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Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

意見陳述③

2014年11月06日 09時15分27秒 | 意見陳述
意見陳述(第5回口頭弁論)
平成25年7月3日
吉田 真由美

私は吉田真由美といいます。昭和36年9月5日、由仁町古山で生まれました。兄弟姉妹はおりません。西三川で育ち、三川小学校、三川中学校を卒業しました。その後、岩見沢農業高校に進学し、さらに空知農業学園で学び、卒業後は、作物の育苗、管理、収穫といった農作業をしています。

最初にC型肝炎の感染が判明した以降の治療のことを説明します。
私がC型肝炎に感染していることがわかったのは、平成9年に札幌厚生病院で受けた農協の人間ドックでした。36歳にときです。
それから通院するようになり、平成17年、44歳のときから47歳まで足掛り4年のインターフェロン治療を始めました。始めは稲積公園病院、長沼町立病院で治療し、平成18年からは旭川の吉田病院、川島内科クリニックで治療を受けました。肝生検も2回しています。
この治療によって、私は徐々に当たり前の生活が出来なくなっていき、これは経験した者でないとわからない、辛いものでした。
副作用として、発熱に伴うインフルエンザ症状、食欲不振、倦怠感、動悸、息切れ、めまい、味覚障害、うつ病、脱毛など、挙げればきりがないくらい、たくさんありました。
インターフェロン1年目は、注射の後、痛み止めを飲みながら農作業はできましたが、正直なところ、身体はとてもきついものがありました。
2年目はインターフェロンの種類が変わり、さらに抗ウイルス剤の飲み薬が加わり、副作用は強めになり、仕事が出来る状態ではなくなり、入院もしました。副作用に耐えられなく、主治医に「辛いので中止したい!」と言ったり、夫には「治らなくてもいいから、とにかく止めたい。」と訴えられたりしましたが、夫からは「今、この治療法が最善なら頑張ってみれば」とか、「最後まで治療しないで後悔するか、やり通して後悔するか、どちらを選ぶ?」と言われ、ぎりぎりのところで考えて、なんとか最後まで治療を終えることが出来、その後治癒しました。
また、特定疾患の助成は受けていましたが、遠方のため、メインの病院と近くの治療用の病院2件ずつ通っていたので、医療費と交通費が負担になりました。治療を始めた平成17年は稲積公園病院と長沼町立病院の治療費で288,000円、平成18年は旭川の吉田病院、川島内科クリニックの治療費168,000円、2度の入院費が36万円、交通費も20万円かかりました。平成19年には治療費と交通費で368,000円、平成20年には156,000円かかっています。これらはインターフェロン治療の医療費だけであって、実際には平成9年から通院していますし、その他にも副作用で皮膚科や眼科にもかかっています。

次にC型肝炎がどこで感染したのかについて説明します。
私は輸血をしたことはありません。ですから、輸血で感染したということはありません。また私の夫はC型肝炎に感染していません。しかし私の両親は二人ともC型肝炎に感染しています。両親も私も山内医院で治療を受けていましたから、山内医院での注射で感染したと思います。山内医院以外でC型肝炎に感染するような事情は全くありません。
私はよく風邪をひく身体の弱い子供でした。小学生のときは、風邪をひく度に山内医院に行き、注射を打ってもらっていた記憶があります。身体が熱くなるホット注射を打った記憶もあります。
山内医院に玄関を入ると、向かって右側に待合の長椅子がありましたが、待合室というよりはただの廊下のような作りでした。
診察室は10帖か12帖はあったと思います。先生は口数の少ない先生でした。私の症状を少しだけみては、容器から注射を持ってきて注射をしていました。
先生が注射器をもってきた、そのステンレス製の四角形の容器からはかすかな湯気は上がっていたと思います。
山内医院には小学校の5年生頃まで行っていました。その後は由仁にある牧野医院や柳沢医院に行っています。
山内医院には、看護婦さんや事務員さんはいませんでした。奥さんが会計をしていて、薬も奥さんが出していました。

