自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

お題目に関する考察

2020年02月27日 08時35分49秒 | 日蓮仏法再考
 できればテレワークしたいと思ってますが、やはり職場に行かなければ出来ないこともあるので、満員の通勤電車で出勤しています。でもオフピークで私の時間は若干空いたのかな?しかし出来れば人混みは避けたいところです。何たって咳やクシャミ、あと鼻水すする音や、不気味に赤ら顔で汗ふくオッサンなと、危険と思える人達が沢山居ますからね。

 さて、私が活動から離れた時、よく学会活動家から聞かれたのは「お題目は上げているか?」「勤行はしっかりやっているか?」と言う事でした。要は創価学会の中で「自行」という自身が取り組む修行はしっかりやっているんだよな?という事を確認したかったのでしょう。

 創価学会(これは日蓮正宗系はそうですが)では「自行」と「化他行」に取り組む事が信仰だと教えています。
 自行とは先にも説明しましたが、自分自身だけで取り組む事、これは勤行や唱題を言います。化他行とは、この教えを人に語る事で、具体的には折伏(しゃくふく)と呼ぶ行為、まあ簡単に言えば新規会員の獲得です。それ以外にも聖教新聞の拡販や、選挙の時の集票活動なんかも化他行なんだと創価学会では教えています。

 そしてこれは明確に明文化されていませんが、化他行が修行のうちでは最重要課題、自行については大前提なのであまり問われる事はありません。というか、全体的には自行を重要視していませんね、それより票集めや新聞拡販、また新規会員の獲得さえすれば、それで良いという雰囲気が会内には蔓延しています。

 幹部が問われるのは、担当組織のそういう「化他行」の結果の数字だけですからね。

 恐らく私に「勤行」とか「唱題」とかを聞いてくるのは、主要な化他行を行わないというても、せめて自行は行っているよな、と言う様な感覚で質問をしてきていると思うのです。

 いやいや、実際にこの自行や化他行の事実や真実を理解すると、そんな事にこだわり、時間を割くことがバカらしくなります。

 まず自行について。勤行とは妙法蓮華経方便品第二の始めの部分(十如是まで)と妙法蓮華経如来寿量品第十六の自我偈からを読みます。昔は二座の時には如来寿量品の長行から読みましたが、ここ二十年近くは簡略化して長行は省いて行っています。

 そもそも経典を読誦するという事は、どういった意味があるのか。それについて日蓮の「木絵二像開眼事」という御書には以下の文があります。

「木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり」

 この御書では木絵二像と呼んでいますが、絵画で書いた仏菩薩、もしくは仏像の前に経典を置く事の意味について、述べています。つまり仏の姿をいくら精工に表したとしても、その姿には「梵音声」という仏の相が欠けていると言いうのです。つまり仏が法を声を出して説くという姿です。そしてこれを補完する為に木絵二像の前に経典を置くという事を言っています。つまり仏の説いた経典を置く事で、その経典と仏像により、生身の仏と同等になると言うのです。
 そもそも勤行とは出家者の行ったものです、よく「五座・三座」と勤行では言っていましたが、これはそもそも僧侶たちが場所(座)を変えて経典を読誦し、唱題した事から「座」と呼んだのです。
 そして僧侶は何故「読経」をしたのかと言えば、仏像等の前で読経をする事で、仏の説法姿を表現していたという事が出来ます。

 つまり「勤行」とは「仏の説法の表現」から始まったと考えてもよいでしょう。

 創価学会では「勤行」を教えるのに、それをまるで「呪術」の様に教え、経典を読む事やお題目を唱えるというのは「マントラ(呪文)」を唱える様に教えています。私が何故この様に言うかといえば、法華経の方便品と読経しようが、如来寿量品を読経しようが、その経典の意味について教える事はありませんし、意味は理解しなくても「電気の仕組みを知らなくてもスイッチを入れれば明るくなる電気と同じ」として、ひたすら読経し唱える事の重要性を教えています。

