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散文。日本の西洋印刷。

2019-05-26 08:54:51 | 開発


天正9年(1581年)03月に。安土にセミナリオの建物が完成し、天正9年04月から25名の日本の若者が第1期生として、学習を始めた。

天正9年07月になって信長が、巡察使の中でも最高位の総長権限を代行して1579年07月25日に島原半島の南端口之津に上陸し、ミヤコ(京都)に滞在していたアレッサンドロ・バリアーノ(アレッサンドロ・ワリニャーノ/Alessandro Valignano/1539 - 1606)と話し合いたいと思い、セミナリオにやってきた。

アレッサンドロ・バリアーノは、セミナリオの学生たちを広間に集め、信長のために楽器を演奏するように命じた。

豊後府から来た伊東祐勝がビオラ。手先が器用な飾屋のコンスタチノはラベイカを持ち、修道士のディオゴ・デ・メスキータがクラヴォーを合わせた三重奏を披露した。
これが信長にとって、初めて聞いた西洋音楽であった。

コンスタチノは、その後ディオゴ・デ・メスキータの従者として長崎に伴われ、その結果、キリシタン大名の大友宗麟、木村純忠、有馬晴信が1582年02月20日に送り出した「天正遣欧使節」の一員としてローマに向かう正使となった伊東マンジョ、千々石ミゲル、副使となった原マルチノ、中浦ジュリアンとは異なり、領主の一族でも、武士でもないコンスタチノ・ドラード(ポルトガル語で金細工師)が使節にに同行し、8年かけてローマを往復して、帰国後は肥前の加津佐で修道士となり、ローマで修行した西洋印刷術を駆使して、「キリシタン版」の発行に尽力し、徳川幕府が慶長18年(1614年)のキリシタン禁止令でマカオに追放になった。
2年後に司祭になり、セミナリオの院長に任命された。1620年に病死し、サンパウロ教会に埋葬された。

https://time-az.com/main/detail/68588

一方、ビオラを奏でた伊東祐勝は、アレッサンドロ・バリアーノが「天正遣欧使節」の主席ににしようとしたが、安土での勉学の機会を失うことができず、代わりに伊東マンジョがその大役を担った。

高瀬川などの土木工事で大金を得ていた角倉素庵(1571 - 1632)が資金を提供し、本阿弥光(1558 - 1637)が古活字版の嵯峨本として、最初期に印刷した『伊勢物語』は慶長13年(1608年)であり、角倉素庵や本阿弥光は、コンスタチノ・ドラードを嵯峨の鷹ヶ峰にあった世界で最初の芸術家村に招待し、西洋印刷術を学んだ可能性は非常に高い。



明らかではないが、その時に西洋印刷機も作ったことが想像できる。

私の手元に、当時の木製印刷機を復刻したものがある。

つまり、「キリシタン版」以外で、初めて、日本で作られた西洋印刷機を使って西洋印刷術で作られたことになる。

ただし、西洋印刷は「n」のアンダーラインで組まれるのに対し、嵯峨本は中心線で組まれる。

これは「キリシタン版」と同じで、ここからも角倉素庵や本阿弥光は、コンスタチノ・ドラードを嵯峨の鷹ヶ峰にあった世界で最初の芸術家村に招待し、西洋印刷術を学んだことがうかがえる。

私は、国立公文書館の嵯峨本『伊勢物語』(請求番号:特060-0017)のマイクロフィルムにしたものから、活字分析を実施した。この本は数10回手にとって、活字分析を確認した。
この本が、嵯峨本『伊勢物語』一種イ版であり、角倉素庵や本阿弥光が徳川家康に贈呈し、紅葉文庫に収まっていた本である。



嵯峨本『伊勢物語』の活字分析を活用して、マルチメディアコンテンツ関連産業の振興を図るため、マルチメディア・コンテンツに関する調査研究、人材育成、研究開発などを推進するために、通産省(当時)が情報処理振興事業協会(IPA)に出資し、マルチメディアコンテンツ振興協会が受託して実施した「先導的コンテンツ市場環境整備事業」で、Google Mapsと同様に、モーフィングを活用した画像保管と、ベジェ関数で、連綿文字を入力できるシステムを開発した。

1582-02-20---「天正遣欧使節」が長崎港を出港した。
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