先ほども述べたように、私の両親と祖父母も山内医院にかかっていました。祖父母がC型肝炎に感染していたかどうかは分かりませんが、両親は共にC型肝炎に感染しました。
私は、これまで辛い治療を受け、世間の偏見で傷つくこともありました。何故こんな思いをしなくてはならないのでしょうか。偏見はあってはならないし、これからも絶対ないようにしてほしいので、私は裁判に参加しました。
私がC型肝炎に感染したと分かったときは、信じられないくらいショックで、わけがわからず「なぜ、私が・・・」という言葉が頭の中を駆け巡っていました。
その当時、C型肝炎はとても治癒率が低く、殆ど治らない病気と言われていて、いつ、ウイルスが暴れ、肝機能が悪化し、病気が進むのではないかという心配が常にありました。
そしてもうひとつ、気がかりだったのは、夫や子ども達に感染していないか、という不安でした。後に検査したところ、感染していないことがわかり、胸をなで下ろしました。また、知人にも唾液や同じカミソリの使用で感染するのでは、親戚からは、夫に移っていないかと聞かれ、情けなくなりました。
C型肝炎が治療の結果治癒したのですが、治癒した後の体調の良さに驚き、普通の身体がこんなに軽く楽だったとは思いもよりませんでした。感染していなければ、両親や夫、息子に仕事で負担をかけることなく過ごせたのではないかと思うと悔しいです。裁判所には、C型肝炎に感染して苦しんでいる原告の実情を理解していただきたいと思います。

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ついにIFNフリーの時代到来(究極の内服治療剤)

2014年11月05日 13時42分28秒 | ニュース

①2005(平成17)年に東京都神経科学総合研究所と共同で、試験管内でC型肝炎ウイルスの培養に成功。

②ギリアド・サイエンス社ギリアド・サイエンシズ(Gilead Sciences)は、世界第2位の大手バイオ製薬会社であり、治療薬の発見、開発と商品化を行っている。
1987年の創業以来、HIV、B型肝炎、インフルエンザといった感染症治療のための抗ウイルス剤開発を、事業の中心としている。
ギリアド・サイエンシズは6月27日、新規機序の経口C型肝炎治療薬ソホスブビルを国内申請したと発表した。ゲノタイプ2型のC型肝炎に対して、リバビリンと併用して用いる。承認され
れば、ゲノタイプ2型のC型肝炎治療で初めて、インターフェロン(IFN)を必要としない経口併用療法が実現する。

申請は、国内臨床第3相試験(P3)と海外P3の結果に基づく。国内P3の対象は、未治療および治療歴のあるゲノタイプ2型の慢性C型肝炎ウイルス感染患者341例。1割強にあたる17人は肝硬変を有していた。1日1回投与タイプの核酸アナログ・ポリメラーゼ阻害剤ソホスブビルとリバビリン(600mg~1000mg/日)を12週間併用し、ウイルスの陰性化を評価したところ、12週時の持続性ウイルス学的著効(SVR12)が97%だった。有害事象による治療中止例はなく、副作用はリバビリン投与で見られる鼻咽頭 、炎、貧血、頭痛、倦怠感、そう痒症だった。

③なお、同社では2014年9月24日ゲノタイプ1型の慢性C型肝炎についても、ソホホビルとNS5A阻害剤レジパスビルとの配合剤を国内でも年内に申請する。
ギリアド・サイエンシズ ジェノタイプ1型の慢性C型肝炎治療薬ゲノタイプⅠ型ではレジパスビル(ledipasvir)・ソホスブビルは(sofosbuvir)配合で国内第Ⅲ臨床試験(400例)では、12週のレジパスビル/ソホスブビル(LDV/SOF)配合剤に
よる治療を受けた患者の100%が持続的ウイルス学的著効(SVR12)を達成。
LDV/SOF配合剤が認可された場合、C型肝炎治療は簡略化さら、ジェノタイプ1型HCV感染患者に対する1日1回1錠12週間の投与が可能にになった。
副作用は極めて少なかった。

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昔の釣行(アブラボウ)

2014年11月05日 13時24分02秒 | 釣行
この魚はメヌケと同じ600メートルにいる深海魚です。
しかし滅多に釣れる魚ではありません。
黒澤誠二さんがゲットしたものです。
残念ながら私たちの釣り仲間で釣り上げた人はいません。
前身、脂身でとろけるような味でした。刺身の味はメヌケより数段上でした。


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昔の釣行(メヌケ)

