卆寿の旅

平成30年8月3日、満九十歳 卆寿になり、「八十路の旅」を「卆寿の旅」にタイトルを変更し、徒然なるままに記します。

変容

2018-09-28 18:06:41 | Weblog

***10月1日、台風一過の記事を掲載中、突然「変容」投稿記事が全部消去された。・・いろいろ復元を試みたが不能。写真が残っているので、写真を掲載しながら、文章を補填します。とりあえず、写真のみ。

<秋晴れ> 

 

 

<変容>

  仕事で疲れると、私には「駆け込み寺」がある。妻が使用していた居間のベッド。このベッドに横になり、無念無想を決め込む。昨年、11月14日、妻は昼食後、突然倒れ、私の腕の中で永遠の眠りについた。{・・参照:2017,12,7「寂滅」・・2017,12,18「追憶」に詳述・・}

  私は、それから、約10ヶ月、妻のベッドを使用してきた。妻は二度とこのベッドには戻ってこなかった。ただ、今は、無粋モノの ジロ爺さんが、四苦八苦しながら、ベッドにしがみついている。

  ベッドの容子は変わった。ジロ爺さんは、しきりに「変容」という言葉を考えた。「変容」は後戻りできないように思える。そして、「変容」には、過去の自分から生まれ変わるために「生みの苦しみ」があり、痛みを伴うことが多いような気がする。 

<疲れの原因>

  9月27日、午前中、3号田のカブラ、2号田の野菜に追肥した。
  2・3日前、ハクサイ、ダイコンに追肥し、カブラ、野菜の追肥を実行予定だったが、疲労困憊、中止していた仕事だった。

  午後、昭和40年頃、産業高校分校教師時代、生徒だったNが、わが家を訪問してきた。畝づくりに難儀している状況を察知。「こんなん、ぼろくそや」といって、管理機を持ち出し、鋤いて、生ゴミ乾燥肥料をまき、畝づくりをした。やっぱり手慣れたモノで、午後2時頃から午後4時頃までに、マルチを敷き、畦敷きで仕上げた。Nは学生時代、何度もわが家を訪問し、家内はじめ、わが子供たち{6才(女)と3才(男)}に人気の的で、稲を作っていた5号田、6号田の、稲刈りなどをしてくれた記憶があった。

  Nが帰る際には、お礼をしたのは言うまでもない。  

 

☆9月27日、午前10時過ぎ、3号田のカブラに追肥。10:10写。・・追肥は10分くらいで終了した。10:20写。

 

☆9月27日、カブラの追肥後、2号田の野菜(ブロッコリー2・レタス3・キャベツ3・ハクサイ4)に追肥した。寒冷紗を半分めくりあげ、追肥。寒冷紗を閉めて終了。・・書けば簡単だが、やっているジロ爺さんにとっては、かなりきびしい労働であった。10:43写。・・終了は10:50写。

 

☆2号田の野菜の隣のアズキの出来具合が上等。・・ついでに写真におさめた。11:00写。

 

☆(左)9月21日、午前11時頃、1号田の畝づくりのために草引きなどをした図。前のブログ参照。

☆(右)9月27日、午後2時ごろ~午後4時頃までに、2つの畝づくりを、Nがやってくれた写真。

**ともかく、いくら人にしてもらうとはいえ、準備、肥料、道具、後片付けなどは、ジロ爺さんの仕事。そこが、疲れる原因なんだ。解っちゃいるけど止められますか?口だけで仕事は出来ない。やっぱり、手足を使って補助の仕事をしているわけだ。気を遣うしね。しょうない。


<台風一過>

  10月1日、丹波篠山地方は朝から秋晴れ。・・9月30日、台風24号が、九州、四国、近畿、東海、東北を縦断したのは、ウソのように晴れた。台風一過。
 
  9月30日、テレビは朝から、台風情報一色。とりわけ、NHKは、すべての番組を中止。おかげで昼の「のど自慢」、夜の「西郷どん」も観られなかった。ただ、ベッドに横になり、移りゆく台風情報を聞きながら 、風雨に耳をすます。時々トタンを叩く雨音がするだけ、静かな夜が更けた。・・・ここまで記して、投稿しようと、キイを押したら、今までの「変容」編集が全部消去されたわけ。・・いろいろ復元したが、元に戻らなかった。写真だけは残っていたので、再度掲載。「変容」「疲れの原因」の文章は、またの機会に記すことにする。

