自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

地涌の菩薩について②

2020年09月30日 09時55分45秒 | 日蓮仏法再考
 昨日の記事では、地涌の菩薩のあらましについて少し書きました。この地涌の菩薩の意義とは何なのか、ただ単純に末法に出現して法華経を弘める菩薩という事だけなのか。そこいら辺について、もう少し考えてみる必要があると思うので、この場を使ってすすめてみたいと思います。



◆地涌菩薩とは
 地涌菩薩は五百塵点刧という久遠の昔から、久遠実成の釈尊が教化してきた菩薩であると説かれています。そしてこの菩薩達は、法華経以前の経典でも姿を現した事はなく、法華経以降の経典(涅槃経)にも登場していません。

「阿逸多、是の諸の大菩薩摩訶薩の無量無数
 阿僧祇にして地より涌出せる、汝等昔より
 未だ見ざる所の者は、
 我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提
 を得已って、是の諸の菩薩を教化示導し、
 其の心を調伏して道の意を発さしめたり。」

 従地涌出品で釈尊は、六万恒河沙という膨大な菩薩達を、自分が成道してから教化してきた事を明かしました。しかしこの従地涌出品第十五の段階では、これを説いている釈尊自身は始成正覚という、この世界で始めて成仏したという立場なので、弥勒菩薩を始め、虚空会に参集した多くの菩薩や二乗等の人達に疑念を生じさせる事になったのです。

 いわば法華経の如来寿量品というのは、この地涌の菩薩の出現を契機として説かれる事になり、そこで釈尊は久遠実成という仏の姿を説く事になりました。そういう観点からすれば、久遠実成の釈尊という、法華経で説かれる久遠実成の仏の姿を現すための役割を担っている菩薩という事なのかもしれません。

◆末法の法華経弘教の主体者
 創価学会や日蓮正宗などでは、末法に法華経を弘め、広宣流布するのは地涌の菩薩の専権事項という感じで捉えています。正法(仏滅後千年まで)や像法(仏滅後千年から二千年まで)の間には、四依の大士と言われる天親菩薩や龍樹菩薩、また天台大師は薬王菩薩の再誕と呼ばれていますが、それぞれ迹化の菩薩が出現して法華経を弘め、末法で法華経を弘通するのは地涌の菩薩だけと言われています。そしてその末法で弘めるべき法華経とは、上行菩薩の再誕、本地久遠元初自受用報身如来の日蓮大聖人の仏法だと言うのです。

 しかし、そもそも久遠実成の釈尊をも「迹仏」という様な久遠元初の本仏というのは、天台宗恵心流の中古天台から派生したものであり、その様な思想は法華経にはありません。また確かに法華経では総付嘱や別付嘱(結要付嘱)はありますが、総じて仏滅後の法華経の弘教を託されているのです。また前の記事にも少し紹介しましたが、法華経薬王菩薩本事品第二十三では以下の様に説かれています。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。
 我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
 断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に
 其の便を得せしむることなかれ。
 宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。」

 ここでは「後後の五百歳の中」と末法を指し示して、その時に広宣流布する事を、釈尊は宿王華菩薩に託しています。そういう事から考えると、末法の広宣流布というのは地涌の菩薩の専権事項という事でも無いように思うのです。

 創価学会の一部では「私達は地涌の菩薩の眷属だ」と自任する向きもあったりして、場合によっては、日蓮が久遠元初の本仏であるという観点から、釈迦は自分達とは無縁の仏、だから従来の仏教など学ぶ必要は無いという様な雰囲気もあります。しかし結果としてそれが仏教という、そもそも自分達の源流ともいえる宗教に対する無関心を生んでしまっているのではないでしょうか。

◆経典中の仏菩薩について
 日蓮は蒙古使御書の中で、以下の様に語っています。

「所詮万法は己心に収まりて一塵もかけず九山八海も我が身に備わりて日月衆星も己心にあり」

 また戸田会長も法華経講義では以下の様に語っていました。

「その何十万と集まったのは釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩なのです。 何千万おたってさしつかえない」