2014年11月05日 13時21分35秒 | 釣行
メヌケは新ひだか町の深海600メートルにいる魚で味は
極上(ごくじょう)で北海道の高級魚です。
この日はメヌケが7匹も釣れました。
写真左から黒澤誠二さん、国中るみ子さん、坂本文彦さんと私です。


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隠され続けた真実

2014年11月05日 08時54分00秒 | 猿島肝炎
「私が人生の終わりに皆様に知らせたい事」

昔も今も、権力がものを言わせる事は同じです。
私は現在肝臓がんと闘って闘病生活をしています。それは今から約50年前の1964年(昭和39年)頃、猿島町で原因不明の病気(猿島の奇病とつけられ)で全国的に有名となり、新聞・テレビ・ラジオ・各テレビ局などあらゆる報道員が来て、町では地下水が悪いと報道された。
町には何個しかないつるべ井戸やガチャンコ井戸等をテレビで放映、ふろの水には大腸菌がウヨウヨしていると水質検査で発表していた。
 私はその時には「奇病」と診断され、昭和42年5月31日に境協同病院(現西南医療センター)に50日入院し良くも悪くもなく自力で退院致しました。
この病気の恐ろしさは、3日でコロリ(死)と言うことで町内では60名以上は死亡したと聞いております。私が入院中も病室で友達、親戚の人が悲鳴を叫び、命を落とした。
その悲鳴の声は今でも鮮明に残っております。

その当時私達患者同志で原因を究明しようと、奇病になった50名からアンケートをとり30名から、開業医で何らかの病気で血管注射(静脈注射)を打っていた事がわかりました。私もその開業医に5月1日に疲れで血管注射(静脈注射)を打って、血液検査をしたところ正常でしたが5月31日には食欲も無くなり、足がだるく嘔気で開業医に行ったところ血液検査で肝機能260と異常な数値で即、協同病院に入院した。

その後アンケートの結果を投書した。投書先は境町警察署長・保健所長・県知事・県医師会長あてに投書、陳情した。後日地元県会議員の先生から報告があり医師会が強く議題にならないと返答があった。それから1カ月後、猿島郡の医師会に50万円の補助金がおり、そのお金で捨針を私が入院していた倉庫に山積みにされ、郡内の医院に配布され昭和42年10月には奇病が終息になってきた。

その後、日本医大より境町の橋本会館で中間発表があり、「猿島の奇病」は地下水が原因であると発表された。医者たちはどんな気持で聞いていたのか?私は心の中で疑問に感じていた。橋本会館の廊下にはなぜか医療業者が滅菌消毒の器具をずらりと並び置かれ、医者は真剣に説明を聞いていた。当時滅菌消毒器具の設備があるのは協同病院だけで、開業医はクレゾール・熱湯で消毒していた。悪質なのはどんぶり等にお湯を入れ注射器を通すだけ。
針は何人でも交換無し、井戸水が原因などと全くの嘘、原因は注射器の使い回しです
私は確信を持って物申し上げます。当時究明者には警察官も居ました。今はほとんどの者が死に、今頃になって肝臓がんで苦しんでいます。

平成22年12月30日 後世に残す為に書き残す

坂東市菅谷 板垣 令男(いたがき はるお)




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ウルソは自己免疫性肝炎の特効薬

2014年11月05日 08時37分59秒 | 自己免疫性肝炎治療について(ウルソ)
R.M、36才、女性。平成24年8月、黄疸で発病しました。
近くの病院に3週間ほど入院。肝機能検査は正常化しないまま退院し、外来通院で経過をみていましたが、よくならず平成24年9月21日当院受診となりました。
外来の検査では抗核抗体(蛍光抗体法)×160で、自己免疫性肝炎の疑い9月28日肝生検を施行し、 典型的自己免疫性肝炎と診断しました。
 当院初診時からウルソを投与しましたが、効果がなく10月19日からプレドニンを併用しました。
プレドニンは当初30mgから開始し、平成25年5月31日で中止となっています。中止後はウルソのみで肝機能は正常値を保ち現在に至っています。