  それにしても、なぜ消去されたのだろう?スイッチひとつの押し間違いで、ストンと全部消えた。核保有国のトップが、スイッチのボタンを押す用意があると言った。恐い話だ。ひょっとして間違って押したらと思うと、慄然とする。

<シルバーさん、草刈りに・・>

  10月1日、朝、Mさんからテルあり、「シルバーの依頼で、草刈りに行きます」との、話。・・ズッと前に、シルバー人材センターに依頼していたことを思い出した。Mさんは近所の人で、よく知った間柄。よく働くとの定評の人物。間髪を入れずOKのサイン。

  午前9時頃から午前11時30分頃まで、あっという間に、わが裏山の6号田、5号田の草刈りが終了である。さすが、草刈りのプロ。刈り方が違う。・・おまけに刈った草を集めてもらった。

 

☆10月1日、シルバーMさんの草集めの図。10:00写。 草刈り後の6号田。夕方写したので、うまくとれなかった。16:30写。

  

☆草刈り後の6号田。東西から撮った。午後4時頃、撮ったので、陰ってピント不正確。


<裏庭の剪定>

  10月3日、朝から、K君が、裏庭の剪定にきてくれた。K君は先日の中学校の同窓会に出席しており、「10月になれば剪定に行きます」と、その場で約束を交わしていた。

  K君は、中学生時代は本当に目立たない生徒だった。卒業と同時に、箕面のパン屋に弟子入りし、そこで剪定の技術を習得。・・現在、丹波地域で剪定作業に従事しているわけ。・・同窓会では、彼はいつもわが輩の傍にいた。同級生は不思議に思っていた。・・・すでに、3回ほどわが家の裏庭の剪定をしてくれていた。Kとはそういう仲だった。 

☆ 10月3日、裏庭で剪定中のK君。彼自慢のエンジンつきカッターを使用。あっという間に、裏山、5,6号田の草刈り・剪定作業をしてくれた。いやぁ、やっぱり若さだよね。57才は働き盛りだよ。仕事ぶりが違う。・・彼の欠点?は、出したお茶や、お菓子類を何一つ食べないことだ。昼食はローソンで買ってきた、弁当を食べた。お茶は麦茶(ペットボトル)を飲むだけ。・・休息はあまりしない。11:03写。

☆10月3日、殆ど剪定を終了し、木々や草を集めて、焼却作業までしてくれた。5号田の畦畔に植えたサツキの垣、エンジンのバリカンで、10分もかからなかったと思う。午後3時半に終了。

  10月3日、午後4時、歯科検診(3ヶ月に1回)の予約日。午後3時45分には、自動車を駆って出発せねばならなかった。そういうときに限って来客(有機野菜づくりをしているメンバー)があった。仕方なく、別の日を予約して別れた。

 ***10月3日の夕方~夜にかけて、とことん疲れた。這々の体でベッドイン。無念無想。・・・午後10時頃に入浴。やっと人心地がついた。・・つくづく思った。何かにつけて、ムリのムリ。・・・自ら剪定作業は、やらないが、K君への注文はある。そのたびに足を運ぶ。裏山への石段を、何度上り下りしたか、・・実はそれがムリなんだ。・・それではどうすればよいのだ。解決はそのうちに見つけることにする。

***10月4日、朝、PCにむかった。縄文人(ブログ名)さんからのブログを拝見。ビックリ仰天。・・野菊の墓、矢切の渡しの、YouTube入りの本格的なブログを拝見。涙した。ともかく本場の写真だ。実は妻とも矢切の渡し、野菊の墓は、旅行を企てたことがあった。実現しなかったが、縄文人さんのブログを見せた。アヴェ・マリヤのバックミュージックに、今は亡き妻と二人で泣いた。

***まあ、しかし、自分は自分流儀のブログを紡いでいくことにする。写真を取り込めるだけでもよしとしておこう。 

***パソコンの調子が、すごく悪い。文字が消去されて困っている。新規投稿も、どうもうまく連動しない。もう、この辺で止めとけという意味なんだろうかと、少し不安。

***「秋本番」と題して新規投稿をします。が、少しずつ記します。要領を得ない文章になると思いますが、何とか頑張ってみます。

 

 

 

コメント (14)

