自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

映画「エミリーローズ」を観て②

2020年11月10日 22時35分36秒 | 心のかたち
 さて、「エミリーローズ」を見て考えた事について、今回も書かせてもらいます。エミリーローズでは、主役のエミリーが「天国」という事と「悪魔が実在する」という事を証明したい言つていました。これは私達が生活する物質世界以外にも、別の世界が存在するという事を言っているのかと思います。

 この映画では「エクソシスト(悪魔祓い)」の事が語られている事から、キリスト教のカトリック教会の世界観に基づく話となっています。キリスト教の死生観では、人は死後に行くところは天国と地獄、そしてその中間には煉獄という事を述べています。そして「悪魔(サタン・デビル)」とは地獄にいる存在と考えられている様です。

 つまり「悪魔が実在する」という事を自身の姿を通して証明するという事は、キリスト教の死生観について証明するという事にもなるでしょう。

 しかしここで考えてしまう事は、この話で語られる死生観とはキリスト教カトリック教会の死生観であり、けして人類全般に普遍的な事ではないという事です。例えば地獄・煉獄・天国という死生観は、仏教国にはありません。また仏教でいう地獄とキリスト教の説く地獄は異なります。そもそも「黙示録」「最後の審判」という思想も仏教にはありません。だから単純に「悪魔(サタン・デビル)」と言われてみても、その様な概念は仏教国には通じないのです。

 このエミリーローズの映画内容から、ネット上にあった意見として、死後の世界は人の宗教観別にあるという様な意見がありましたが、私はこれは違うのではないかと思いました。もし死後の世界が宗教観別に存在するとした場合、それほど窮屈なものは無いのではないかと私は思うのです。

 確かにエミリーローズで描かれている様に、アンネリーゼ・ミシェルは、この世界に悪魔は存在すると言う事を証明しようと考えたのかもしれません。これはこの世界には目に見えるもの、物理的に証明出来る事以外のものが存在するという、とても大事な視点を提示していると思います。しかしその目に見えるもの以外の存在とは、単に一つの宗教による観点の枠に収まるものでは無いと、私は思うのです。

 私は仏教を信じている立ち位置になるかもしれませんが、だからと言って、仏教全般で語られている死生観が正しいとも考えていません。それらの死生観は、大事な観点を与えてくれるものだと思いますが、やはりそれらを鵜呑みにする事は出来ないのです。

 この死生観ですが、特的の宗教観を鵜呑みにすることは、その人の生き方を特定の宗教に縛らせる事にもなります。創価学会の活動家達が、どんなに政治が不透明になろうが、その支援政党が自分達の過去の主張と異なる行動をとろうが、盲目的に支援する行動を見ても、その事は容易に理解出来る事でしょう。

 本当であれば一人ひとりがしっかりとした考え方を自分の中に構築する必要があるのですが、今の時代、それはとても難しい事なのかもしれません。何故なら人間の生死は、今の時代、病院という施設の中に閉じられてしまっているので、中々、思索するきっかけを得るのは難しい事だと思うのです。そういう事から言えば、このエミリーローズの映画は大事な観点を与えてくれるモノだと思いました。

 このブログの過去の記事で、心のかたちとして様々な事を書いてきましたが、次回からその観点を元に、この事を更に書いてみたいと思います。

(続く)


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映画「エミリーローズ」を観て①

2020年11月10日 11時32分01秒 | 心のかたち
 昨日はVOD(NETFLIX)で、「エミリーローズ」という映画を観ました。これは2005年に製作された、アメリカのホラー映画です。この映画は1976年にドイツで発生したアンネリーゼ・ミシェルの保護責任者遺棄致死罪を題材に製作されたと言います。

 この事件は、アンネリーゼ・ミシェルという少女が病気と診断され、長年治療してきましたが、改善する気配はなく、その後の異常行動からカトリック教区により、正式に「悪魔憑き」と判断され、その悪魔祓い(エクソシスト)を実施中に栄養失調等により彼女が死亡した為、裁判になった事件でした。



 映画のストーリーとしては、一応、ホラー映画のなっていますが、内容的にあまりおどろおどろしい物ではなく、主人公のエミリーが亡くなり、そこからエクソシストを実施した司教が裁判にかけられ、法廷闘争の中で、様々な事が論じられていくという内容でした。

 果たして、悪魔憑きとは精神病の一つなのか、それとも超常現象に属するものなのか。

 検察側は、悪魔憑きとは精神的な病であり、エクソシストを実施した教区の司教は、エミリーにまともな医学的な治療も受けさせず、結果として彼女を栄養失調により殺してしまった事を論拠立てて立証を進め、一方の教会側の女性弁護士は、エミリーは精神病では片付けられず、エミリー本人や家族も最期の手段として、司教に救いを求め、エクソシスト(悪魔祓い)を依頼した。また司教もエミリーに食事を取らせようと努力もしたし、けして医療行為も否定しておらず、だから今回の事は罪には当たらないという抗弁をしました。

 攻める検察官はカトリック信徒であり、弁護する弁護士側は神を信じない不価値論者ですが、互いに真っ向からぶつかり合う内容は、かなりのものでした。これは恐らく演出だったのでしょう。また教会側は、司教に証言させず、穏便に済ませたいという姿勢。その為に女性弁護士には被告である司教に証言はさせないように求めていたのです。

 ただ実際にエクソシストを実施した司教は「エミリーの真実を知らしめねば」という使命感から、女性弁護士に証言台に立つことを求め、女性弁護士も裁判に関わる中で、不可知論者である自身を揺るがす様々な出来事に遭遇するなかで、司教を証言台に立たせました。

 そして証言台に立った司教は、エミリーから貰っていた手紙を紹介、そこにはエミリーの自筆で、自分が自分自身に取り憑いた悪魔を示すことで、悪魔が実際に存在する事、また霊界というのは実在する事を証明したいという事が書かれていたのです。
 確かにエミリー自身は精神病の症状を完全に示していた訳ではなく、所謂「憑依状態」以外では、しっかりとした自分を持つ少女でした。ただ感受性が非常に敏感であったから、その隙間に六人の悪魔が憑依したと言うのです。

 この映画で裁判の結果は、エクソシストを行った司教は有罪。ただし裁判の結審日をもって、懲役刑の刑期は終了するという判決になりました。その後、司教は隠遁生活に入ったと言います。

 この映画の元になったアンネリーゼ・ミシェルの墓は今もあり、訪れる人は今も絶えないと言われています。

 さて、私がこの映画を観て思ったのは、悪魔という存在と、ミシェルが遺言した霊界というものは存在するのか、という事でした。
 こと憑依ということで言えば、私が若い頃に「狐憑き」とか「蛇搗き」という話を聞いたこともあり、実際に宗門寺院で蛇憑きの姿を見たこともあります。また一般的にいう死後の世界について、私の独自な見解ですが考えたりもしています。そういった私の見解から考えた場合、果たしてこの映画で示された内容とはどの様に解釈したらよいのか。

 またこういう事について、私達の社会では「病理的」に解釈をしようとします。しかし果たして現代の医学的な領域だけで、全てが解釈可能なのか、そこについても気になる所です。人間の心のかたちについて、今の医学でも完全に掌握出来ている訳ではありません。しかしそうかと言って、臨床的な精神医学全般を否定するのもオカシナ話です。

 という事で、この映画をきっかけにして、少しこの辺りを思索してみたいと思いました。

(続く)

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