『新潮』の森田真生くんの「計算と情緒」を読みました。僕がいま合気道の稽古で考えていることと、ほとんど同じことを森田くんが数学について考えているのに改めて驚きました。というか、森田くんから岡潔とチューリングの話を何度も聴いているうちにアイディアがかたちをとったのかも知れません。
「計算や論理が知性を支えているのではなく、脳内の自然過程の方が計算と論理を支えているのであって、その自然過程の方について私たちはいまだ『ほとんど理解していない』というノイマンの言葉は、半世紀経ったいまでも、そのまま通用するのではなかろうか」(森田真生「数学と情緒」)
客観的で均質的な拡がりを持つ空間と時間の中で「私はどのように動くべきか」と問いを立てるのではなく、主観的で混質的な時間と空間の絡み合いで形成されている環境が要求する最適の動きをそのつど先駆的に実現してゆくこと。「最適解を先駆的に実現する」って論理的にはありえないんですけど。
でも、最適解って、事後的に「あれは最適解だった」という話を本人が納得すれば、何でもいいわけですよね。時間を遡って「それとは違う動き」をした場合に何が起きたのかを再現する手立てがないんですから。
経験が教えるのは「私は最適解を先駆的に把持しているので、その設計図通りに動いている」と断定して動いた場合と、「ええと、次はどうしたらいいんだろう?」とそのつどの決断に十分な情報入力を待っている場合では、動きの速さも強さも精度も、何より場の主宰力がまるで違うということです。
空間も時間も「情緒」によって歪形する。時間意識を「ちょっと前のめりさせる」だけで時間は実際にたわみます。でも、時間意識を「前のめり」させるためには、体感の裏づけが必要です。「まだそこにないもの」を「そこにある」とほんとうに感じられないと時間意識はいじれません。
レヴィナスの「時間は主体と他者の関係そのものである」という命題と澤庵禅師の「天地未分陰陽不到の処に徹して功を得べし」という命題は同じひとつの事態についての別の言い方ではないか、というアイディアのまわりをこのところぐるぐる回っています。
いくら振り返っても最適解って思ったことがないんだけど、、、どうしよう。
分かった!俺がネガティブで不満ばかり考えるのは「違う選択肢ならもっといい人生だった」と考えるからだ。最適解に思わないような思考だからだな。
「自分はけっこういい選択肢を選んできたよ」と自己肯定すれば(出来れば)自分に自信が持てるかもね。
昔ある先生に「ぼく別に何も食べたくないのに、ふと気がついたら冷蔵庫に手をかけてることあるんですよ」と言ったら、「そんなの当たり前だ。僕なんか気がついたら無意識のうちに研究室出て階段を降りてたことある」と、謎の対抗意識を示されたことがある。
余命わずかな少年に最後のクリスマスを、町が総出で演出 米 cnn.co.jp/usa/35039492.h… @cnn_co_jpから
トンネルは必ず出口がある #ついてたら怪しい気がする言葉 景況はトンネルじゃねぇ
記録に残っていない部分も娘に伝えたいと思うけど、まだわからないだろうし、今はまだわからなくてもいいのかな、とも思う。世界は、ひとりの心のなかにしまわれたまま、その人が死んだら消えてしまう記憶で満ちてる。そのことがずっと気になって、生きてる。
娘が生きているんだと実感したり、ずっとついていてくれた助産師さんにじわーっと感謝して、自分もがんばっていかなければいけないんだなあ、と思ったりした。でも、ビデオにはそういう風景は映っていない。あのころは記録しなくてもいいと思ったけど、自分のために記録しておくべきだったのかな。
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