老人力

2018-09-21 18:04:59 | Weblog

<久しぶりの農作業>

  9月21日、午前10頃、外に出ると、曇り空だが、雨は落ちてこない。

 「よし、今しかない。1号田の畝づくりにかかるぞ」・・仕事着に着替えて畑に出た。9月19日に一度晴れたきり、毎日、雨模様の日が続いていた。体は張りきっているが、心はムリムリと、はやる気持ちにストップをかける。ジロ爺さん頑張を、ひとまず写真で説明。

 

☆作業開始まえの1号田・・草刈り機を使用。10:30写。

 

☆草刈り後の畝の様子とキュウリ支柱の解体。11:10写。

 

☆(左)刈り終わった1号田。これで畝づくりが出来る。でも、後片付けはまだ。

☆(右)15日に植えたハクサイが見事に成長中。10:15写。

 

<老人力と後始末>

  9月21日、午後、昼寝三昧。ふと、本棚の赤瀬川原平著「老人力」を手にした。2000年頃、ベストセラー。もちろん赤瀬川源平は芥川賞の作家。当時「老人力」という言葉がはやった。その年の言語大賞にも選定されたのではなかったか?・・はっきりしない。彼の説を簡単に言うと、「物忘れが激しくなった」など老化による衰えというマイナス思考を「老人力がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転発想のこと。

  当時、ボケたりすると、物忘れをすると、「それ、老人力がついた」と、お互いに慰めたりしたことを思い出した。

**昼寝時、「老人力」の合間に、曽野綾子著「夫の後始末」が、顔を出した。・・趣旨は分かるが、いくら親しい間柄とはいえ、夫の死を後始末とは、言いづらい。・・それみろ。泣けてくるではないか。昨年、11月14日、私は最愛の妻を亡くした。午前11時50分、妻は私の腕の中で息絶えた。もちろん救急車で病院に運んだが、妻は息をふきかえさなかった。

  その時の模様は今回は割愛。参照のブログを開いていください。{・・参照:2017,12,7「寂滅」<寂また寂><最後のツーショット><最後の抱擁>・・}

  9月21日、午後5時頃、ようやくベッドを離れた。「そうや、1号田の後始末、後片付けが残っているぞ」と、外に出ると、雨降りである。何故か、残念とは思わなかった。体のシンが回復していなかった。むしろ、天の恵みの雨だったかも知れないと、首を縦に振った。


<中学校同窓会に出席>

  9月23日、(秋分の日)昭和52年、丹南中学校卒業生同窓会に招待されて出席。(8月初め頃は、ムリかも知れぬと、曖昧にしていたが、9月13日、手術の結果が判明し、急きょ、出席の意向を幹事さんに伝えた。今回で3回目になる。まさか90才で出席できるとは思っていなかった。

  会席の途中、挨拶を求められ、次のような話をした。

  {・・皆さんは、昭和36年生まれやろう? 1961年、今年は2018年だから、2018-1961は、・・えーと、57才ですよね。(そうや、そうやの声が上がる)・・あと3年で還暦ですよね。・・ワシ90才になったわね。(・・爆笑、ウソ、ウソと皆言った。)・・でも90才はしんどいぞ。目下、四苦八苦で生きとる。四苦八苦を説明すると1時間はかかる。そこにSさん(現役のお坊さん)がいるので、聞いてくれ!(爆笑)・・満80才で始めたブログ「八十路の旅」は、「卆寿の旅」に題名を変更して、続けている。・・スマホで検索してください。・・私の生きている姿を、こよなく記しています。・・いや、皆さんの健康をお祝いして、メッセージを終わります・・}

  さっそくスマホを開いて、見せに来てくれた子がいた。野菜づくりをしきりに聞いてくる子もいた。12時10分前に軽自動車で出発。12時30~15:30、同窓会に出席。いや、ほんま楽しいひとときを過ごした。教師冥利につきる思いを味わった。

 

☆開会の前に、スナップ写真。バンダナスタイルと無帽のスタイル。

 

☆(左)会席料理・もちろん、このほかに5皿ほど、運ばれてきた。酒を飲まないので、ウーロン茶1色。全部平らげたのには、皆びっくり。(90にもなって、なんで、そんなに食べられるねん)

☆(右)校歌を斉唱し、花束をいただいた。感謝! 

