自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

四苦八苦と四諦

2019年11月29日 21時58分28秒 | 仏教関連
人間なんて生きていれば、様々な苦悩に遭うものです。寧ろ苦悩に遭わない人生の方が、私は珍しいのでは無いかと思うのです。

 私は小学生時代は、あまり目立つことをしない子供でした。人前に立つこともなく、仲間内でも自発的に行動したという記憶はありません。しかし中学二年のとき、何をトチ狂ったか学級委員長なるものに立候補してしまい、見事、委員長になってしまったのです。

 当時は一クラス四十二人。そのまとめ役になったのですが、当時の学校は荒れていて、ヤンキー・ジュニアみたいな野郎とか、積み木崩し(覚えてますかね?)のミニチュア版みたいな女子もいました。そんなクラスをまとめ、生徒会の下でクラス運営をする大変さを嫌というほど経験し、二度と人前に立つかと思ったものです。

 高校生となり、何故かブラスバンド部に入部。この時も二年生で副部長、三年生で部長となりましたが、こちらは自発的ではなく、先輩に押し付けられた感じで受けたものです。
 それ以外にも、創価学会では高等部の部長をやったりして、気が付けば人前に立って動く。そんな事が板に付いていたのかもしれません。

 社会人となり、最初に入社した会社では最年少の社員で、いまから見たら結構先輩に可愛がられもしましたが、その内、システムの一部を完全に任され、その後に転職。転職先では開発部署の責任者を任され、その次の転職では友人と共に会社をやり、取締役もやりました。

 また創価学会でもそれなりの規模の組織の責任者にも任命されたりとしましたが、こちらの方は最近一切やってません。
 また友人とやっていた会社も、業績が悪化して会社をたたみ、その後、他の知人が会社を起こすというので、手伝いもしましたが、今ではとあるIT企業で、チマチマとエンジニアをやってます。

 今は結婚して家庭を持ち、家族を背負いながら必死こいて、日々生きている状況です。

 こんな生き方をして、今や齢五十代を越えたのですが、あっという間にこの年齢になってしまったという感覚と共に、細かく思い出すと、よくもまあ生きて来たものだもいう想いもあります。

 家族の事や友人のこと、親の死、仕事の成功や失敗等など。あっという間に時間が過ぎたと言っても、思い出すと数えきれない位の出来事がありました。その中の苦闘は数しれずです。

 仏教では人生に纏わる苦しみを「四苦八苦」と呼んでいます。
 「生苦」とは一義的はこの世界に生まれでた事に関係する苦悩、また生きていく中での苦悩を言います。「老苦」とは肉体や精神が老いる事で感受する苦悩。「病苦」とは病を得ることで受ける苦悩。そして最後は「死苦」で、死に纏わる事で生起する苦悩です。人生の中で感じる苦悩は、この四つの何れかだと言います。

 これにまた以下の苦悩もあると言います。

愛別離苦
 愛する人と別れなければならない苦悩。家族や恋人、親しい友人とは何れ別れなければなりません。
怨憎会苦
 生きていれば、憎い人や嫌いな人、性格的にも心情的にも、苦手な人とも付き合う必要があります。
求不得苦
 欲しいもの、どうしても必要なものでも、得られないというのは、人生にはつきものです。
五蘊盛苦
 五蘊というのは色受想行識という、心と体の基本的な五つの働きを言いますが、それらが思い通りにならない事を言います。

 先の四苦にあとの四つを併せて「四苦八苦」と呼んているのです。

 これらの苦しみを解決するには、初期の仏教では「四諦」というのが説かれていました。これは四つの真理を明らかに理解すると言う事を言いますが、それにより苦悩から脱却する事を解脱とも呼んでいました。では四つの真理とは何なのでしょうか、簡単に説明します。

苦諦:迷いのこの世の中は、全てか苦悩であるという真実。
集諦:苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
滅諦:苦の原因の滅という真実
道諦:悟りに導く実践という真実

