自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

創価学会のダブスタの淵源

2020年11月08日 11時08分18秒 | 思う事
 今日は秋晴れ、紅葉の季節になってきましたね。アメリカの大統領選挙もバイデン氏の当選が、ほぼ確実視され、これからどの様に国として再統合するのか、そこが気になります。

 アメリカの事は良いのですが、日本はどうなっていくのでしょうか。来年には総選挙もあるやに聞いてますし、私の周囲を見ると創価学会ではZU台帳の整備など、選挙体制へと動いています。今回のアメリカ大統領選挙もそうだし、新型コロナウィルスで混乱する世界を見ていると、やはり時代の変わり目に来ている事を実感しています。

 人類社会は一体どこへと向かうのでしょうか。

 さて今日は、創価学会にある「ダブルスタンダード」の淵源について、少し考えを巡らせてみたいと思います。

 いまの創価学会の精神的な支柱は、間違いなく池田大作という人物です。以前であれば「SGI(創価学会インターナショナル)会長」であったので、池田会長とよびましたが、考えてみたら先だっての会則改正により、SGIも今や日本の創価学会の「一部局」となってますので、池田会長という呼称も使わない方が良いかと思いました。

 池田大作氏も既に人前に出なくなり十年以上になりました。果たして生きているのか、既に死んでしまったのか、そこは明確にはなっていません。蝋人形の様な姿は聖教新聞にたまに掲載されますが、以前の様な「生声」が聞ける動画は出されていません。

 創価学会では、以前から「ダブル・スタンダード」という事が言われていました。所謂、本音と建前の様なものです。口では「人間主義」と言いながら、行動では「裏切り者は、徹底して責めぬけ」という指導で、創価学会を脱会して法華講に移った人達に様々な嫌がらせとも言う様な行動を取ったり、どの政党を支持するのは自由と言いながら、組織活動として公明党支援が絶対要件であったり。

 こう言ったダブル・スタンダードは、組織で活動した事がある人ならば、誰でも経験をしているのではないでしょうか。

 また近年では、安保法制に賛成。以前には護憲の姿勢を明言していたにも関わらず、自衛権の名のもとで、安易な姿勢に方向転換。最近では大阪都構想もそうですし、消費税に関してもそうてす。

 私はこの創価学会のダブル・スタンダードの淵源は、やはり池田大作氏に起因すると考えています。

 確かに池田氏は元気な頃、本部幹部会同時中継などでは、綺麗事の箴言を沢山語っていました。またそれだけではなく、本部幹部会ではスピーチ原稿の内容は、後日、新聞に掲載されるからと、別の話をしたりして、そこではそれは良い内容の話をしてもいました。

 しかしその一方では、創価学会の体質改善を具体的に何か手を入れたかと言えば、入れていないばかりか、そのスピーチ等の言葉とは、まったく相容れない組織運営の体質を放置もしてきました。

 私が男子部で幹部になった時、部員を大事にしよう、けして部員は組織の駒ではない、そう思って行動をしてきましたが、実際に組織的に求められるのは「数字という結果」であり、そこには部員を駒として見る論理が働いていました。そしてそれに反発すると、結果として組織からはハブされる事にもなり、その相対する矛盾を抱え込まねば、現場の幹部としてはやり切れない事も、多くあったのです。

 こんな組織活動を長くやれば、当然「ダブルスタンダード」は幹部の中では常態化し、人によっては心が引き裂かれてしまう事もあるでしょう。

 以前にある大先輩は語りました。

「池田先生はな、人間を抑圧する組織になったら、創価学会は解散する!と言明されているんだ!」

 しかし近年になり、スラップ訴訟まで行う創価学会には、解散なんて思いも寄らない事でしょう。またこの言葉を語っている先輩なども、スラップ訴訟なんて知りもせず、嬉々として会館運営に携わっています。

 私が地区部長の話を受けたとき、組織的な問題点を指摘しましたが「だったらいらない」と言われ、その幹部の耳に活動家の本音や悩みは一切届きません。私が組織活動をアホらしくなったのも、それからでした。

 これらも全て「私の命よりも大事な組織」という、過去の池田氏の発言による影響もあるでしょう。また「学会活動をやり抜けば幸福境涯に」という言葉も影響しています。

 思うに池田大作氏の側近と言われた人達に、大人物だという人は居るのでしょうか。長谷川氏、谷川氏、八尋氏を見ても大人物とは思えません。子息の博正氏などは「世捨て人」の様だと聞いています。
 私が唯一記憶しているのは、思想的には友岡雅哉氏でしたが、この人も信濃町に追い詰められ亡くなった様なものです。

 確かに池田氏の残した様々な箴言はありますが、この様な状況を理解した今となっては、私は何も魅力すら感じる事が無くなりました。所詮はダブルスタンダードを醸成し、まるで会員のガス抜きの為の様な言葉に、一体どんな意味があるというのか。

 もし池田氏の言葉が「本当に生きた言葉」であれば、信濃町の有り様も、もっとマシに成っていたはずですし、末端組織の有様も異なっていたでしょう。その様に思ったからこそ、今の私は池田氏の言葉には何も関心もありませんし、より自分の頭で考える様にもなりました。

 そもそも創価学会とは仏教団体であるはず。であれば創価学会に迷った場合、戻るべきは日蓮の言葉であり、そこから仏教に戻るべきではないでしょうか。しかし多くの元活動家が戻ろうとするのは、池田氏の綺麗事の箴言なんですよね。

 そこに私は創価学会のダブルスタンダードの罪深さを感じています。

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