  それにしても、昭和52年、1977年、私は現役の教師。3年生を担任。同時に学年主任。英語を担当し、野球部の監督をしていた。バッテング・ピッチャーをつとめ、ビュンビュン投げていた。若かった。

  野球部・監督の思い出は、語れば尽きせぬ思いでいっぱい。近いうちに野球の話題のとき、ブログに記すことにして、今回は割愛。(前に一度記載したかも知れぬ)

<四苦八苦>

  この言葉も、ブログでは初めてではない。何度となく記している。今回は「八苦」について述べる。四苦は生老病死のこと。八苦というのは、次の四つの苦しみをいう。

(1)愛別離苦(あいべつりく)・・愛した者との別れる苦しみ。
(2)怨憎い苦(おんぞうえく) ・・恨み憎む者に合う苦しみ。
(3)求不得苦(ぐふとくく)  ・・求めているものがえられない苦しみ。
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ。
                 (色・受・想・行・識) 

  前の四苦とあとの四苦を、総称して四苦八苦という言葉が生まれた。八つの苦があるわけではない。 いずれにしろ、ものすごく苦労し、ものすごく苦しむ・・総称として、四苦八苦が使用されているようだ。


<野菜の追肥に大童>

  9月25日、・・2、3日前からズッと気になっていた、1号田のハクサイ、2号田のダイコン、3号田のカブラの追肥を実行した。およそ、野菜の育ち具合を見て、野菜と話を交わして、追肥を決めるのが定番。

  1号田のハクサイの成長がスゴイ。もう2、3日経てば、追肥が出来ないぐらいのデキである。「9月25日、今日しかない」と、心で叫んで実行した。

  でも、そう簡単に追肥は出来ない。牛糞、灰、ぼかし、活性液を午前中に準備し、午睡後、午後3時頃から、ハクサイに追肥。・・2号田のダイコンの根を固めながらの追肥。・・3号田のカブラにも、追肥する予定だったが、体の限界を察知。明日に実行予定。・・でも疲れた。でも、出来た喜びの方が大きい。

  25日の模様を写真で説明。

 

☆(左)追肥の決め手・もみいりヌカぼかし。これは、ジロ爺さんが30年つむいできた手作りの発酵肥料。(EMぼかし) 2年ねかせているので、開封すると、辺り一面酒のような発酵の香りがする。このぼかしをバケツの容器に入れる。25日、11:00写。

☆(右)台車の容器に追肥肥料を積み込む。牛糞(10リットルバケツにいっぱい)・焼き灰、牛糞と同じ量。それにぼかしを5リットルほど入れる。25日、11:10写。

 

☆(左)台車に詰め込んだ肥料と腰掛け台車。この2台で追肥をする。25日、11:19写。

☆(右)ハクサイ、寒冷紗を半分開ける。ついこの間植えた苗がこんな状態に育った。これ以上、遅くなると追肥がしにくくなる。25日、15:38写。 

 

☆(左)いよいよ追肥実行。午前中に肥料を準備し、昼寝を充分とって、午後3時過ぎから追肥。・・追肥の実際の時間は10分ぐらい。 ・・まあ、それまでの手間に時間がかかるわけ。・・昔、2,3年前頃は準備・追肥を一気にやっていた。1時間ぐらい。・・現在は一日がかりとなった。

☆(右)寒冷紗を閉めてハクサイの追肥を終了。25日、15:30写。

**引き続き2号田。ダイコンの根を固め、追肥完了。・・あとで考えると、ちょっとダイコンに手間暇を要し、その分、体力的にムリだったようだ。・・(3号田の電気柵に台車を運び、25日は終了)

 

☆ダイコンの根が土から浮き上がっていたので、根を締め直しながらの追肥となった。ここで、倍の時間と体力を使った。どうしても、辛抱と自重ができない。情けないジロ爺さんである。25日の夜、疲れがでて、テレビも観ないで寝た。シンドイ。・・大手術をしてまだ1ヶ月、まだ、ムリはダメのようだ。自覚。
・・写真は25日、午後4時頃撮った。

 

 

 

 

コメント (14)

辛抱

2018-09-15 15:56:04 | Weblog

<辛抱>

  この頃、辛抱という言葉をしみじみと考えている。

  病院に入院して、したいことも出来ず、絶食を強いられ、辛抱の連続であった。でも、おかげで退院出来、結果も良好で、ホッと一息ついた。辛抱には、何か希望のような光がある。あとで実りがあるように思える。