 これは釈迦が初転法輪という、この世界で初めて説法した内容だと居ますが、最初の二つは、人生の苦悩の結果とその原因。そして後の二つは悟りの結果とその原因と言われています。

 私のこれまでの人生も、様々苦しい事もありましたが、この初期仏教の「四諦」から見ると、確かに私の経験した様々な苦悩も「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」によっていたのかもしれません。
 人は何かを求め、執着する事から苦悩を感じる。だからそれを「道諦(修行)」によって「滅諦(原因―煩悩などを滅する)」という事で、それらの苦悩から解放されるという初期仏教の教えも一理あると思います。しかし一方で、人の人生とは「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」を求める事で出来上がるものではないでしょうか。

 人生とは「四苦八苦」で表される苦悩が常に付きまとうもの。それに対して初期仏教では「四諦」という真理が説かれています。初期仏教ではこの四諦から十二因縁や八正道という原理へと展開し、人々の苦悩からの脱却を目指す事を述べていますが、思うにそれらは人生の対処療法的なものであったのかもしれません。何故なら、人生とは「煩悩・妄執、求めて飽かない愛執」と切り離せないものであり、それを切り離し、離脱する事で苦悩から解き放たれるというのであれば、仏教で救済されるのは一部の限られた人になってしまうのではないかと考えるからなのです。

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宇宙人ユミットからの手紙から

2019年11月29日 11時56分21秒 | 思う事
「宇宙人ユミットからの手紙」という本があります。これはフランス学士院の会員である科学者、ジャン・ピエール・プチ氏の本で、そこには「ウンモ星人」から届く手紙についての事が書かれており、内容に対する考察等がさなれ、表題に感じる胡散臭さとは別に、中々面白い本でした。

 宇宙人は居るのか、居ないのか。それは議論の別れる処で、私は個人的には既に居るとか居ないの次元の話しではないと思いますが、それはまた別の機会に。
 今回は、この宇宙人ユミット(ウンモ星人)の死生観について書かれていた事を元に、少し話を進めてみたいと思います。お暇のある方はお付き合い下さい。

◆「死」に対する概念
 日蓮も「臨終正念」という言葉を御書の随所に残していますが、その死に対する考察の記録は殆どありません。「生有(誕生)」「本有(生きている時)」「死有(臨終)」「中有(臨終から次の生までの間)」というサイクルが仏教では説かれていますが、日蓮の語っているのは「本有」であり、それ以外は殆ど語られてません。それが何より証拠には、日蓮正宗では「臨終用心抄」というものがありますが、殆ど他宗派の僧侶の言葉の引用でしかないのです。

 恐らく日蓮の死生観とは、鎌倉仏教当時の死生観と何ら変わるところでもなく、また彼の教えも「本有(生きている間)」に焦点を当てたものであり、殊更死有を取り上げるという必要も無かったと考えられるのです。
 しかし昨今の社会では、臓器移植や高齢化により、以前よりも死という事も目を向け始めている事もあるので、その事についても、宗教では考える必要がある時代となってきています。

 では死とは何かと言えば、言葉でいうと生(生きる)の状態に不可逆(戻ることのない)状態だと言われています。心臓も止まり呼吸も止まり、脳死の状態へと移行します。脳死になると当然、意識も無くなるはずですが、最近言われている臨死体験の体験談では、意識があり自分の臨終の姿を第三者の視点で見ていたという話が多くありますので、このあたりは実の処は不明です。
 また死により、その人の持つ経験や地位、名誉や財産は意味を成さなくなります。よく言いますが、これらの事を死んだ後に持っていくことは出来ません。仏教で説く、三途の川にいる「奪衣婆(だつえば)」という老婆は、死んだ人の身ぐるみ全てを剥ぎ取り裸にすると言われていますが、それはこの死という姿を表しているのでしょう。

