クロスバイクで元気

念願叶った定年退職の身は、先立つ物は細く時間は太くの狭間。
歩いて、自転車に乗って感じたことを、気ままに書き続けます。

一宮円空会の長谷川公茂先生が語る 「 円空仏の背景 」

2011年07月12日 19時25分43秒 | 円空さん
【2019.3.12追記】
以下の記載事項は、長谷川先生の説であり、「奈良の大峰山で修業をつんだ」と「志摩市の片田で “ 大般若経 ” を補修した」の2事項以外は、必ずしも証跡があるものではありません。
【追記、ここまで】

今日は、私が参加してからの4回目の一宮円空会。
参加といっても、長谷川公茂円空学会理事長のお話を聴くだけなのですが。

今日は 『 円空仏の背景 ー<母の鎮魂の造形>- 』 です。

円空が母を亡くしたのは、円空が7才の時、寛永15年(1638年)の洪水による非業の死。

円空は、母親の33回忌にあたる40歳の時に、生誕の地羽島市上中町で観音堂を設立し、本尊として高さ約2.2メートルの十一面観音像を造願したが、このことだけでは、どうしても母の鎮魂にならないことを強く思ったという。

その後円空は、奈良の大峰山で修業をつみ、延宝2年(1674年)春には、志摩市の片田で “ 大般若経 ” を補修し女人成仏の経典の情景を描いた際、天地悠久の真理 「 法の道 」 に母の成仏はすんでいると悟ったそうです。

円空の一生を通しての人並み外れた仏を彫り続けるという強い意志と行動は、なにからきたのでしょうか。

円空は思います。
観音さんの功徳は強いと。
その強い功徳を 「 たくさんの観音さんを造って、たくさんの人に差し上げる 」 のだと。
自身の苦しみと同じ苦しみを感じているであろう人々に、その苦しみを和らげようと、円空の “ のみ ” は静かに、木にその魂をこめていたのでしょう。

尚、長谷川先生の今の一番の関心事は、「いかにして、充実して平穏に毎日を暮らせるのか」
そのため、今は、 “ しゅうかつ ” ( 就活ならぬ、終活 ) の真っ最中とか。

(円空の生きざまの文章は、長谷川先生の著作資料とお話から、私なりに要約させていただきました)
(写真は、羽島市の中観音堂の十一面観音像です)



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