  よく似た言葉に我慢がある。でも、辛抱と我慢とは少しニュアンスが違うように思う。ネットなどで調べると、次のような違いがあった。

  いやなことを堪え忍ぶのが我慢。・・好きなことのために堪え忍ぶのが辛抱。
  我慢の中には不満がある.・・辛抱の中には希望がある。
  我慢はいずれ爆発する。・・辛抱はいずれ実る。

  まあ、我慢も大切だが、辛抱するという言葉には、ひときわ意味が深いように思った。辛抱のおかげで、退院でき、よい結果をいただき、実りの生活を続けることができそうだ。

  このところ、晴れた日はない。ピンポイントの天気予報は、わが集落は、弱雨か曇りである。・・稲刈りが出来ない。少しでも晴れたり曇ったりの天気ならば、稲も刈れるが、まあ、辛抱の連続である。

  ところが、9月14日、午後1時、「今から稲刈りをします」と、親類のKさん(請負専門の大型の農業実業家)から、電話があった。午前中は少し晴れで青空ものぞいたが、曇り空である。(今のうちだ)というわけだ。

<無事に稲刈りが終わった>

  9月14日、午後1時ごろ、わが稲田にいった。ちょうど大型のコンバインとモミを運ぶ軽自動車がきていた。コンバインが動き出したのは午後1時10分だった。
  刈り終わったのは午後2時5分。途中で少し雨がぱらついたが、無事終了。約1時間で、3反の田んぼの稲刈りが終わったことになる。Kさんの息子さん一人でコンバインを動かして、途中、一回、刈った稲(もみ)を、軽自動車に積み込み、あっという間に終わった。軽自動車を運転したのは、アルバイトの女性。この女性が、刈り残された稲を、カマで刈り取る作業もした。感謝! 

 

☆(左)コンバインと軽自動車が到着していた。13:05写。

☆(右)コンバインが一筋目の稲を刈り取る。13:17写。

 

☆(左)刈り取った稲を、軽自動車に移しているところ。雲行きがすこぶるあやしい。少し雨がぱらついたが、止んで、幸い、稲刈りに支障はなかった。13:46写。

☆(右)あと一回で終了の様子。13:56写。

  

☆(左)最後の一筋、少し残った。13:56写。

☆(右)稲刈り終了。コンバインが引き上げているところ。Kさん、アルバイトの女性、ご苦労様でした。

  それにしても、独りでコンバインを動かし、3反の稲刈りを、1時間足らずで終わるとは、昔は想像もつかなかったに違いない。・・じっと、首をかしげながら、田んぼを眺めるジロ爺さんである。(稲は乾燥機に入り、1日で乾燥を終わり、2日後にはお米となって、わが家に運び込まれる予定)

 

<ハクサイの苗を定植>

  9月15日、朝起きると、「ハクサイの苗を植えましょう」と、倅の嫁の言葉。・・いや、まいった。まいった。ハクサイの苗が手に入っていなかった。(ハクサイの苗づくりは、キイ婆さんの仕事だった。今年は私が責任をもって、苗を手に入れる運びとなっていた)

  苗はお店屋さんに注文していたので、早速、テルして、手に入れた。1号田の1畝をハクサイにあてていたので、14日に、マルチに穴をあけていた。2筋、千鳥植えで、36個を植える予定。

  午前11時20分ごろから、植え始めて、寒冷紗をかぶせて、終了したのは午前11時50分だった。ほんの30分で定植終了となった。もちろん、定植の殆どの仕事は、倅の嫁の手作業。はやい、はやい。ジロ爺さんは、とても、ついていけない。でも、寒冷紗を張るのは、ジロ爺さんの仕事。

 

☆(左)ポットのハクサイの苗、36個を、マルチに並べてたところ。倅の嫁の手作業。11:23写。

☆(右)寒冷紗をかぶせて、ハクサイ苗の定植終了。11:49写。

 

<カブラとダイコン・レタスなど>

  9月15日、午後2時頃、3号田のカブラの成長状況を撮った。これから間引くのが大変だと、ひそかにつぶやいた。

  9月15日、午後2時半頃、2号田のダイコン・秋野菜(キャベツ、ブロッコリー、レタス)の成長状況を撮った。倅の嫁がまいたダイコンが見事に芽吹いた。また、13日に植えたキャベツ、ブロッコリー、レタスなどが、寒冷紗の中で、完全に根を下ろした。ハクサイの苗(予備に4本手に入れてきた)も、隣に補植した。

