場所で見る場所は他にはありません。

今年は、その後で、硫黄島神社にも行きました。
学校が近かったのが、今の硫黄島神社のあたりで、
先輩たちにも「元の硫黄島神社の場所は分からない」そうです。


今年、一番の収穫!

というのは、会話の中で、
太平館さんが、
「そちらの、さかなやさんは、滑走路には、かかっていないよ。」
とおっしゃって下さったことです。

これまで、「元山の商店があったあたりは今は滑走路」と
言われてきていて、
昨年の「集い」の、出現の模型での確認でも、
「ここが、太平館さんなら、うちの祖父の店は、やっぱり、滑走路だ。」と
ため息をつきながら、確認しました。

その模型の元になった、
当時の様子を頭から引っ張りだして、地図にして下さったのが、
「島民の集い」の会長さんです。
今年は、祈念館の宿泊で、会長さんとは同じ部屋でした。
私の祖父のことを、よく覚えて下さっている方です。
年の順では、会長さん、太平館さん、おとーふやさん、
です。


その会長さんの記憶を元に手書きされた地図が、
硫黄島駐留の自衛隊の方々が刊行してくださっている
「硫黄島新聞」という出版物にも掲載されていて、
祈念館にも、ファイルに閉じられて置いてありました。

その地図は、以前にも見ていました。

太平館さんの位置を示す(5)が、
(5)と、[5]の二つあるのです。

これまでは、「祖父の商店は、太平館より南側
(昨年の、「集い」についての当ブログの記事でも、
そのように書きました。)だと思っていたのですが、

細かい道の記憶まで、
太平館さんと、おとーふやさんとで、
話あってくれたのを参考に、地図も見直したところ、
(以下、「北」を「上」と、書きます。)

さかなや、とうふや とも、旅館太平館より
左上方向にあった。
左上に向かう道の左下が、とうふや、右上がさかなや
というお向かいさんだった。

太平館さんは今の滑走路になってしまっていますが、
そこから、ちょうど左上方向が現在の船見岩です。

という位置関係の証言が得られたのです!


お二方の記憶から、さかなや、とうふやだったと
思われる地点は、
15年前に伯父たち(長兄と、うちの母は故人)と、
「このあたりだよなぁ」と、歩いた道、
私が森の中に入っていって、「もう、危ないぞ」と
伯父に怒られた地点、、、と、ほぼぴったり一致します。

ここ数年「やっぱり、うちは、滑走路なのか、、」と、
ため息ついていた、里帰り、でしたが、
お二人の先輩が一緒だった今年は、
「あの森のあたりが家の位置だったのかな!」と期待が持てる、
里帰りになりました。

ですが、ギリギリ です。
ギリギリ、森か滑走路周遊舗装道路か、という位置です。

お二人の会話は
「噴出口からうちまで300メートルだったかなぁ」(太平館さん)
「噴出口は、今の、船見岩より、もっと、こちら、ずれていますよね。」(おとーふやさん)
「高低がなさされたから、分からないんだよ。」
という、ように進んでいました。

距離は、皆さん覚えていらしゃっても、当時と地形が変えられてしまっている
のですから、方向が、はっきりと特定はできないのです。

目印(ランドマーク)は、擂鉢山と船見岩ですが、
300メートルでも、角度が10度ずれれば、違う位置になってしまいます。

さななやと豆腐店、両方とも、今の森で滑走路にかかっていなかったか、
豆腐店だけは滑走路にかかってしまっているのか、微妙な位置では
ありますが、

「分教場があっちで、場がその先」と、いろいろ覚えて下さっている
太平館さんの、「滑走路にかかってないよ。」という、お言葉を聞いて
本当に、驚き、ジーンと胸がいっぱいになりました。

故郷の島、故郷の家。
祖父母と伯父、母とその弟妹が生まれ育った家の場所。
当時の名残はなくても、その場所がどこだったのかが
これまでよりはっきりしたのは、本当に大きな収穫でした!



写真は、硫黄ヶ丘の、「硫黄」です。
灰色のぼこぼこ吹き出ている場所も近くにありますが、
地表で固まると、硫黄の緑がかった黄色です。
場所によっては、歩くと、2、3センチ、体重でへこみ
靴跡がつくところがあります。もっと、ずぼっと行く危険な場所も
離れた場所にはあるので、歩く時も危険です。

黒こげタマナの木、船見岩の裏の方には、レモングラス自生、
右の森の入り口には、昨年タコの実をとった、木など、
それらは昨年どおりでした。

生前の母は、
よく「あんたにそんなに訊かれても、本当は、8歳だったし、
よく覚えていないんだよ。立派な軍人さんが校庭に来たのと、
店の様子と、大きい暴れ牛飼っていたのは覚えているけれど。」
と、言ってました。
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