 これは果たして正しい事だったのでしょうか。
 先の仏像と経典の関係、そして僧侶が経典を読むという事の意義。そこを考えると、実は読経するにはその経典の意義をしっかりと理解させるべきかもしれませんし、場合によっては音読ではなく、日本語訳を読ませても良いのかもしれません。

 いや、、そもそも読経という行為もいるのかどうか、そういう事を検討しても良いかもしれないとすら、私は考えたりするのです。

 また唱題行についてもどうなのか。
 唱えるお題目について、過去に池田会長はユーディー・メニューイン氏との対談の中で「音律」という事に言及しました。要は唱題する際のリズムや音律に意味があるという事を言いたかったのかもしれません。
 しかしここで考えなければならない事は、鎌倉時代の言葉の発音と、現代の言葉の発音というのは、異なる事は周知の事実です。であれば鎌倉時代に日蓮は「南無妙法蓮華経」という事を、どの様に発音していたのか、どの様なリズムで、どういった抑揚をつけて読んでいたのか、その事を知らなくてはならないはずです。
 しかしこういった事については、創価学会においても言及していません。

 私は人にとって「祈り」とは、とても重要な事というのは理解しています。
 しかしここで気を付けなければいけないのは、人が祈る事でその事を成就させるという能力を潜在的に持ち合わせている事であり、これは人の善悪に関係なく発動する能力だと考えています。

 この「祈り」と「祈る事の成就」、そして宗教の「祈り」とは、少し分けて考える必要があるのではないでしょうか。

 何故ならば、こういった事で宗教というのは、人を隷属させてきた歴史というのは人類史の中には多くあります。でも人は宗教に隷属する為に生まれてきたわけではありません。

 お題目についても、よくよく考えてみるべき時に来ているのではありませんか?


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創価学会の幹部のレベルの低さ

2020年02月25日 21時13分48秒 | 思う事
 政府の有識者会議のメンバーは、新型コロナウイルス感染症が、日本にとって、大流行になるのか、終息するのかの「分水嶺」みたいな事を言ってましたが、いやいやそもそも実態が把握出来てないじゃんかよ。実態も判らない状況で、良くもまあいけシャアシャアと、専門家ぶりな顔をして語るもんだと、変に感心すらしました。

 もう遅いのですが、本来ならばもっと早く政府としての方針を、内閣が真剣にやっていき、場合によっては「強権的」な行動で抑え込めば、もう少しは状況も変わったのではないでしょうか。

 恐らく日本国内は、これから正念場を迎えるのだろうし、もう東京オリンピックだパラリンピックだ何て言ってられなくなるのではないでしょうか。

 そんな気がしています。

 私の拙い五十年そこそこの人生経験の中で、こんなに伝染病で日本社会が上に下にの大騒ぎとなった出来事はありませんでした。振り返ってみれば、同時多発テロとか、東日本大震災とか、昨年の台風19号とか、今回のコロナウイルスの大流行の兆しとか。これらは私の親の世代では経験されていない大きな出来事では無かったかと思うのです。

 つまる処、私の生きている時代、またこれからの世界とは、過去の事例をあまり参考に出来ない時代に突入したという事なのかもしれません。
 これが単なる「乱世の始まり」程度で終われば良いのですが、どうもそれほと生易しき時代と到来という事では無いように、私なんか考えてしまうのです。

 そんな時代にも関わらず、こと日本国内の政権与党の最大の組織支援者たる創価学会の幹部連中は、阿呆というか、思考停止の人間ばかり、よくぞ育て集めたもんだと感じています。

 Twitterには「とある地域の区幹部トップの発言」として、「40代のお前が政治を語るな!なにがわかる!」と、激を飛ばす区幹部トップの話がありましたね。何でも民主音楽協会という、創価学会の外郭団体の職員である幹部の発言だとか。

 区幹部のトップとなれば、数字的には数千人の規模の組織を束ねる責任者なんですが、そんな幹部でさえ、そもそも「民主主義」という事も理解すらしないで、何で票を集める指示を出せるんですかね?
 選挙とは政治を語り、そこで意見を出し合いながらも、国民の代表者、政治的権利の代弁者を選出するものではありませんか。それを「政治を語るな!」とは、いかなる了見なんですかね?