  

☆(左)3号田のカブラの成長状況。ニンジンはまだ芽吹かない。14:40写。

☆(右)2号田のダイコンの様子。3本ぐらいが芽吹いているので、うまく種をまいてモノだと感心。(途中ドシャブリでビニールをかぶせた効果かも知れない)
  隣の寒冷紗には、ブロッコリー2本、キャベツ1,レタス1,キャベツ1,レタス1,キャベツ1,レタス1を植えている。ハクサイの予備として、4本を2列に植えている。

<辛抱・自重を自分自身に呟くや切>

  8月終わり頃、10日間入院し、退院したのが9月1日、・・3日ほどおとなしくしていたが、何故か体のシンが元に戻ったように感じた。いつものように畑にでた。ムリをしないように言い聞かせていたが、ついつい、ムリをする。辛抱が出来ないわけだ。

  9月13日、大腸ポリープ手術の最終結果の報告があった。ポリープは悪性のモノではないことが判明。いや、まったく、ホッと一息ついた。

  そこで14日、15日と、昔の通り仕事をした。稲刈りなどに気を配ったり、供出米の袋や、保有米の袋などの手配。保冷庫などの整理、掃除など、など。・・加えてハクサイの移植。・・ついついムリをしている様子。
  15日の夜、体のシンがぼやけた。腰が痛い。ふらつく。・・
やっぱり、辛抱するべきだったのかなぁ、自重するべきだったと、ちょっと後悔した。

  幸い、16日の朝には、どうにか体のシンが元に戻った感じ。・・もう、絶対ムリはしないぞ。それでも洗濯機は回した。久しぶりにお日様が顔をだした。でも、昼過ぎには曇った。

<病後の自覚・自業自得>

 今回の入院(手術、治療、加療)は、90才の私にとっては、大仕事だったと思う。でも、これで一巻の終わりだとは、思ったことがなかった。何となく「死」がちかづいたようには感じなかった。手術中も、終わってからの治療・加療の10日間、「死」を考えなかったことはないが、「生」が色濃く、「死」は、遙かかなたにあるような感じだった。

  主治医の先生は、最初年齢をみて、(ご高齢で、大丈夫かと思われたそうだが、話や検査で、70才台の体と診断されたという話)を、あとから聞いた。

  9月13日に、ポリープの結果がわかり、いっぺんに「死」が遠くなった。それで、以前のように、畑へ出た。草刈りもした。そして、疲れがどんときた。

  9月17日、18日、畑で仕事をすると、すぐ腰が痛くなる。5分の立ち仕事が出来ない。まだ、本格的な農仕事は、絶対ムリなことを、身をもって感じているところだ。

  9月18日、夕食時、腰痛の話をした。倅が、即座に答えた。「自業自得や」・・そばから倅の嫁が「まだ病後ですよ。ムリしないでください」 

  「自業自得」は、ジロ爺さんにはこたえた。自分の行いの報いを、自分が受けること。倅の的確な表現にまいった、まいったと頭をかくジロ爺さんではある。

<JAみどり館に行った>

  9月18日、午前11時頃、地域の新鮮な農産物や果物を並べている「みどり館」に行った。目的は有機農業で作ったキャベツが欲しかったから。・・ここの野菜はすべて生産者の名前入りである。・・かって、無農薬の野菜づくりを、一緒にやっていたキャベツを手に入れようとしたのだが、その名前はなかった。ハウスで作られたキャベツが並んでいたが、好みではなかった。知っていた人のナシが出ていたので、買って帰った。新鮮な野菜を手に入れるには、開店早々に行くのがいいそうだ。

 

☆みどり館の全景と内部。11:10写。

 

☆(左)ナシを手に入れた姿を、親戚の女性Nさんに撮ってもらった。いつものパターンだ。

☆(右)みどり館の前に駐車したわが愛車、スペーシア。車に乗れば、足腰がしゃんとするから妙だ。11:20写。 

<わが家の新米ができた>

  9月14日に刈り取られた稲が、なかなかお米になって到着しなかった。が、9月18日、午後5時、到着した。雨のおかげで、乾燥に例年の倍の時間を要したそうだ。

  新米、到着し保冷庫に収まったとき、毎年、無性に涙がこみ上げてくる。いろいろな思いの涙である。お米にしてくださったKさんの一家への感謝。収獲の喜びの涙。今年もお米によって生きていくことができる。世界には餓死する人が多いと聞く。感謝と祈りを捧げた。