 そういう事から考えてみれば、法華経の中に説かれている菩薩等の姿も、それぞれが一人ひとりの心の中にあると捉えるべきであり、何かどこかに菩薩が居て、そんな菩薩は時々に娑婆世界に生まれ出てくるというものでは無いと思うのです。そして地涌の菩薩という事も、そんな一人ひとりの己心の中にある存在であり、何も特別な存在ではない様に私は思います。


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地涌の菩薩について

2020年09月29日 11時12分31秒 | 日蓮仏法再考
 天気も秋らしくなってきましたね。自宅で仕事をしていても、エアコンを点けづに部屋に居れる様になりました。そういえば昨日、富士山に初冠雪があり、例年よりも2日早く、昨年よりもかなり早い初冠雪だったとありました。地球温暖化が言われているのに、少し「あれ?」と思いましたが、もう秋も半ばになってきたんですね。

 さて、今回は「地涌の菩薩」という事について、少し書いてみたいと思います。この地涌の菩薩とは、法華経の如来寿量品第十六の前の章である、従地涌出品第十五で登場する菩薩です。(創価学会や日蓮正宗の人は既に既知の事ですね)まずはその登場の部分から紹介します。



 従地涌出品以前の章で、釈尊は自身が入滅した後に、誰がこの法華経を娑婆世界に弘教するのか、虚空会にいる菩薩達に問うていました。しかし菩薩達は娑婆世界は悪世で悪比丘が多いので、他の場所でこの法華経を弘める事を誓っていました。しかし釈尊はそれを認めず、その釈尊の心を知った菩薩達は、滅後の悪世に於いても堪え忍んで法華経を弘める事を決意しました。(勧持品第十三)
 そして文殊菩薩が、仏滅後にどの様に法華経を弘めたら良いかという問いに対して、四安楽行という修行法を釈尊は説きました。(安楽行品第十四)

 従地涌出品第十五はこういった前置きがあって展開されているのです。この従地涌出品第十五の冒頭、以下の事が説かれています。

「爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の
 八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し
 合掌し礼を作して、仏に白して言さく、
 世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に
 在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し
 書写し供養せんことを聴したまわば、
 当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。」

 ここで虚空会に参集している菩薩達は、釈尊滅後において、この娑婆世界の中で法華経を弘める事の決意を述べました。しかし釈尊はこの決意を止めるのです。

「止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。
 所以は何ん、
 我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。
 一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。
 是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く
 此の経を説かん。」

 ここでは「止みね、善男子」と決意を止める事を菩薩達に釈尊は告げます。そして「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と、菩薩達の決意を言下に却下したのです。そしてその理由を「この娑婆世界には私の弟子である六万恒河沙の菩薩が居る」と言い、その菩薩達にはそれぞれ六万恒河沙の付き従う人がいる事を明かし、この菩薩達が釈迦の滅後に法華経を弘めていく事を宣言したのです。

 するとそこで地涌の菩薩が出現してきます。

「仏是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土
 地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩
 あって同時に涌出せり。 
 是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相・無量の
 光明あり。
 先より尽く娑婆世界の下此の界の虚空の中に在って
 住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を
 聞いて下より発来せり。」

 ここでは「三千大千の国土皆震裂して」とありますが、全宇宙の大地が大揺れに揺れて、地面が裂け、そこから無量の菩薩達が同時に出現したのです。そしてこの菩薩達の姿は仏(釈尊)と同じ姿をしており、光り輝いていました。またこの地涌の菩薩は多様な姿をしていたのです。

一一の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり。
 各六万恒河沙等の眷属を将いたり。
 況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の
 眷属を将いたる者をや。
 況んや復乃至一恒河沙・半恒河沙・四分の一・
 乃至千万億那由他分の一なるをや。
 況んや復千万億那由他の眷属なるをや。況んや
 復億万の眷属なるをや。
 況んや復千万・百万・乃至一万なるをや。
 況んや復一千・一百・乃至一十なるをや。
 況んや復五・四・三・二・一の弟子を将いたる者をや。
 況んや復単己にして遠離の行を楽えるをや。」