 こんな御仁が組織のリーダーとして、平気で君臨し、そんな組織が今の日本の自公政権(安倍政権)を支えているわけですよ。日本国民として、こういう事を看過しても良いのでしょうか?

 私はもっと日本国民は、創価学会を監視すべきだと思うんですよね。だって彼らが盲目的に集票活動する事が、結果として日本の民主主義の根幹を破壊しているんですからね。

 これは単に「一宗教団体の幹部の質」と言うようなレベルの話ではありません。

 いま日本国民に問われているのは、安倍総理が、新型コロナウイルスを他所に、ふぐ料理や高級料理に舌鼓を打っていることを叩く事ではなく、こうした政治的無知な組織が、安直に国民の「捨て票」を集め、民主主義を壊す行為を叩くべきだと思うんですよね。

 そろそろ考えて欲しいもんだと思いますよ。私の個人的な考えですけどね。


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際限なき正義同士の戦い

2020年02月25日 08時06分11秒 | 思う事
 毎度の事ですが、新型コロナウイルスの感染拡大がいまだ止まず、毎朝の報道では「○○で誰それが新たに感染確認されました」という報道ばかりです。国民総数からすれば、また発表されている数字は僅かな人数でしかありませんが、実態はどうなのか、恐らく誰にも判っていない事でしょう。

 厚生労働省の専門家会議の会見では、急速拡大するか、抑え込めるのかの分水嶺であると言ってますが、正直、今の状況とは国民の自衛策に頼っているという感じではありませんか?

 まあなるべく早く、終息に向かってほしいところです。

 さて、Twitterを拝見してますと、創価学会から情報発信者開示請求の裁判でプロバイダが敗訴、創価学会に個人を特定された人のツィートがあります。私が知る限り、創価学会から同様の訴訟により個人情報を開示された人は、かなり居ると思われます。

 まあ公開されている機関誌とはいえ、新聞に掲載された事をTwitter等に転載、これを「著作権侵害」として訴訟を起こし、恐らく和解とい事で、多少の金額を取るという裁判により、個人を特定して創価学会として追い詰める。これはなんともはや、宗教団体としては情けない限りですね。

 本来なら地元幹部に連絡し、教義をもって対話(討論)する事で、互いに腹蔵なくやれば良いのですが、創価学会の人材状況からすると、むしろ今の創価学会に疑問や異論をもつ人の方が、論理的な主張であり対論にもこ慣れ、現場幹部やそれなりの幹部をしても、恐らく言い負かされてしまうと言うのが解っているから、組織とは別に弁護士を立てて、本来は教義に纏わる問題を、法律の問題にすり替えて、相手の言論を封じ込めようとしているのでしょう。

 昨年の後半に、ある地域の教宣部長会(創価学会の敵を抑え込む組織の責任者の会合)で、登壇した担当幹部が「ネットの敵は法律を使って潰す(発言要旨)」と発言したというのも、そういう事かと。

 何か情けないですね。

 まあ私個人としては、どうぞご勝手にと思うのですが、この裁判で訴えられた方の大半が、今の組織や執行部の行動を「池田先生の過去の発言から違う!」と主張し、その論の証拠として過去の新聞記事や昨今の記事をネットに配信した訳で、要は「自身の正義」を主張する為に、著作権法に抵触してしまった訳です。

 一方で今の創価学会の現場幹部からしたら、創価学会の指導に反し、疑問を呈して大事な広宣流布の組織を撹乱するという「謗法行為」の為に、大事な聖教新聞の記事を、著作権法に触れる形で引用した「悪の輩」なんだから、訴訟を起こされても当然だと考えているのです。

 かたや自分の過去の指導者の言動と違う事を指摘しているのですが、もう片方ではその指導者が大事にしてきた組織を撹乱するのがけしからんとなっている訳ですね。

 詰まるところ、互いの信じる正義をぶつけ合っているわけなんです。

 ただ問題は、そこに国の法律を適用し、それにより組織内部の不協和音を潰そうという考え、またその行動に疑問を持たないのは、本来、おかしいんですけどね。

 この不協和音を起こした元凶とは何かと言えば、これはまごう事なく「池田会長の発言」であり、これは間違いありません。

 過去の彼の人の指導では、「組織は会長の命よりも大事だ!」と述べ、かたやその組織の中で「おかしいと思ったら声を上げなさい」と組織を撹乱する様な事を是認する発言をしています。