プレドニンを長期にわたって使用すると満月様顔貌、多毛(体毛がこくなる)、脱毛、発汗異常皮膚の脆弱化(ぜいじゃくか=薄くなる)などの副作用があります。

ウルソ、別名熊の胆(くまのい)が自己免疫性肝炎に効果のあることを発表したのは、世界で私が初めてでした。
これにはわけがあります。私が医者になったときから肝臓が悪いというとツムラの漢方薬(小柴胡湯)が使われていました。しかし小柴胡湯(しょうさいことう)では肝障害は効果なく、肝がんの予防にもなりませんでした。
そこで若い先生の提案で小柴胡湯を肝障害のあるすべての症例をウルソに換えることにしました。
院内薬局からはひどい反抗に逢う結果になり、病院管理者も挙って抵抗しました。何故なら小柴胡湯は差益(収支の差額による利益)が大きい薬だったからです。
それにもめげず、1986(昭和61)年夏からウルソに全面的に換える作業を行いました。
そんな中で自己免疫性肝炎にウルソが効果のあることを発見し、1993(平成5)年9月神戸で開催された日本消化器病学会シンポジウムで発表しました。
更に日本肝臓学会の推薦で肝臓学会の英文雑誌に自己免疫性肝炎の4症例を掲載しました。
以下は英文雑誌の抜粋です。





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猿島の奇病

2014年11月05日 08時30分08秒 | 猿島肝炎
私たちは「猿島の奇病」の原因を明らかにすべく、平成26年6月28日から7月8日の11日間、猿島を考える会(代表 鶴巻 進)主催の肝がん検診を実施した。
この検診では肝機能検査、肝炎ウイルス検査、腫瘍マーカー、超音波検査を行ったが、あいまに積極的に50年前の「猿島の奇病」についても聞き取り調査を行い、それらを参考にして「猿島の奇病」について書いたものである。

