自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

リアル感について(ボヤキ)

2020年10月23日 10時53分42秒 | 思う事
 今日は雨陽気で雨がシトシト降ってます。
 今日の記事は思いつくまま、少し最近思うことについて書いてみます。

 私の家族は嫁と子供二人、そして猫が2匹。子供は高校生と中学生、猫は十歳と二歳。私は自分の人生を七十五歳までと勝手に決めて生きています。まあ実際に何歳まで生きるのか、そこは当に「神のみぞ知る」という処でしょう。これは若い時から考えていたのですが、自分の人生の時間とは、飽くまでも不確定ですが必ず限りがあり、その限られた時間をどの様に生きるのか、そこはやはり「ゴール」を決めて考えていかないと、ペースを考えられません。

 そこから思うと私の残り時間は、四半世紀も無いという事になります。

 ところで。
 皆さんも夢を見ますよね。夢の中でありえない展開があって、目が覚めたときに「ああ、夢で良かった」と思うことはありませんか?

 夢と今の現実世界の違いは「リアル感」だと私は思います。夢の中で、例えば交通事故を起し、パニック状態で「どうしよう、大変な事をしてしまった!」と思っていても、そこで夢が終わり目が覚めた時、それが夢であった事を知り、ホッとする。これはつまり現実世界(リアルな世界)では、交通事故なんて起こしていない事を理解して安堵するわけですね。

 人はやもすると、このリアル感のある現実世界は未来永劫に続くという「誤解」を持って生きています。例えば今いる大事な家族や友人と共に、今日この一日の様な日々が、この先も永遠に続くという様に誰もが思っています。

 しかしこれは紛れもない錯覚であり、すべての人はこの世界に「オギャー!」と生まれてから既に、このリアル感のある人生の終焉に向かって、歩き出していて、それを止めることは誰にも出来ないのです。

 私は私なりに、この50年の間、様々な事を経験してきました。ここまでにあっという間に来た感じもしますが、思い返すと本当に様々な事がありました。しかしそんな多くの経験をした人生も、いつかは終わってしまう時が来るのです。

 私が創価学会の活動を始めたキッカケの一つに、こういった事、つまり「人の死」という事について、どんな事が私の見に起きるのか、そこを知りたいと言う事がありました。

 いま私の感じている「リアル感」。これはこの人生だけで終わるのか、それとも死に直面し、それを超えたあとも残るのか。もしこのリアル感のある事が、死により消えてしまうのであれば、この人生にはどんな意味があるのか、そんな事を考えてしまうのです。

 それだけではありません。

 私が日々仕事に取り組むのは、家族に少しでもいい生活を送らせたい。この日々の生活を守っていきたいと思うからです。しかしこの家族との生活も、残り時間は四半世紀程度の間で、何れはこの家族とも別れなければならないのです。

 こんな事を度々考えてしまう自分がいるのです。
 若い頃、そうですね、高校生時代の頃には、自分が五十代になるまでのは、まだほど遠いと言うほど時間があり、未来はまだ長く、様々な可能性を自分自身に感じていました。しかし五十代になった今、この五十年という時間は、まさに「光陰矢の如く」過ぎてしまい、本当にあっという間にこの年齢になった感じがするのです。

 人生の時間とは、思った以上に短い。
 この人生には、自分自身にとって、どの様な意味があったんだろう。

 そういう風に考える事もあるのです。
 またそれだけではありません。もし、法華経に説かれる様に、久遠実成の仏という事があり、多くの臨死体験者が語る様に、「死」というプロセスを通過した後にどの様な事があり、そしてどの様に次の「生」のプロセスに行くのでしょうか。そしてもしその様なプロセスがあるとするなら、人生の生き方も考え直さなければならない事があったりします。

 私は今の人生に対して「リアル感」をもって生きていますが、果たしてこのリアル感にはどの様な意味があるのか。まだまだ思索を続けていきます。

 ちょっと、まとまりのない今回の話でしたが、これからもよろしくお願いします。


コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 成仏とか仏罰とか | トップ | UFO問題について »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思う事」カテゴリの最新記事