 組織が下の意見を受容出来るのか、出来ないのか。そこは偏に幹部の力量にかかってきます。しかし創価学会では幹部の育成には力を入れていません。というか出来ていないのです。だから「法律」という国法により、それら意見を封じ込めるしか無くなっている。そういう事でしょう。下からの意見を受け入れられる幹部が居なければ、その意見は組織を撹乱するモノになりますからね。

 つまる処、この「正義の言論戦」の中心には、常に「池田会長」の過去の発言があるわけです。それこそ池田会長が壮健であれば「私の真意はこうなんだ!」と裁定すれば片付く事でしょうし、もし御本人が言えなくても、例えば香峰子(奥様)や長男の博正氏が発見すれば良いのですが、こういう事については、一切発言すらしていません。

 こういう事から考えたら、そもそも池田会長から始まっている「池田哲学」というのも、一体ぜんたいなんなんでしょうか、私には全く理解すら出来ません。

 だから今の私には、訴訟され個人情報を開示された人が、己の正義をネット上で語っている事には、痛い姿しか見えないのです。だって、結局のところ、今回の元凶とは、まごう事なく池田会長であり、結局はアンチ創価学会も罵詈活創価学会も、ともに池田会長の手のひらの上で競り合っている事でしか無いからです。

 人生の時間を、そんな事に浪費しても時間の無駄ではありませんか?

 際限なき「正義同士の戦い」について、私にはそれしか見えません。

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ソロモン諸島の奇譚(1)

2020年02月23日 10時39分27秒 | FACT
「ソロモン諸島の奇譚」
 一昨日、やっとこさで和訳が終わりましたが、和訳に取り組んてみて改めて感じたのは、英訳する際には社会情勢や時代背景を知らない事には難しいという事でした。


 さて、以前の記事でもこの話については幾度か紹介してきましたが、今回、和訳が終わったので、この奇譚の全体観を通して少し考えたことを記事にしてみたいと思います。
 お時間のある方はお付き合いください。

◆「奇譚」について
 この元ネタである「Dragon Snake」ですが、これはオーストラリアの元王立空軍エンジニアのマリウス・ボイラヨン(Marius Boirayon)がレポート形式でまとめ、WEBに公開したものです。しかし内容があまりに奇抜であること、また今の人類社会にある異星人問題を俯瞰して見た時に、ここにある内容は全てが他の事象と整合性が取れているかと言うと、必ずしも取れてはいないと見えた事から、「奇譚(奇怪な話)」という事で紹介させて頂きました。

 話の概要についてですが、ポイラヨン氏が空軍をリタイヤ後、のんびりと過ごす為にソロモン諸島のガダルカナル島に移住したところ、地元住民から「ドラゴン・スネークには気をつけろ」というアドバイスを受け、それは何かと訪ねたところ、これが一般的に云われる「UFO(未確認飛行物体)」である事がわかり、地元の友人の協力を得て独自に調査したところ、かなり頻繁に目撃されるだけではなく、それによる殺人や傷害、時には行方不明になる原住民まで居ることが判ったというのです。

 また調査を進める中で判明したのは、このソロモン諸島のガダルカナル島や、隣接するマライタ島に、どうやらそのドラゴン・スネークが出入りする場所があり、恐らくソロモン諸島の地下には大規模な地下基地があるのではないかといつ結論に達したのです。

 またこのソロモン諸島には、巨人種族が現存していて、ソロモン諸島の原住民は、数千年前からこの巨人族に捕食され、殺害され、連れ去られるという事もされていて、それが草の根の民話レベルに迄なっていると言うのです。

 そしてこのドラゴン・スネーク(UFO)と、巨人種族というのが、実はソロモン諸島の文化にも深く関わっていて、連動している問題であると共に、実葉人類の起源にまで関係しているのではないかという結論にもなっているのです。