1.「猿島の奇病」とは、昭和37年から昭和43年にかけて茨城県坂東市猿島(旧猿島町)に大流行した肝炎のことである。
猿島町は逆井・山(さかさい・やま)村と生子・管村(おいご・すが)村、沓掛村が昭和30年2月合併し富里村になり、昭和31年4月猿島町になった。
当時の猿島町の人口は約1万5000人であるが肝炎が流行したのは逆井・山(さかさい・やま)と生子・菅(おいご・すが)の2地域であり、この人口約8700人であった。
肝炎は、10才未満の子供ではなぜか発症をみなかったが、流行地での10才以上の人口は約6100人になる。
町のデータによると、昭和38年から昭和42年まで肝炎を発症した人は776人であり、猿島肝炎の発症者は流行地では約13%ということになる(図1)。
猿島は、都心から50kmしか離れてないとはいえ、交通の便もきわめて悪く不便な場所で、猿島肝炎の流行地は蜘蛛巣状の平坦な地形で、道路も狭く車が一台通るがやっとである。
外部の者が行っても迷うばかりで、カーナビの効果はないという。
こんな田舎の農村に突然肝炎(沓掛は除く)が大流行したのである。
肝炎の流行を初めて知ったのは当時の日本医大公衆衛生学教授、乗木秀夫(のりき ひでお)であった。
たまたま昭和38年暮、寄生虫対策を行うために猿島を訪れたが、肝炎の大流行にぶつかり寄生虫対策どころでなくなったといっている(新しい医院 5:(6)92-98,1964)。
この年、昭和38年度の古河市・境町・総和町・猿島町・三和町・五霞村の6市町村での肝炎に於ける死亡者は79名であるが、そのうち猿島町では26人で、これは同町の死亡者の18.3%(他の5市町村では平均 5.2%)であり、いかに同町で肝炎が猛威をふるっていたかが解る(境町生活史資料編p1078)。
また猿島町の昭和38年度肝炎死亡者数は肝炎102人中27人、26%で、昭和38年から昭和42年までの肝炎発症者数は776人中61人で死亡者数は7.9%であった。
乗木秀夫は、この猿島肝炎を「猿島の奇病」と宣伝したので、猿島の肝炎が「猿島の奇病」と呼ばれるようになった。
乗木は町から肝炎対策を一任され、猿島(旧富里村)役場に対策本部を置き、乗木を含め5人の教室員が派遣された(境町p1078)。
猿島での肝炎大流行の時、総務課長として乗木秀夫に協力した、第6代町長(昭和61年~平成13年)木村好(きむらよし)(大正14年4月1日生)は、乗木は勿論、柚木斉(ゆのき ひとし)、吉川楽など3人の名前を覚えていた。
猿島の奇病についていち早く報道したのは朝日新聞であり、昭和39年1月26日付けで「それにしてもなぜ2年間も(こう言い切れるかどう疑問)このような奇病の続発が外部に知られず放置されてきたのか」と疑問を投げかけている。
乗木秀夫 日本医大公衆衛生学教授は、猿島に着くとすぐ原因は水の汚染によるものあると結論づけた。
また当時地下水のポンプ(ガチャポン)による汲み上げあったが、NHKでは「つるべ井戸」を撮影させ、食事時にも魚や肉が食卓に出ているとテーブルから下ろさせたものを放映した。
貧しい、タンパク質も取らない農村を強調したかったのである。
「猿島の奇病」が大々的に報道されるにつれて、風評被害も大きくなり、猿島の野菜の値崩れがおきた。
他の町では、差別を恐れて、猿島出身者であるとは言えなった。
「猿島の奇病」は水が原因と思い込ませられた住民は、劇症肝炎で死亡した人の葬儀の手伝いには手弁当で行くしかなかったという。
 乗木秀夫らは、対策本部を立ち上げると同時にの集会所で肝臓病学者のために健康な人も含めて1000人を超える人の採血を行い、血清を保存し、また劇症肝炎の肝臓も冷凍保存したという(新しい医院 5(6)92-98 1964)。
 精力的に活動した乗木らは翌昭和39年2月29日、今後は猿島肝炎の原因究明ではなく、肝炎にならない環境づくり(過労を避け、タンパク質を取る)をすることが必要であると強調し、毎月29日を肉の日とすることを提案し、東京に帰った。
 昭和39年1月30日の朝日新聞の記事によると、厚生省は同省の諮問機関である伝染病調査打ち合せ会に「流行性肝炎に関する特別部会」を設けることを決めた。
このメンバーは、柳沢謙(国立予防衛生研究所副所長)、北岡正見(同ウイルスリッケチア部長)甲野礼作(同中央検査部長)、多ヶ谷勇(同腸内ウイルス部長)、松田心一(同疫学部長)、北本治(伝染病研究所付属病院長)、佐野一郎(国立第一病院内科部長)、乗木秀夫(日本医大)であった。
このメンバーは、もと東大付属伝染病研究所(現医科学研究所)に所属していたもので、乗木秀夫も学生時代から伝染病研究所に出入りしていた。
 佐野一郎、北本治も「猿島の奇病」調査時は現地入りしている(新しい医院 5(6)92-98 1964)。
 猿島肝炎は当初から、伝染病に準じた扱いをしており、このことは猿島で発生した肝炎は、どこの医療機関にかかっても町役場に届けなければならないことを意味する。
したがって町の肝炎発症数が最も正しいということになり、肝炎発症数は776人である(図2黄)。
ところが乗木秀夫・柚木斉(ゆのき ひとし)(昭和45年発表)の肝炎発症数は、彼らが疫学調査を入ったあと猿島肝炎は収まったかのようになっている。 
乗木・柚木の作ったグラフでは正確に計算出来ないが、昭和39年の発症数は145人で、町のデータでは384人と大幅に異なっており、また彼らは発症総数を公表していないが、グラフから数えると猿島肝炎発症数は約742人となる(図2、青)。
同教室の昭和58年若山葉子が公表した統計によると、7年間で678名(男398名、女280名)というが、これも町のデータとは違う。
唯一、合致しているのは、昭和38年の発症数のみである(図2、青)。
ところが日本医大公衆衛生の乗木・柚木と同じ教室の、若山の年度別肝炎発症者数は不思議なことに違っている。 
日本医大公衆衛生学の教室、乗木・柚木(昭和45年発表)および若山(昭和53年発表)の月別発症者数は見事に異なっている(図3、青と赤)。
乗木・柚木は、彼らの疫学調査で肝炎が収まったと思わせたいために作ったデータあることだけは確実であるが、両者のデータが驚くほど異なることについては全く理解できない。

