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またもや“天皇利用”で中国が得る大きな成果。 天皇訪中を実現させて「天安門」制裁を鎮静化

2020-01-15 13:05:48 | 習近平

またもや“天皇利用”で中国が得る大きな成果

天皇訪中を実現させて「天安門」制裁を鎮静化

2020.1.15(水) JBpress  古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授

中国の習近平国家主席(2020年1月6日)

 

 2020年春に中国の習近平国家主席を国賓として日本へ招くという計画が論議を呼んでいる。

この来日での最大のイベントは、天皇による接遇である。

 

 中国は自国民への苛酷な人権弾圧や海洋での軍事拡張で国際的に非難されているが、国家元首が

日本の皇室に丁重に接待されるという構図が中国の対外イメージの改善につながることは確実だろう。

だからこそ中国側は習主席訪日に並々ならぬ熱意を示すのだ。

 

 実は、中国当局によるこの種の「日本の天皇の政治利用」は1990年代にもみられた。

天安門事件における自国民虐殺で国際制裁を受けた当時の中国政府が、日本の天皇の来訪を

突破口にして「制裁打破」へと動くことに成功した。

 

 この中国側の計算を、当時の外務大臣だった銭其琛氏が回顧録で明言している。以下では中国側の

日本の天皇利用戦略を再現して、今後の日中関係のあり方を考える指針としよう。中国側の

対日戦略の読み方の一助ともなるだろう。

 

制裁打破への「突破口」にされた日本

 中国共産党政権は1989年6月4日、民主化を求めて北京の天安門広場に集まっていた多数の

市民を武力で弾圧した。死傷者数は数百とも数千とも言われる。世界の主要各国、とくにいわゆる

“西側”の民主主義諸国は激しく反発し、G7の主要7カ国が中心となって中国との交流や経済上の取引、

援助などをほぼ全面的に中断した。

 

 日本もその措置に加わっていたが、中国は日本を突破口とする対応策をとった。なかでも日本の

天皇を中国に招くことが、中国への制裁を緩和させる最大の外交手段として位置づけられていた。

そうした日本の天皇利用の戦略は、天安門事件の翌年1990年から練られ始めていたという。

 

 中国側のこのあたりの実情は、当時の銭其琛外相の回顧録に詳しい。『銭其琛回顧録 中国外交

20年の証言』という書籍にその内容が記されている。同書の日本語版は2006年に東洋書院から

刊行された。訳者は、読売新聞で長らく中国専門記者として活躍し、現在は国際教養大学教授を

務める濱本良一氏である。

 

『銭其琛回顧録』の内容の一部を紹介しよう。

 

 まず天安門事件からわずか2カ月後の1989年8月の時点の状況として、銭氏は以下のように

記している。

 

「中国に対して共同で制裁を科してきた国々の中で、日本は終始、積極的ではなかった。

先進7カ国首脳会議の中国制裁決議に、日本は西側各国と歩調を合わせるために、なんとか同意は

していた。

 

 1989年8月1日、私はパリのカンボジア問題国際会議に出席したとき、日本の三塚博外相と会談した。

彼は私に対して、『半月前に開催された先進7カ国首脳会議で、日本は中国のために釈明し、

西側の対中制裁をエスカレートしないよう説得した』と語った。中国が安定を回復するのにともない、

日本は90年には第3次対中円借款(ODA)を開始した」

 

「日本は西側の対中制裁の連合戦線の最も弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずと最もよい突破口となった」

 

 以上のように中国は、人権弾圧で国際的な非難を浴び制裁を科されると、その窮状から抜け

出るために、まず日本を「突破口」にする戦略を立てた。そして、その「突破口」の中核として

照準を合わせたのが日本の天皇だった。

 

 銭氏はさらに述べる。

 