 ここまで行くと、いきなりこのはなしに触れた人は「何を突拍子もない話を」と言う事で、初めから真面目に聞こうという姿勢にはなれません。だから「奇譚」とした方が、一般的に公開してもまだ受け入れられ易い話なのかと考えました。

◆異星人の存在について
 昨年末にテレビ朝日で「ビートたけしの世界の超常現象」という番組を見ました。この番組を見た時に思ったのが、いまだこの異星人の問題というのは、日本に於いてというか、今の社会で一般人にとってバラエティー番組で扱われるレベルでしかないというのが解ります。

 しかし例えば日本国内に於いて、1982年の事、自民党香川県連(当時)の日下氏が防衛庁に対してUFOの情報が無いのかという事を問い合わせしたところ、防衛庁から1つのメモが開示され、そこには1954年当時、アメリカのOSI(海外情報調査部)から、自衛隊にUFOを取り扱うセクションが無いのか、との問い合わせがあった事が記されていました。
また2017年には情報公開法により、CIAの機密情報が公開され、それにより93万件、1200万ページに及ぶ機密情報がWEBサイトに公開されましたが、そこにはUFOに関する調査報告書も含まれています。

 要は一般大衆レベルではいまだ「バラエティ」の題材とされているものが、実はアメリカ政府や各国政府の中では、国家レベルの問題として、すでに意識をされているという事に他ならないのです。

 こういった事実から、私は異星人については「存在する・存在しない」というレベルではなく、実際には人類の根源にも関係する問題であると考えているのです。

◆ソロモン諸島の奇譚に関する考察
 このボイラヨン氏が調査したという、ソロモン諸島の奇譚の内容について、どこまで事実であるのか、そこを証明する事は不可能です。何故ならば、私自身、ソロモン諸島に足を運んだ事もなければ、このボイラヨン氏の事も知りません。
 ただしこのボイラヨン氏が自身が調査した結論として、ソロモン諸島の地下にUFO基地(異星人の基地)があるという予想は、それほど驚くべき問題ではないと思います。何故ならば、こういった類の情報は、すでに現在の世の中にはあふれかえっています。代表的な事としては、ネバダ州にあるアメリカ空軍のネリス空軍基地、ここは「エリア51」という事で、すでに世界的に注目されている場所です。それ以外にもニューメキシコ州のインディアン居留区であるダルシーにも、異星人との間で遺伝子研究施設が地下に作られているという話も出ています。

 こういった基地の一つに、ソロモン諸島の地下にUFO基地があると言っても、既に驚く事には値しないという感じがするのです。

 私が最近考えているのは、人類の人種や文化、そして言語の多様性の原因として、地球外からの影響があったのではないかと言う事です。例えば「犬」や「猫」という種族について考えてみると、この2つの種族と人間との付き合いは数千年以上にもわたりますが、人類はこの種族に対して、様々な遺伝子操作(交配など)を行い、現代においては多くの種類が出来上がっています。
 これと同じ様に、地球上に発生した「ホモ・サピエンス」という種族も、地球外の存在からの遺伝子交配の操作の結果、現在の様な多くの人種が出来たという事も考えられるのではいないでしょうか。

 異星人の問題の本質には、そういった事も隠されているのではないかと思いますし、そういう観点からこのボイラヨン氏の報告書を読んでみると、あながち「でたらめ」とか「でっちあげ」という事では済ませられない何かがあると思うのです。

 この話は少し続けてみたいと思います。

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日本は自身を省みる時では?