◆ウンモ星人の考える死
 ここでいきなりウンモ星人かと思われると思いますが、少し話を紹介します。
 ウンモ星人の社会では、人々は大きな宇宙意識がこの世界に現れてきていると捉えている様です。そして人々の脳内の視床下部には微量の「希少金属」があって、この希少金属が宇宙意識と個人をつなぐ役割を果たしていると述べています。
 宇宙意識とは、例えばアメーバーの触手のように伸びては、この現実世界に「生物」として誕生し、この現実世界で様々な事を経験し、それらの情報はその生き物(人など)を通して情報が宇宙意識に送られると言います。そして肉体の老化や病気、また不慮の事故等で生きることか困難になると、脳内希少金属とのリンクを切断、これが彼らのいう「死」という事だそうですが、そこに伸びていた宇宙意識の触手は、また元の本体に戻っていくと言うのです。

 これはこれでとても興味深い説ですよね。何れ照会したいと思いますが、例えば彗星ハンターの木内鶴彦氏の「死後体験」や、アメリカ人の脳外科医で臨死体験をした、アレクサンダー・エベン氏の臨死体験にも、この話しと親和性のある経験が語られています。

 一見すると、フランスのウンモ星人の説と、木内氏やアレクサンダー氏は場所も時間も異なるのですが、そこで語られている内容は、互いに親和性を持つ体験を語っているのですから、これらをあながち否定して、単なる戯言だと片付けられない様にも、私は考えているのです。

 この事については、引き続きこのブログでも書いていきたいと考えています。


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法華経の意義について

2019年11月27日 09時32分21秒 | 思う事
日蓮は法華経を信じれば、悪道に堕ちることは無いばかりか、その功徳により成仏は間違いないともいい、兎にも角にも法華経の御題目を唱えることの大切さを説いていました。

「正法像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、」
(上野殿御返事)

 ここで日蓮は、正法の時代(釈迦滅後千年)や像法時代(釈迦滅後千年から二千年)の時には、法華経以外の経典にも意義があり、それを失わせない為に、日蓮が説いた法門は広められなかった。しかし末法になったら余経どころか法華経も意味がなくなる。ただ南無妙法蓮華経しかない。またこの事は日蓮の考えではなく、釈迦仏や多宝仏、諸仏や地湧菩薩の計らいごとなのである。

 つまるところ経典としての法華経ですら、末法には役に立たないと言うのです。変ですね、唱法華題目抄や立正安国論では、法華経を宣揚し続けていた日蓮が、門下である上野殿にそんな事を言うなんて。

 ここから見えるのは、実は日蓮は、経典としての法華経(鳩摩羅什訳の妙法蓮華経)には、実はあまり拘ってなかったのかもしれない。むしろ重要視していたのは、その法華経に説かれる意義であった。私はこの日蓮の言葉から、そんな事を感じています。ではその意義とは何か、続けて日蓮の言葉を追ってみます。

「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
(開目抄上)

 ここで日蓮は法華経にはニ箇の大乗があると言い(この事は先にも話をしました)、その一念三千は法華経の「文の底」に沈められており、龍樹菩薩や天親菩薩は知っていたがそれを拾い出さなかった、ただ天台智者だけはこの事を知っていたと言います。

 この一念三千こそが法華経の意義であり骨木、要は法華経の要だと言いますが、その意義は、私達とは元来から仏であり、その事を理解する事が大事だというのが意義なのかもしれません。そしてその意義を言葉として凝縮したのが、御題目であるというのが、日蓮の結論だったのではないか、私は今の段階でこんな事を考えています。

 創価学会の池田名誉会長などは、この事から人間主義という言葉を使いだしたのでしょう。曰く、仏の命という尊極な生命を持った一人ひとりは、それ自体が尊い存在なのである。だから人間は尊重しなければならない。

 しかし仏であるとして、それを単に尊重するだけが、果たして法華経の意義なのでしょうか。ましてや御題目とか文字曼荼羅をもって宇宙の法則という事もいいますが、果たしてそれで法華経の意義に則ったことなんでしょうか。