 各々の菩薩は人々の「唱導の首」、これは信仰者のリーダーであると云うのです。しかしそこには膨大な人々を率いている姿もあれば、少人数の場合もあり、一人でコツコツと道を修める姿もあるのです。そして全宇宙規模のこの大菩薩集団には、四人のリーダーが居ました。

是の菩薩衆の中に四導師あ。
 一を上行と名け、二を無辺行と名け、
 三を浄行と名け、四を安立行と名く。」

 そしてこの地涌の菩薩達は、釈尊の前で挨拶をするのですが、この一連の様子を見ていた弥勒菩薩が大きな疑問を持ち始めるのです。その疑問とは次の様なものでした。

 ◆六万恒河沙という莫大な菩薩を、私は釈尊が
  成道してから見たことが無い。
 ◆それぞれの地涌の菩薩達の容姿は、とても威厳
  があり、それと比較すれば釈尊はまるで赤子の
  様な姿に見えてしまう。
 ◆釈尊が出家してからたった四十余年という期間の
  間で、どうしてこの様に多くの菩薩を教化すると
  いう偉業を為すことが出来るのか。

 この弥勒菩薩の疑問に答える形で、次の章である如来寿量品第十六で、久遠実成が明かされる事になるのです。

 この地涌の菩薩とは、日蓮自身が自覚の上では上首(リーダー)である上行菩薩の再誕であると考えていた事、また「地涌の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なり」と語っている事から、末法に法華経を弘めるのは皆が地涌の菩薩であると、創価学会や日蓮正宗関係では述べています。そしてその他の迹化の菩薩と言われる地涌の菩薩以外の菩薩は、末法の世界には出現しない様な事も語っています。

 しかし法華経後半で、釈尊より後々の五百歳への広宣流布を託されたのは、無名の宿王華菩薩でした。

 この事から考えてみると、地涌の菩薩の出現とは、単に末法の法華経の弘教の主体者を示すだけの事では無いと思うのです。この事について、少し考えた事を、これから書いてみたいと思っています。

(続く)

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宗教貴族という事について思う事

2020年09月25日 17時48分45秒 | 思う事
 間もなく「シルバー・ウィーク」が終了します。私の仕事も今週はかなり暇でした。ほとんど開店休業状態で、会社貸与のノートPCの前でメールを眺め、ボーっとしていた感じです。
 私の若い頃、長期の休暇といえばゴールデンウィークと夏季休暇、年末年始休暇だったんですが、ここ数年で「シルバー・ウィーク」というのも長期休暇としては定着してきているのでしょうか。

 さて今回は「宗教貴族」という事について少し思う処を書かせて貰います。私のツィッターではこの言葉を多用していたりしますが、正確にはこんな単語はありません。

 ただ長年、私が創価学会の活動をしてきた中で、本部職員と言われる人達や、外郭団体の職員、要は創価学会を「生業」にしている人達の生活レベルを見てきましたが、彼らの生活レベルは結構高くて、それこそ立派な家やマンションに住んでいたりするんですね。また本部職員同士で結婚している場合、奥方は専業主婦していて地元組織の婦人部幹部。その子息なんかも有名私学に通っていたりしてました。
 しかし一方、会員の方はと言えば、確かに事業に成功していたり、賢明に仕事に取組み、それなりに財を成している人も居ますが、中には公営住宅に住んで、共働きの中で必死に生活している人も多くいます。また家長の檀那が町工場の工員とか、個人事業主で必死に働いているという人も多く、未だ「庶民の団体」という姿もあるのです。



 こういった実態を見る度、またその「生活格差」を考えた時に、私はそこに「宗教貴族」という単語を使っています。

 本来、宗教組織とは信者の「喜捨」により運営されるもので、その信者よりも、喜捨を受ける側の生活が豊かというのは、私個人として、信者よりはるかに高い宗教者の生活レベルは解せません。これは地方の会員から聞いたのですが、例えば会館勤務の家族の場合、携帯電話の通信費や、自家用車の維持費、また年一回の家族旅行まで創価学会の経費で賄われているという話も私の所に入って来た事がありました。