2020年02月19日 07時58分09秒 | 日本の歴史
 本日は夕方なら前泊で米沢に移動します。出張でこの四年間で全国四十箇所程度回りましたが、山形県には初めてです。子供からは「お土産は米沢牛!」と言われていますが、娘たちよ、父ちゃんは新型コロナウイルスが流行している時に、出張しなければならんのだ、もう少し気を使ってくれ。と言いたい処です。

 さて、日本国内では五次感染者まで出ており、いよいよ新型コロナウイルスの流行も本格化してきましたが、いまだ国の対応は後手後手ばかり。こんな緊急時なのだから、急ぎ緊急立法を検討して、国民を守るのが政治家というものかと思うのですが、与党も野党も安倍総理の桜の会ばかり。そんなの後回しにしても、急ぎ手を打つべきだと思うんですけどね、政治家であれば。

 確かに与党は語るに落ちますが、対する野党もアホちゃうかと、阿呆な私には思えてしまうんですよ。

 でもこんな政治家を大量生産したのは、間違いなく国民であり、日本の既得権益者であり、一部の巨大宗教団体なんですよね。

 この類の伝染病に対しての対応も「国家安全保障」の一つである事は間違いないのです。「安保法制」なんて一時期騒がれましたが、戦争や軍隊の事だけではなく、国として国民の安全を保障するのが「国家安全保障」なのですから、今回の新型コロナウイルスへの対応も、これに該当するのです。

 しかし厚労大臣の対応にしても、政府関係機関の対応にしても、今までの「前例主義」の枠を越えておらず、結果として多くの感染者を未だに出し続けています。この構造は、太平洋戦争のインパール作戦の失敗や、そもそも先の大戦で日本が亡国の憂き目にあった事と、同質の根っこがあると、私は感じているのです。

 先の大戦の失敗は、そもそも日清・日露戦争から「負け」を認めずに、驕り高ぶり国際情勢の分析を蔑ろにした事、あと法整備の問題。一番は政府機関(軍部も含めた)の硬直官僚化にあったと思います。

 大雑把に言えばですが。

 よく今回の新型コロナウイルスの対応について、安倍政権を中心とした日本政府の対応を見ると、まったく似通っていると思いませんか?

 要は日本という国は、戦前の日本から何ら変わっていなかったと云う事なのではないでしょうか、本質的に。
 何故変われなかったのか。それは先の大戦の総括を日本国として何もしていないからに他なりません。これは私の考えです。

 国家も組織であれば、成功もあれば失敗もあります。では先の太平洋戦争、一体何が良くて何が悪かったのか、本来であれば日本という国として、その議論をしなくてはならなかったのではないかと。
 でも日本はポツダム宣言を受諾して、戦争犯罪者については、連合国により一方的に裁かれて終わり、その後、一転してアメリカの元で「民主国家の優等生」になろうとしたのは良いのですが、日本人自身が先の大戦をタブー化し、真正面から向き合うこともせず、連合国の太平洋戦争観をまんま受け入れました。

 また国家神道は連合国により解体されました。そもそも思想統制に利用した事自体、大きな間違いでもありましたか、日本人の精神的な文化としての八百万の神という事についても蓋をし、兎にも角にも国際情勢の事はアメリカに依存して、アメリカの元で優等生を目指し、軍事の事にも目を向けず、ひたすら経済的な発展と成功を求めて戦後七十年の間、生きてきたのです。

 だからいつの間にか「国」という事も理解出来ないばかりか、自分達の国の過去の歴史についても、自分たちの観点を持てなくなり、それは当然、後に続く子供達にも継承すら出来ずに今日の日本という国に至ります。

 安倍政権が何故、脆弱なのか。それは総理たる安倍総理自身が、日本の歴史的な背景も知らなければ、何ら信念(哲学性)を持っていないリーダーであるからです。そして何もこれは総理だけに留まりません。かの人が人事権を持つ閣僚や霞が関についても同様だと思うのです。

 果たして国家観やそれに対する歴史観。またそれらを下支えできる個人の哲学があって、本来は初めて国を動かせるのではないでしょうか。
 過去に55年体制と揶揄しましたが、当時の政治家たちは先の戦争を知り、合っている間違っているは別にして、それぞれの歴史観や哲学があったので、日本を引っ張ってこれたのかもしれません。

 いまの日本では先の大戦や、それに関連する事は全て「悪(間違えていた)の歴史」という様に考えられていますが、物事には表と裏があり、光と影は存在します。だから全てを否定して目を瞑るという事では無かったと思うのです。

 いまの日本に必要なのは、こんな事ではないでしょうか?


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