「当時、われわれは日本がこの方面で一歩先んじていくように仕向けていた。西側の対中制裁を

打ち破るだけでなく、さらに多くの戦略的な配慮があった。すなわち双方のハイレベル往来を通じて、

日本の天皇の初めての訪中を実現させるよう促し、中日関係の発展を新たな段階に推し進めること

だった」

 

「中日2000年の往来の中で、日本の天皇が中国を訪れたことはなく、天皇訪中が実現すれば、

西側各国の科した中国指導者との交流禁止令を打破できることになる」

 

結局、中国の狙いどおりに

 このように中国政府が、天安門事件での懲罰措置を打破するために日本の天皇を政治利用すると

いう意図は明白であった。そして中国政府はそのための対日工作を着々と進めていった。

銭氏はさらにこう述べる。

 

「天皇訪中の実現までには、非常に細かい多くの仕事があった。まず両国外相の接触を強化する

ことから始めねばならず、両国の元首が相互訪問の実現に向けての良好な雰囲気作りを行った」

 

「(1991年には中国側は日本との外相、蔵相、通産相、さらには首相などのレベルの相互交流を重ね)

91年8月13日、海部俊樹首相が北京を訪れ、西側が対中制裁を科して以降、訪中した最初の西側政府

首脳となった。日本は名実ともに対中制裁を解除し、両国関係の修復作業が完了したことを表していた」

 

「日本は唯一の原爆被爆国であり、中国は日本人民の核拡散防止への関心の深さを理解できるので、

海部首相の訪中に合わせて、中国は原則的に『核拡散防止条約』に加盟することを宣言した」

 

 以上のように中国は天皇の訪中を実現させるために、まさに至れり尽くせりで日本に

外交サービスをしてみせるのだった。日本が被爆国であることにまで気を遣うという徹底ぶりだった。

 

 さらにダメ押しとなるのが次の記述である。

「1992年4月6日から同10日、江沢民総書記は日本を訪問し、日本各界各層と幅ひろく接触し、

中日友好および天皇訪中で両国関係を発展させる重要な意義を強調し、日本側の疑念をさらに

払拭した」。

 

 当時、日本では天皇訪中に反対する意見も広範に存在した。天皇訪中が中国側の政治的な意図

からであり、国際社会には今なお中国政府の人権弾圧に対する強い抗議がある、というのがその

理由だった。それらの指摘は、2020年の現在とも共通している。

 

 だが、天皇訪中は結局中国側の狙いどおりに実現した。天皇は1992年10月23日から28日にかけて

中国を訪問した。

 

 天皇訪中の中国側にとっての成果について、銭其琛元外相は以下のように書いていた。

 

「日本の天皇による訪中は、2000年に及ぶ両国間の往来の歴史で初めてのことであり、これによって

中日関係は、新たな水準へと押し上げられたのである。同時に、日本の天皇がこの時期に訪中した

ことは、西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮したのであり、その意義は明らかに

中日の二国間関係の範囲を超えたものだった。

 

 中日関係の修復と大きな進展につれて、西側の対中制裁のもうひとつの部分である欧州共同体

(EC)の立場にも、やや軟化の兆しが見え始めた」

 

 天皇訪中が中国側にもたらした恩恵は、以上の記述に尽きるだろう。要するに、天皇が中国に

友好を示したことは、中国への国際的な経済制裁の緩和に役立った。そのことは日中二国間関係の

発展よりも中国にとってははるかに重要だった、というわけだ。

 

同じことをしようとしている習近平

 中国政府の日本の天皇に対するこうした態度は、現在の中国の対日融和の姿勢や、習近平主席の

天皇への接触の思惑と酷似しているといえよう。

 

 習近平主席が、日本の天皇の賓客となることで国際的にプラスのイメージを発信し、近年の

人権弾圧や軍事膨張に対する諸外国からの圧力を緩めようとしていることは明らかだ。

そんな実態は、1992年の天皇訪中に対する当時の中国側外交責任者の回顧からも証明されて

いるのである。

 


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