 もし創価学会という組織に会員の喜捨によってあつまった資金により利益があった場合は、それらは会員に還元するのが当たり前と思います。そしてその還元とは、単なる会館建設とかそういう事では無いでしょう。

 創価学会では機関紙の配達も会員達が低い賃金で行っています。それだけではありません。公明党に関する活動費も「自前」で行われており、機関紙の聖教新聞の拡販活動も、全てが活動家会員の自腹で行われています。

 この様な格差を見た時に、本部職員や関連外郭団体の職員たちを「宗教貴族」と言わずして、どの様に表現したら良いのでしょうか。

 ただこう言った、いわゆる「職業宗教家」が、信者を足掛かりにして莫大な利益を得るという事、これは何も創価学会に限られた事ではありません。日蓮正宗の一部役僧関係者についても同様な話はありますし、他の宗派の古刹大寺院等にも同様な事はある様です。

 歴史的に見れば、16世紀のキリスト教世界に於いても、聖職者の堕落などによって信徒の不信が高まり、キリスト教ではこの事から宗教改革(ルネサンス)、そしてプロテスタント派への分派も起きました。

 またこれは日蓮在世の鎌倉時代に於いても同様な事があった様です。日蓮の遺文には以下の記述がありました。

「人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらかすべしと説き給へり」
(法華初心成仏抄)

 ここでは末法の時代の悪僧について言及してますが、そこでは「法華経のかたき(敵)」となる僧は、どの様な姿の僧なのかを述べています。

 それは人に良いと思われ、人の心に従って説法し、尊い人と思われる僧だと言うのです。そしてこういう僧はどの様な僧なのか、経典に説かれているのは、漁師が目を細めて鹿を狙い、猫が爪を隠して静かにネズミを狙う様にして、在家の信徒や旦那にこびへつらいながら、本来の教えとは全く別な事を説いて、人々を騙して様々なものを収奪するというのです。

 人類の歴史上にいた「宗教貴族」とは、宗派は異なっても、この日蓮の指摘した事と同様な姿勢や行動を取っている事は、歴史を少し調べれば判る事です。そして今の創価学会の職員幹部などの中に、こういった人物は多くいるのではないでしょうか。

 日蓮が「僧」と呼んでいるのは、何も僧形の「禿人」だけではなく、現代に於いてはスーツ姿の蓄髪の宗教家も含まれるのです。

 「信者と書いて儲(もうけ)と言う」という言葉は、実に的を得た言葉だと私は思います。

 宗教というのは、人の内面(心の奥底)を握るものです。その宗教を利用して立場が上となれば、その宗教を信じる人の心を掌握する事は実に容易な事なのです。ある意味で宗教というのは、現代人類にとって大きな脆弱性と言っても良いと、私は考えています。

 世の中には人を利用する事で、巨万の富を得る人達は沢山います。企業の幹部であれば、従業員の生活を人質として従業員を操る事は出来ますが、そういう企業の従業員でも「心の自由」を侵される事はありません。しかし宗教では「心の自由」を奪う事が可能であり、心の自由を奪う事で、そこから人の生活をも支配する事が可能になるのです。

 そういう事から言えば、宗教により利益を得るというのは、世の中にいるどのブラック企業の経営者よりも、罪が大きいと宗教を生業にする人は自覚すべきなのです。

 では宗教により「心の自由」を奪われないためには、信者側はどの様な事に注意すべきなのか。それは宗教を信じる一人ひとりの心の中に、常に「屹立した自己」を保つ事だと私は思います。そしてその「屹立した自己」の為にも常に思索をし、また思索をする為にも教学等を学び、社会に根をはり、道理を以って判断する智慧を磨く事が必要なのではないでしょうか。

 また宗教を生業にする側にいる人であれば、良く言う「小欲知足(欲少なく智を磨く事)」を常に心がけるべきです。けして宗教で利益を得ようとか、それで生活を豊かにしようと言う考えは持つべきではありません。そしてそれが出来ないと言うのであれば、宗教を生業にすべきではないのです。