 実は創価学会が、口先だけではきれいごとを言いながら、実はその池田氏が育成したという人達が、会員を軽く扱っているのは、この池田名誉会長の言葉の裏にある事を、かの直弟子たちが感づいているからではないかと、近年の私は感じていたりします。

 少し変わった角度から、この事について考えてみましょう。
 宮崎駿監督の「もののけ姫」という映画、皆さんはご存知かと思います。そこでは「ししがみ」というものが出てきますが、主役の女の子であるサンは、その「ししがみ」とは森の守り神であり、ヤマイヌのモロはそれを守っていると理解していました。
 しかし実際に「ししがみ」とは、命を与えもするが、場合によっては命を奪いもする存在であった。そしておそらくサンを育てたヤマイヌのモロは、その事を理解し、同じく主役のアシタカもその事を理解したのでしょう。

 「ししがみ様は死なないよ、何故なら命そのものだから」
 
 アシタカが最後に語ったこの言葉に、私はそれを見て取りました。

 思うに生きとし生きるものは、人間の価値観で見れば、ある時は極善となりますが、ある時には極悪ともなります。要はその生き物すべての本質というのは、善悪という基準でみるのであれば、善悪併せ持つ存在ではないでしょうか。だから命というのは、単に人間の価値観である「善悪」という事で評価するものではないでしょう。

 命あるものは、時には極善の行動をとるときもあれば、時には極悪の行動をとる事もある。しかしそういった命の活動を行う心の底には常に「仏」は常住している。そして一念三千とは、単にその命を「有情(生物)」だけではなく「非情(非生物)」の枠にまで広げ、そこにも存在すると言っています。そして単にそれぞれの心だけではなく、この世界にあるすべての出来事にも、その「仏」というのは常住している。その事を明かしているのかと思うのです。

 こうなった時に、この「仏」とはどの様に理解をしたら良いのか、いや、そういう世界観を理解した場合、私達一人ひとりはその事から何を理解したら良いのか。そこについて考えなければならないのではないかと思うんですけど、皆さんはいかがお考えになりますか?


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信仰体験について

2019年11月26日 20時07分28秒 | 思う事
「力ある御本尊だから幸せになれる!」

 これは中学生の時に言われた言葉です。私の家族は母親と兄が創価学会に入会し、その後生まれた私は「福子(ふくし)」と呼ばれました。この福子には大抵入会動機なんてありません。気が付いたら自宅にはお厨子があり、日蓮の文字曼荼羅がありました。

 母親と兄には信仰体験がありましたが、学生時代までの私にはそんなものは全くありませんでした。しかし社会人になり、創価学会の青年部になってから、活動を始めたときには、実に幾つかの信仰体験を持つ事か出来ましたし、だから冒頭にある言葉は真実なんだと信じもしたのです。

 しかしその後、年齢を経るごとに創価学会の組織の中を見ると、皆が「現世ご利益」を求めていたり、また組織信仰に陥っていったり、そんな中で家庭不和になる人、病気になる人、はては年取る毎に人格に破綻の綻びが見える人が、特に活動家と言われる人達や、幹部と言われる人達の中に増えていってました。

 私が創価学会の活動家を止めたのも、組織から距離を置いたのも、根本にはそういう事が関係しています。そして何故そうなったのか、何が問題なのかを自分なりに掘り進めたところ、私はこの「信仰体験に偏重する組織文化」に原因がある事、またそれを煽るような指導者たちの指導や、それを生み出す組織の思想性に問題があると結論を出しました。

 日蓮は語ります。
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
(唱法華題目抄)

 信仰体験とは、傍から聞くととても不可思議なものです。本当にそんな事が起きるのかという事が起きたり、思わず本人が考えた通りになったり。等など。まさに不可思議な力が、その宗教にはあるのか、という説得力を出すにはもってこいです。
 創価学会では「折伏セミナー」とかでもそうですし、大きな会合には必ずと言っていいほど、信仰体験の発表があります。そしてドヤ顔で言うわけです。

