自燈明・法燈明の考察

正統な教団や教えは幻想

 「富士の清流七百年」
 これは私が創価学会で活動を始めた頃、先輩からよく聞かされた事です。日蓮大聖人から法水写瓶で、御歴代の御法主上人猊下に嫡々代々と血脈が伝わり、富士宮の大石寺で護られて来た教えを創価学会は根本にしている。だから新興宗教では無いんだと。そしてこれこそが唯一正しい教えなんだとも聞かされました。

 しかしそれから数年後、実は大石寺は大謗法の寺院で、歴代の貫首には稚児法主もいたり、釈迦仏像を作った貫首もいたり。また身延日蓮宗と合同で時の貫首か祈願したりという処だった。だから富士の清流なんて無かったし、創価学会の歴代会長も大石寺からいじめられてきたんだと聞かされました。そして言われたのが「創価学会こそが日蓮大聖人の仏法の正統継承団体なんだ」という事でした。

「大法要、仇を打てとの響きあり、君らの使命と瞬時も忘るな」

 これは戸田会長の三十三回忌法要で当時の池田氏の詠んだ和歌ですが、この言葉に当時の青年部も、心を熱くしたものです。

 そして現代では「大石寺の大本尊は受持の対象とはしない」「日蓮大聖人の顕した御本尊は全て事の本尊」「創価学会が本尊を認定する」「日寛師の教義は見直す」といい、「創価師弟三代の血脈」を唱え、永遠の指導者を制定、「先生」というのは池田氏の尊称と定めています。

 こうして始めの「富士の清流七百年」から「創価師弟三代の血脈」まで眺めてみると、何だかなぁーと私は思ってしまうのです。私も時々で、これが正しい教えなんだと信じてきても居ましたが、流石に四十代になり、壮年世代になって冷静に考えられる様になった時、この流れには大きな違和感を覚えました。またそんな視点で、例えは公明党の選挙活動を見ても、聖教新聞の啓蒙と呼ぶ拡販運動を見ても、ましてや折伏という新規会員の獲得活動を見ても、どれもがみな滑稽な感じがしたのです。

「斎藤さんは妙観講で信心すべきですよ」

 ある妙観講幹部とも定期的に対話をしていた頃がありましたが、その時にはそんな事も言われましたが、私は断りました。

「いやいや、そもそも僧侶を奉る信仰なんて興味ないし」

 私の仏教へ傾倒した原点は、やはり若い頃に見た知人の「死」であるし、人生の意味と言う言葉でいうと、少し違うのですが、この限られた人生の時間を有意義に過ごしたいという事でした。日蓮を現代に語り、声高に正統な組織を主張する宗教団体には、申し訳ないですが興味を持つ事はありません。何故ならばそれぞれが自分の組織が正しいと主張はしますが、あまりにも中身がスカスカなんですよ。まるで「麩菓子(ふがし)」みたいな感じです。

 禅宗が語る「拈華微笑」という言葉があります。これは初代付法蔵である迦葉尊者に対して入滅時の釈迦が花を捻って見せ微笑んだという話で、これにより迦葉尊者は釈迦から大事な事を受け継いだと言うのです。
 よく仏教では「師弟が大事だ」と言うような話があります。師弟とは教えを受け継ぐ為の人間関係とも言いますが、教えを受け継ぐというのは、とても大変な事だと思うのです。それは教える側の師匠もそうですし、受け継ぐ側の弟子にとってもです。

 一つ例えるならば、私も仕事では多くの人から様々な事を社会に出てから三十年以上に渡り、教わってきました。またその中の幾つかを後輩たち教えてきたつもりです。しかし人間の持つコミュニケーション能力というのは、実に貧弱なもので、例えは創価学会や顕正会、日蓮正宗では「文証」と言いますが、要は私の居るIT業界用語では「テキスト」と呼んでますが、そんな媒体しか人間は持ち合わせていないのです。

 言葉と言っても基本はテキストを発音したものであり、唯一違うのは抑揚とか、強弱を付けれる程度のものです。このテキストの不完全さを理解するのは簡単で、例えはこれを読んでいる人も試して欲しいのですが、貴方が人生で一番感動した映画を、その映画を知らない人に、文字や声で伝えることを考えてみればわかります。自分が感じた感動を相手に伝えるのはどれ程困難か、文字というか言葉は足りない媒体なのかを、直ぐに理解できると思います。

 私は人間の認識力は四次元だと考えています。空間(三次元)に時間という軸が足されますから。日常生活では常に四次元で動いている個々の人間が、相手に伝達するのは二次元(平面的)な能力しかないのですから、人から人への伝達はそもそも無理があると言うものです。世の中の全ての宗教で分派が起きるのも、これによる処が大きいと思います。

 またもう一つ。
 仏教とは帰納法ではなく演繹法の哲学です。帰納法とは複数の事象の結果からひとつの結論(真理)を証明するのですが、演繹法とは一つの大定理から、いくつもの事象を説明するというものです。
 一つの定理から多くの事象を説明するには、付随する様々な事柄を知識として持ち合わせていなければなりません。つまり仏教を学ぶのであれば、世の中にある多くの事を理解し、知識として得ていなければならないのです。創価学会の活動家幹部を見ても解りますが、その知識があまりにも貧弱な為に、一大定理すら理解もままならない中、多くの「珍説」が出るのも、この為だと思います。

 以上の事から考えると、一つの偉大な教えがあったとして、それを正しく理解して継承していけるかどうか、そこは組織や団体ではなく、個々の人間に関わってきます。だから「私達こそ正統後継の団体なんです」というのは、実に大きな詭弁だと理解すべきなのです。



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