 少し古い資料となりますが、創価学会の(当時)幹部の年収について、平成四年度の納税額を紹介します。この情報は既にネットの上では公知のものとなっています。

 ・創価学会名誉会長 池田大作 8,715万円
 ・創価学会会長   秋谷栄之助 1,842万円
 ・創価学会理事長  森田一哉 1,387万円
 ・創価学会副会長  上田雅一 1,301万円
 ・創価学会副会長  青木 亨 1,024万円

 ちなみに私の場合、年間の納税額は100万にも届きません。そこから考えれば、この納税額から年収は推して知るべきでしょう。

 今の日本は、自民党と創価学会の政治部門である公明党の連立政権となってから、市場原理主義が導入され、貧富の格差が開くばかりではなく、それが固定化して来ています。しかし創価学会の組織は未だ「庶民の団体」であり、そこの会員達の生活は、必死に働く事で爪の上に火を灯すような生活を強いられています。そしてその様な庶民たちが、創価学会の政治行動を後押しし、宗教貴族ともいえる人達の生活を支えているのです。

 出来上がった宗教の物語を信じるのは良いのですが、本当にそれで満足なのでしょうか。宗教組織を腐らせてしまう原因は、そういった信者の思考停止。無智・無関心にあるのでは無いでしょうか。

 よくよく考えてほしいものですね。

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三身論について

2020年09月23日 19時43分53秒 | 心のかたち
 連休も終わり、今日から仕事でしたが、職場の半分が「シルバーウィーク」という事で、有給休暇を消化する為に休んでいます。だから仕事始めとは言っても開店休業状態で、朝からノンビリとやってました。

 先程まで、ネットである記事を読んでいました。これは東日本大震災後の話で、死者が女性に憑依してしまい、それを除霊したという僧侶の話です。


 「憑依」とは昔から憑き物とも言われ、死者などの魂が体に入ってしまい、その人の体を乗っ取ってしまうという現象です。これは恐山のイタコの口寄せも近い状況かもしれませんし、心霊番組などでも良く紹介される事です。
 精神医療などでは似たような症例を「憑依体質」とか「多重人格症」という事で言われていますが、果たしてこういった事象が全て精神病の範疇の出来事なのか、そうでは無いのか、それについては未だ断定できるほど、「憑依」については解明されていないと思います。

 この記事の中で紹介されている憑依された人達は、自分の体が入れ替わり立ち代わり、東日本大震災で亡くなった人達であろう魂に憑依され、憑依した魂は、その救いをその人の体を通して除霊が出来るという僧侶に求めたというのです。

 憑依された人というのは、この記事の内容でもそうですが、全くの別人格になってしまう様で、これに似た話は私が創価学会の活動家の時代にも幾つか聞いた事がありました。

 若くか細い女性が、狐憑きになった途端に男の声で「離せ~」と叫び、大の男五人でも抑えられない力で暴れるという先輩の実体験とか、老人が正宗寺院で唱題中に地面に倒れ、蛇の様に床の上をのたうち回るという姿を、私自身見た事があります。

 少し角度は変わりますが、こういう事を見る度に、自分を統制している「自我」というのは何なのか、不思議に思ってしまいます。この紹介した記事では、憑依した魂(自我)に体が乗っ取られ、本人の自我は脇に追いやられるという感覚を持っていた様です。

 前の記事で「九識論」という理論を紹介しました。これは人の心が多重的な階層構造を持っているという内容でした。また「十界互俱」という事では、その心の感情の動きの活発さを表し、「一念三千」ではその心が社会や住む環境とも相互に影響を与え合うという事を表していると説明しました。

 これらの考え方は、あくまでも現段階の私自身の理解した事であり、これこそが真実とは言いませんが、私はその様に捉えています。

 仏教にはこれ以外にも「三身論」というものがあります。これは心と体の在り方について説明した教えだと私は思うのですが、今回はその事について少し取り上げたいと思います。

 「三身論」とは大乗仏教で述べられている仏の身の在り方の事で、「十地経論」の第三には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」と述べられているものです。その内容は次の様なものです。