「自分たちの信仰は正しく力がある!だからこんな体験なんて、沢山あるんだ!」

 しかしそんな創価学会は「自分たちの教えは日蓮仏法だ」と言います。しかしその日蓮は、先に上げたように「利根や通力(不可思議な話や体験)に拠るな!」と警鐘を鳴らしています。要はどんなに不可思議な事を、その信者がやろうと、それだけでは、そんな人間が語ることは真実ではない。真実は法門(教えの本義)によって決めるべきなのだ、そう語っているのです。

 ましてや今の創価学会の教義の無惨なる様は、語るべくもありません。日蓮は法門をもってと言うのに、その信徒が法門を蔑ろにするだけではなく、利根や通力により正しさを語っている。

 これが自己矛盾でなくて何でありましょうや。

 皆が理解しなければならない事。これは何も信仰者だけではなく、ある意味で全ての人達です。それは。

「人には願望を現出させる力と可能性を本来、備えている!」

 この事です。
 私は以前に営業職をやっていた事がありますが、そこで多くの中小企業の社長と合っていました。そしてそこで知った事は、波に乗っている経営者はどこか宗教からんだ考え方を持っているということです。具体的にどんな事かと言うと、自分の仕事で儲かる事を、とことん信じ切っているという事です。そしてそんな社長の中には、実際に多くの利益を上げたり、顧客層を拡大したりする人がとても多かった。

 要は「自分のやる事を信じ切る」という事で、人は周囲にそんな事を引き寄せる能力を持っているのです。

 だから最近よく言うではありませんか、引き寄せの法則という言葉。これは当にその事を指しているんでしょう。
 この引き寄せの法則に類似した言葉は、当然の事、仏教の中にもあります。それは華厳経の「心如工画師(心は工なる画師の如し)」という言葉です。
 これは人は周囲の環境を、心が作り出すという事で、それはまるで巧みな画家の様なのであるという言葉です。

 要は結論として何を言いたいかと癒えば、信仰体験などに振り回され、執着し、あたかもそれを可能にした宗教こそが絶対に正しいなんて信じてはいけないのです。宗教とは、先のも書きましたが人間にとって、最大の脆弱性なのです。

 そんな事に振り回されては、結果として宗教組織に利用されて、一生棒に振ってしまいます。

 宗教とは心を知るためのもの。そして心を理解すれば、人生はもっと有意義に生きていける。その為の学ぶ機会でもあるのです。けして信仰体験とか、不可思議な力(法力)何かに絆されてはなりません。


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九識論

2019年11月26日 13時29分13秒 | 日蓮仏法再考
 心は恒に働いています。人が寝ている時でさえ、働いています。そしてこの働きと、その本質を語ったのが一念三千という論であり、それを完成させたのが久遠実成の教えといっても良いと、私は個人的に考えています。

 では一方で、その心の構造的なものはどうなっているのか、そこを述べたものに「九識論」というのがあります。これを完成させたのは天台大師であり、先の一念三千も天台大師です。天台大師を中国の「小釈迦」と呼ぶのも、こういう重要な論をまとめ上げたからだと言われています。

 では早速、その中身について説明をしていきます。

◆「識」について
 九識論とは、識(しき)、つまり心の認識する働きを言います。例えば人は目にするもの全てを認識しているわけではありません。見える情報の中から必要と思われる情報を識別して、取り込んでいます。そしてこの識のうち五つは感覚器官と密接に関わっています。

①眼識:これは目で見るという識
②耳識:これは聴くという識
③鼻識:これは匂いを感じるという識
④舌識:これは味を感じるという識
⑤触識:これは触れるという識

 これらは「五感」とも言いますか、人間が外界を識別出来るのは、この五感に関する識によると述べています。そしてこれらの五識で、それぞれ認識し識別された情報により意識が自分の置かれている状況を理解し、行動を取ります。またこの意識と各五識は、一方通行ではなく、相互に連携して働いているのです。