2.乗木秀夫が帰京後に柚木斉は、猿島協同病院を拠点として、猿島に週2回やってきた。
彼は町の公用車で、1回来るごとに20件ほど家庭訪問し採血した。
町の専属の運転手がいないときには、保健衛生課の職員が運転手を代行したが、最初は柚木以外に1~2人同行したが、そのうち昭和50年頃から柚木斉1人になり、平成元年からはまったく来なくなったという。
彼は奇異な行動を取った。
ある人は肝がんで亡くなった父(68才)の次に何回か採血をうけており、その結果現在ではC型慢性肝炎になっているという。
採血はただだったからやって貰ったという。
また別の人は、弟が昭和48年正月頃黄疸になり、その後兄とともに昭和51年4月に食品工場を立ち上げた。
食品工場を柚木が訪れ、弟から兄の順に何回か採血され、最後に採血した平成元年、初めて肝障害を言われた。
柚木はこれを最後に猿島に顔を見せなくなったが、いま兄は肝がんで何回も治療を続けている。
また夫婦が畑で採血された風景も目撃されている。
猿島には3軒の開業医がいたが、このうち塚原久(つかはら きゅう)は朝6には診療し、夜は8時くらいまでで、昼には往診にも応じていたので、猿島の人たちにとっては便利な開業医であった(図4)。
暇があれば海外旅行にも出かけ、よく働き、よく遊ぶ医者であった。
ところが塚原は注射器具の使い回しをしていた。
彼に往診して貰った3姉妹は、いまC型肝硬変である。

昭和35年頃には、トランスアミナーゼ(GOT・GPT)の測定ができるようになり、黄疸でしか肝炎を診断できなかった時代が過ぎ、黄疸の出ない肝炎の研究が飛躍的に進歩した。
 北本治(東大付属伝染病研究所)は、1960年12月から1961年8月まで結核予防会結核研究所、国立東京療養所、国立清瀬病院、関東逓信病院、八王子医療刑務所の5施設の共同研究で、手術予定者240人について肝機能検査を行い、術前に肝障害の疑われたものを除いた179人について輸血後肝炎の発生様式について検討した。 
輸血後肝炎は、179人中114人、63.7%に合併し、黄疸発症例は22.6%であった。
潜伏期のピークは2~6週にあったが、2週以内のものに最も多く、輸血量と発症率の関係では、輸血量が増えるとそれに伴って輸血後肝炎も増加し、供血者集団には8~9人に1人の肝炎ウイルスキャリアがいることを推定している。
 供血者集団に麻薬、覚醒剤などを習慣にするものが多く、彼らは注射器による感染で感染し、その後キャリア化したとしている。
また供血者間の採血用具を通じての感染も絶無では無いと言っている(肝臓:4(4)23-28、1962)。 
これはきわめて興味深いことである。
上野幸久(自衛隊中央病院)は、昭和32年6月より昭和37年6月までに経験した血清肝炎の症例は179人である。
うち血清肝炎の発症率は、胸部外科手術後の症例では診断確実なものは28.7%であり、このうち肝生検を行えなかった不確実例を入れると63.9%に達したという。
急性期を観察できた161例中、劇症型の経過をとったもの4例は死亡し、1例は肝硬変に移行しており、血清肝炎の慢性化率は30.2%と高率であった。
このなかには心臓手術時、多量の出血をきたしたためGOT1080、GPT810いうトランスアミナーゼ高値の血液を輸血したところ、6週目に定型的な肝炎をおこした症例や、GOT167、GPT102の血液を輸血し輸血後肝炎を発症した症例もあり、輸血後肝炎の予防には異常供血者を除外しなければならないとしている。
輸血後肝炎を除外するには、「病院や医院における消毒については、すべて乾熱滅菌するのが望ましい。 不完全な消毒は血清肝炎を蔓延させるようなものである」とし、不潔な注射器具の使用に警告している(肝臓:4(4)17-23、1963) 。