 ・法身
  心理、真如そのもの。仏性とも考えられている
 ・報身
  仏性の属性や働き、修行して成仏する姿
 ・応身
  この世にあらわれる仏の姿

 四世紀頃の中期大乗仏教では法身(永遠身)と色身(現実身)の二身説だけだったと言われていますが、五世紀頃までに仏の本質であり永遠性を持つ法身と、現実の仏の姿である現実身の関連付けが問題となり、報身という二つを合わせたものが確立したとも言います。

 この三身論とは仏の身の在り方の論とされていますが、法華経にある久遠実成の釈尊という観点から考えても、私達の心の在り方、つまり心と体に関する論であると捉えても良いと思います。では具体的にはどの様な論として解釈すべきなのでしょうか。

 ここでいう「法身」とは、心の本質(真理・真如)であるとも考えられます。過去から未来まで一貫して自身の心の基底部に存在するもので、解り易い言葉を借りるのであれば「魂」という表現の仕方もあるんでしょう。また「応身」とは、この現実世界に現れる姿で、心の宿る肉体を指します。そして「報身」とは「法身」と「応身」が合わさって、この世界で様々な活動を行う姿であると捉えられます。

 ただこの「三身論」というのは、一つの側面から考えられた理論であって、これにより人の心と体の在り方というのが、全て説明つく訳ではありません。

 近年では「AI(人工知能)」と、その人工知能に接続するデバイスにより活動するロボットの開発が進んでいますが、そのロボットを例に「三身論」を考えてみましょう。

 近年のAIとはクラウドというネットワークシステムに構築されています。そAIシステムは「法身」と考える事が出来ます。またロボット本体も多くのソフトウェアが組み込まれ、様々な複雑な装置で構成さたシステムですが、これを「応身」と考えてよいかもしれません。
 そしてAIのシステムとロボットのシステムが協調して働く事で、ロボットとは目的の働きをしますが、その目的の働きをする事を「報身」と考えても良いかと思うのです。

 こういった「三身論」から、先ほどの「憑依体質」という事を考えてみると、ロボットが別のクラウドにあるAIに接続されて動く事なのか、もしかしたらそもそもクラウドのAIシステムには、他のAI(他者)とつながるインターフェースが事前に備わっており、そこを通じる事で、容易に他のAIによる動きをロボットはしてしまうという事なのかもしれません。

 人の心とには「自我」という認識がありますが、そもそも自分と他者の間には明確な区分けというものはなく、心の基底部として同質なものがあって、そこから「自我」というのも派生しているのであれば、その他者が生きているとか死んでいるという、そういった「現実世界」の在り方とは関係なく「自我」というのは存在するのではないでしょうか。

 法華経の如来寿量品第十六には、以下の様に説かれています。

「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。」

 ここでは仏とは三界(この娑婆世界・現実世界)の在り方を正確に知っている。生死と言っても退いたり出現したりするという事ではなく、生きている者、死んだ者という者もない。本当でもなく、嘘でもなく、同じでもなく、異なるという事でもなく、この現実世界は目に見えている様なものでも無い。その様な事を仏は明らかに見て、錯誤する事はないのであると言っています。

 私達の日常では、現代の科学で説明できない事は「謎」「オカルト」と認識をしてしまう事があります。しかし、そもそも現代の科学は万能ではなく、例えば宇宙の広さも理解していなければ、私達の体の構成要素の極微の実体すら解明されていないのです。

 だからこういった「憑依体質」と言う事で現れる事象についても、軽く見る事なく、そこに語られる出来事について、真剣に考える必要もあるのではないでしょうか。

 今回は少し話がぶれてしまい、判りずらいものとなってしまいましたね。


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【私の近代史観】幕末から明治維新④

2020年09月23日 11時37分03秒 | 日本の歴史
 ペリーが来航後、当時の江戸幕府は来るペリーの再来に備え、大船建造の禁を解き、各藩に艦船建造を解禁し、また1953年11月23日(嘉永6年10月23日)には第13代将軍に徳川家定が就任した。

◆クリミア戦争とロシアの動き
 ペリーが去ったこの当時、ロシアではクリミア戦争が勃発した。この戦争はフランス・オスマン帝国・イギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争である。
 この戦争と並行して、ロシアのエフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功したのである。