「いま嫁が怒っている」
「仕事でヤバくなりそうだ」

 などなど。日々人は様々な事を感じて、そこから考えて行動をしていますが、この一連の行動を起こしているのはこの意識から五識の連携によるもので、人は日常生活では、この意識の事を自分自身の本質であると思っているのです。

◆無意識と末那識
 ここ二十年程の間で「無意識層」という事が、心理学で語られている事が世の中で知られる様になりました。「心理テスト」等をり、意外な自分の本質に触れたりした人も多いのではないでしょうか。この心理学でいう深層心理にあたるのは、これから説明する末那識以下の心の働きとなります。

 日常意識の下に隠れていて、恐らく普段は認識すらしていませんが、末那識というののか意識の奥底に隠れています。これは「自我の本体」とも言われるところで、「私が、俺が」という心の働きです。ただ通常は意識の陰に隠れているので人はこの心に気付く事はありません。
 しかし先にも照会しましたが、心理テスト等で意外な自分の側面を知ったりしますが、その意外な一面というのは、この末那識にあるのです。

 日常生活する上でも、実は末那識は活発に活動をしているようですが、私達の意識ではそれを知ることが出来ません。ただ、日常生活の様々な処で意識(六識)に様々な影響を与えているのが、この末那識というものなのです。

◆過去からの記憶は阿頼耶識
 逆行催眠というのを皆さんはご存知でしょうか。催眠状態で催眠術師か上手く誘導すると、かなり昔の記憶を鮮明に思い出すどころか、実は過去世の記憶まで語りだす人もいるのです。
 この逆行催眠術は、臨床心理で既に利用されていますが、よく聞くのは、この状態で本人も日常では全く知りもしない事を語りだすと言うことです。そしてその記憶は脳科学でも判明しておらず、そこで明確に答えが出たていないので、多くの学者は首を傾げながら、なんとか納得出来る屁理屈を語ります。
 仏教では心の働きとして既にこの事を阿頼耶識(蔵識)と呼び、心の仕組みの中に組み込んでいます。こらは深層意識の更に奥深くにあって、生死により消えたり出たりするものでは無い。この阿頼耶識は三世に渡り存在し続けると言うのです。つまり生死を超越した心の働きという事になります。
その事から、華厳宗や法相宗ではこの阿頼耶識こそが、心の実体だとしているのです。

 ここは日常生活では、まったく不可知な領域ですが、ここには遠い過去の記憶から、可能性の未来の記憶まであるようです。そしてここに蓄積されているのは、記憶だけではなく、遠い過去からの業(自身の生きてきた中で作り出した様々な原因)というのも、ここにあると言うのです。そしてそれらは末那識にも影響を与え、それを通して私達の日常生活の中にも様々な影響を、実は与えていると言います。

◆阿摩羅識
 天台大師は過去からの業因業果のさらに心の奥に、阿摩羅識(九識)が存在すると述べています。そして法華経の如来寿量品で語られた久遠実成の釈迦の心というのも、実はこの九識の事であり、根本浄識だと言うのです。日蓮が御書の中でいう「九識心王真如の都」はこの事です。
 また阿頼耶識までは、個人の心の働き(個人という表現が果たして的確かはありますが)の範疇ですが、この九識になると個人ではなく、家族や親戚、民族や人類、そして生きとし生ける全てに繋がっていく意識だとも言われています。

 この事を具体的に語るには、幾つかの臨死体験等を引用して語ると、とてもイメージがし易いかもしれませんが、それはまた後日の記事で書いてみたいと思います。

 恐らく法華経で語る成仏ということ、また天台宗の観心といえのも、この九識の心を体感として掴む事なのかもしれません。






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