自燈明・法燈明の考察

立正安国論➂

 さて、昨日(6/18)に自民党衆議院議員で元法務大臣の河井衆議院議員(奥さんは参議院議員)が夫婦で公職選挙法違反(買収)の容疑で逮捕されました。これは安倍政権への大きな揺さぶりなのかな、と感じたりもします。長期にわたる安倍政権に対して、永田町のどこからか切り崩しをかけていて、それが見える形で「河井夫妻の逮捕劇」という姿で現れているのかと、私は考えています。

 でもまあ、よくいう「国民不在」の政治はまだまだ続くわけで、この国民不在の政治を招来している原因もまた「国民」であるという事でしょう。政治とは喜劇の様なものですね。

 さて、今回は立正安国論について話を進めていきます。


 今の日本は決して安寧ではありません。いや、今の人類社会自体も安寧ではないでしょう。法華経で語られている「三車火宅の譬え」に書かれている、大火災の家で、炎にむせぶ中、遊び暮らしている子供たちの様な世界で生きています。


 ただし鎌倉時代とは異なり現代は、物流のインフラや通信のインフラが異なりますので、鎌倉時代当時の様な悲惨な状況とはなっていません。とは言え、その本質的なところにある問題は、同質なものがあると思うのです。

 鎌倉時代とは、幕府の方針として京都に負けない「文化都市・鎌倉の都」を構築するという事がありました。そしてその為に、京都から各宗派の有力者を鎌倉に招聘し、大寺院を建立していたのです。この流れに各宗派の僧侶たちも、幕府の方針に相乗りし、鎌倉での影響力をつくるべく腐心をしていた様です。

 この当時の僧侶の代表的な人物は、生涯、日蓮と対抗した人物と言われる忍性房良観です。彼の略歴を見てみます。

◆正元元年(1259年)北条重時の招聘に応じ、鎌倉に隣接する極楽寺の寺地
 を相す。
◆弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ
 進出。北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。
◆弘長2年(1262年)北条時頼の要請により東下してきた叡尊に謁する。病気
 がちの叡尊に代わり授戒をおこなう。鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者
 念空道教が叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的
 人物となる。

 日蓮が立正安国論を幕府に上呈したのが文応元年(1260年)ですから、良観が北条重時に招かれ鎌倉に来た翌年です。後に鎌倉の念仏僧の指導者の念空道教を従えた事で、鎌倉仏教界の頂点に立ったのですが、仏教界への日蓮の指弾、しかもそれが念仏に対する指弾であった事に、忍性房はかなり神経を尖らせていた事は容易に想像がつく事です。

 この立正安国論を上呈する事で、日蓮に対して幕府の中で迫害を行った中心人物は、時の執権の父親である北条重時ですが、その重時が鎌倉に招いたのが忍性房という事からも、この時の忍性房の心の底が見えると思うのです

「人ごとに念仏を申す人に向うごとに念仏は無間に堕つるというゆへに、人ごとに真言を尊む真言は国をほろぼす悪法という、国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめずとがむとても一人ならず、打つをもいたまず本より存ぜしがゆへにかういよいよ身もをしまず力にまかせてせめしかば禅僧数百人念仏者数千人真言師百千人或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事日本国を失わんと咒そする法師なり」
(報恩抄)

 日蓮が後に報恩抄で語ったのも、そういった忍性房の行動を的確に示した言葉ではないでしょうか。

 さてこの立正安国論の中の「くに=国」という文字ですが、「国構えに民」の字が、全体で56か所あると言います。(山中耕一郎氏による)この事について、創価学会の教学部では以下の見解を持っています。

「大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは、「立正安国論」の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に、国構えに民と書く「●=口に民」の字を用いられていることにも、うかがうことができます。」
(Sokanet-3.一生成仏と広宣流布-立正安国 参照)

 しかし鎌倉時代に現代でいう「民衆」という概念はなく、あったのはあくまでも「民草」という概念でした。では日蓮はこの「国構えに民」の「国」を立正安国論に書き記す事で何を言いたかったのか、ここは考えなければならない事です。

 実はこの「国構えに民」の文字は、貞観政要という中国の古書に使われていた文字なのです。貞観政要と言えば、鎌倉幕府の基本法である御成敗式目の元になった古文書と言われています。

 つまり日蓮がこの「国構えに民」という文字を殊更多く利用したのは、「民衆仏法」という事を考えていたからではなく、鎌倉幕府の原点である貞観政要を意識させるためでは無かったかと思います。では貞観政要では、どの様な要点が書かれていたのか、簡単ではありますが、以下に紹介します。

・皇帝が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。
・皇帝は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿はいかめしく、極めて厳粛であることを知っていた皇帝は、進言する百官たちが圧倒されないように、必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた。
・皇帝は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かになった。公卿たちが皇帝のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると言って退けた。

 日蓮は当時の鎌倉幕府の「文化招致の政策」に対して、それを貞観政要の内容から諫めると共に、その文化招致の要となっている仏教界についても、大乗仏教の本来あるべき教えを示し、その襟を正したかったのではないでしょうか。

 翻り現代にこの立正安国論を読み直すのであれば、議会制民主主義の本来あるべき姿を国民が理解し、そこに関わる利権団体についても、その政治とのかかわり方については、襟を正す事を訴えるべきであり、ただ単純に鎌倉時代の古き仏教の言葉を現代に語る事は、何ら立正安国論の本意とは異なるものと思うのです。

 ましてや「広宣流布」という法華経の言葉を乱暴に振り回し、民主主義の根幹をなし崩しにするような組織的な信仰活動の延長線上で政治参加をするというのは、そもそも日蓮の本意とは違う事だと思えてなりません。


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