3.乗木秀夫は、「伝染性肝炎―基礎的立場から(猿島肝炎を経験して)」で、1963(昭和38)年1月より茨城県猿島に多発した肝炎事件については、いまなお組織的に活動している。
この間臨床、病理を中心とした専門家の協力をうけた。
多くの協力者の取捨選択することもなく幸いよき教室員に恵まれこの事件に取り組んでいる(柚木斉退官記念猿島肝炎研究業績集、1988)と、述べている。
 猿島協同病院とは1948(昭和23)年3月に設立された茨城農協の病院で、1994年4月には厚生連茨城西南医療センター病院となっている。
もともと猿島共同病院は結核病棟主体の病院で、1964(昭和39)年10月、猿島協同病院に日本医大公衆衛生学教室から派遣された検査技師、磯目益男(いそめ ますお)は、この頃の病院について「猿島協同病院に到着して唖然とした。 まさにタイムスリップ これが病院か?……。 雑草とアメリカシロヒトリ(毛虫)、そして院内は暗く、さながら化け物屋敷といわざるを得ない。 昔の岐阜の山奥や会津八田村の無医村診療所時代の方が、はるかに明るく感じられた。」と語っている。
また誰も行きたがらない病院に、昭和36年4月から昭和37年9月まで、北海道の根室保健所の所長で勤務していた稲垣光男が派遣されたのである。
つまり昭和38年の初めから乗木秀夫は、猿島肝炎については知っていたのである。
また昭和30年代から猿島協同病院(農協病院)では、境町で巡回診療をしていたが、稲垣光男が赴任と同時に検診車に乗り込み、不潔な注射針で採血した可能性も皆無とは言えない。
「猿島の奇病」は、日本医大公衆学教室が塚原久を利用して、肝炎が注射針で広がることを証明するための野外実験と考えれば、すべて理解できる。
 西雅明(現つくば学園病院)によると、1967(昭和42年)国立公衆衛生院疫学部長の重松逸造を委員長とする茨城県肝炎対策委員会が発足し、調査研究を始めた。
翌年1月に、予防法の要点として、県の衛生部を通し、開業医が注射器使用の際、特に注射針の消毒を厳重にするよう指導した(茨城西南医療センター病院五十年史、181-207、1997)と、述べられている。
つまり猿島肝炎は、「注射器肝炎」であることが明らかにされ、以降やっと猿島肝炎は終焉に向かったのである。






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八尋先生との会談

2014年11月04日 14時04分03秒 | ニュース
ヒルトン福岡シーホークホテルにて、今年の12月で還暦を迎える八尋(やひろ)光秀弁護士(西新共同法律事務所)と久し振りの対面をしました。話はC型肝炎問題におよび「やはり東京で裁判が起きなければ全国的な注目を集めることはできません」との彼の意見にその通りだと思いました。
また、「薬害C型肝炎訴訟全国原告団代表の山口美智子さん」への、北海道での講演依頼を提案して頂きました。


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放送大学公開シンポジウムに行ってきました(2)

2014年11月01日 11時18分35秒 | ニュース
シンポジウムは11月1日佐賀で行われました(13:00‐16:30)。
その夜福岡の野田健次さんと会い、博多の祇園でフグ料理を食べました。
フグは今まで食べたものと違い、刺身は何倍も厚く、唐揚げも大きいものでした。
フグだけでお腹が一杯になりました。
お値段は破格に安いものでしたが、味は満足するものでした。


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放送大学公開シンポジウムに行ってきました(1)

2014年11月01日 10時00分21秒 | ニュース
11月1日(土)放送大学 公開シンポジウム
「歴史に学ぶ先進医療(1)」「佐賀アバンセホール」13:00ー16:00
このシンポジウムの基調講演は「なぜ佐賀では肝がんが多いのか?(2)」と題して国立国際医療研究センターの
溝上雅史氏が行った。
彼はいつものように、分子時計(ウイルスの塩基配列の置換や欠失がほぼ一定であることを利用して生物学的進化上で分岐した年代を推定すること)の話からはじめた。分子時計によれば日本にC型肝炎ウイルスが入ってきたのはシーボルトが来日し(1823)、西洋医学を広めた時期に一致しているとしていた。
また1920年(3)になって、日本住血吸虫症の患者に対してスチブナール(静脈注射)が一本の注射器で針も注射器も換えないで何人にも行われた(4)の為にC型肝炎は日本住血吸虫症の流行地で流行したことを話した。

私の感想としては、分子時計といえどもいくらかのずれはあるはずで、全てが正確ではないと思われた。
彼は話さなかったが、宮川米次がスチブナールを発見したのは1922(大正11)年でその年から甲府(山梨県)の三上三郎が治験を始めている。
つまり治験の時から注射器具は使い回されていたのである。
更に1961(昭和6)年からは(法律第56号)寄生虫病予防法でスチブナールの強制集団接種が行われた。
この為、流行地の医者は静脈注射をするときに使いまわしにするのが普通になり、佐賀・福岡などの日本住血吸虫症の流行地が、肝がん多発地帯となったのです。





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