◆ペリー再来
 江戸湾を退去してから半年過ぎた1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は再び浦賀に来航した。幕府との取り決めでは1年間の猶予としていたが、あえてペリーが半年で再度来航した事に幕府は大いに焦りを感じた。実はペリーは香港で将軍の家慶の死去を知り、国政の混乱の間隙を突こうと考えたようで、これはペリーの外交手腕であるとも言えるだろう。
 2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦の「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポータハン」(蒸気外輪フリゲート艦)「マセドニアン」「ヴァンダリア」(帆船スループ)「レキシントン」(帆船補給艦)の計6隻が浦賀に到着、この時、2月12日に三浦半島の長井村沖でマセドニアン号が座礁したので、浦賀奉行所が第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊はすぐに救助に向ったが、この時に奉行所と彦根藩がペリー艦隊に助力を申し出た。しかし日本側の救助を待たずにミシシッピ号が到着して救助、この時、日本側では浜辺に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル離れた艦隊まで送り届けたのである。

 江戸湾到着後、艦隊旗艦は「ポーハタン」となり、2月13日から浦賀奉行所の旗本で組頭である黒川嘉兵衛と、ペリー側からアダムス中佐の間で応接場所に関する折衝が始まった。奉行所では浦賀の館浦に応接所を建て、そこを応接場所にと申し出たが、ペリー側では納得せず、2週間後の2月27日に場所は横浜という事で決着した。
 横浜に応接所が完成し、3月8日にアメリカ側は総勢446名が横浜に上陸。ペリーの艦隊は、3月4日には「サラトガ」(帆船スループ)、また3月19日には「サプライ」(帆船補給艦)の2隻が到着し、合計9隻の艦隊が江戸湾に終結、江戸市中はこの時に大きく動揺した。しかしその一方で前回同様、浦賀には見物人が多数詰めかけ、観光地の様な状況となり、勝手に船を出してアメリカ人と接触する市民も居たと言う。

◆横浜での交渉
 突然の大艦隊の来航に幕府は狼狽したものの、前回の来航の時と同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取る事はなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対してフランス料理を振る舞い歓迎した。また日本側も横浜の応接所で会談終了後に、昼食として本膳料理を出して応響したのである。
 さて、会談は3月8日に横浜の応接所で始まった。日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪木、食糧、石炭の供与及び難破船や漂流民救助の件は了承したが、通商の件については承諾できないと回答した。その後、林大学頭とペリーとの間で応酬があったが、結果としてペリーは通商の要求については取り下げたのである。
 翌3月9日、日本側がペリーに、避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置いて、それまでの間は長崎を充てるとする書簡を渡した。3月10日、ペリー側からアメリカの土産を献上したいと提案があり、3月13日に献上品の目録と返礼品の目録が渡された。この時の献上品は全部で140点にのぼった。
 3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられたが、3月15日、日本側は以前と同じ内容の条約草案を渡した。3月17日、横浜の応接所で会談が行われ、アメリカ側は3月24日までに数か所の開港を要求した。3月19日、林大学頭らは江戸に戻り、この内容について老中と相談し、3月24日、横浜会談において、下田と函館の2港開港が合意されたのである。
 3月28日、横浜での会談で、ペリーは下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求してきた、しかし林は貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を供与するだけであるため、応じかねると返答した。ただし18か月後に来るアメリカの使節と再度話し合うことで合意した。3月29日に徒目付の平山謙次郎らを派遣して協議の結果、遊歩地の件は7里四方で、開港日は条約上では即刻、実際は来年4月か5月で、条約調印の日は3月31日で合意した。3月30日、幕府は平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した結果、条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示したが、日本側はそれぞれの署名を別紙に認めて交換するよう主張し、押し通したのである。

◆日米和親条約の締結
 約1か月にわたる幕府とペリーの協議の末、3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎(日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命)を中心に交渉が開始され、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結され、ここに日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれる事となった。
 その後、ペリーは5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、権限がないとして拒絶された。箱館から戻ったあと、伊豆国下田(現・静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約を締結した。
 ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めたうえに、清に対する影響力を拡大してしまった。

(続く)

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