 

☆(左)通用門の入り口まで、軽トラで運び込まれた新米(保有米)。

☆(右)入り口から数メートルの保冷庫に運んで収納。

  

☆(左)新米が格納された保冷庫。この保冷庫のおかげで、お米に虫がつかなくなった。一年中、おいしいお米がいただける。18日、17:10写。

☆(右)9月18日、午後3時頃、2号田のカボチャを収獲した。これで今年のカボチャは終了。白カボチャ3、エビス4、坊ちゃん5、(・・それでもあと、2つくらいはなっていると思う)今年は、どの家庭も、ツルものはダメといわれていただけに、スイカ、カボチャなど、普通の収獲で、ちょっと自慢。・・(キイ婆さんに見せてやりたかった。ひとつだけ仏前に供えた)
・・・カボチャ収穫後、新米がとどいたわけ。

<「夫の後始末」を読んで>

  2,3日まえ、新聞の広告欄に、曾野綾子著「夫の後始末」夫90歳、妻85歳と、大きな見出しで本が宣伝されていた。だいぶん迷ったが、夫90歳に刺激されて、結局、市内のツタヤ書店に、軽自動車を走らせた。多分、納本されていないと、思っていたが、店員さんが、簡単に1冊下げてきて手渡された。
  いや、まいった。まいった。税込みでキッチリ1000円。買わないわけにはいかなかった。

    

☆結論を述べる。あのように、本音で話されては、痛々しくて読みづらかった。しかも、例によって名文とくる。こちらまで、身につまされる思いでいやになった。いや、長生きが、このように辛く、悲しく、痛ましモノとは、まさに90を生きるとは、「苦渋(くじゅう)の旅」、そのもののような気がして、しんどくなった。・・でも、ジロ爺さんは、いや、いやと首を横に振る。自分の足腰で、出来る限り、自分の身の回りの世話をしていこう。・・でも、すべて出来なくなったときのことも、考えておかねばならないと、痛切に思った。・・出来る限り、自分の部屋で、在宅医療、看護を受けたい。いや、そろそろ、その手はずはつけておかねばなるまい。・・「生」が「死」より強く、のしかかってくるジロ爺さんである。

  

 

 

コメント (8)

凡庸

2018-09-07 10:25:37 | Weblog

<退院から凡庸へ>

  9月7日、朝から雨模様です。さて、私のこと、9月1日、10日間の入院生活を終えて退院して、1週間経ったわけです。

  やっと、入院以前の生活にもどりました。平凡で取り得のないこと、またそのような人やさまを「凡庸」と言うようです。「八十路の旅」は平凡な生活を夢みながら、実際はなかなか出来なかったのが事実。ムリの連続であったような気がします。

  「卆寿の旅」を歩み始めて、いきなり10日も入院しました。これまではせいぜい入院しても2日か3日ぐらい。そんなに日常生活に影響はありませんでした。

  でも、今回は大腸のポリープ摘出、しかも直腸付近というので、腸の機能が回復するまで、絶食、術後5日間は点滴だけで生命を維持。あとの5日間は、流動食・3分粥、5分粥、7分粥、退院の朝、やっと普通のお粥をいただいた次第。・・ともかく、いちばん案じたのは排便。・・何も食べていないので、便が出るわけがありません。・・担当医は、「まあ、家に帰って落ち着かれたら、ありますよ」との話。・・レントゲンと内視鏡などの検査があり、「きれいやなぁ」という声も聞きました。・・

  何とか、入院中に排便があることを一日千秋の思いで待っていました。退院の前夜、午後8時頃、通便。3日前からのお粥の便が、便槽に浮かんだときは、天にも上った気持ちでした。出血なし。便の色よし。ナース・コールで呼び出し、確認。・・(嗚呼、これで帰れる)で、9月1日、退院。「ジロ爺さん、恥ずかしながら、帰ってまいりました」と、敬礼したのでした。

<凡庸って平凡なことです>

  退院して、3、4日は、入院生活の延長でした。違うのは、庭先を散歩できること、電気柵の畑を見て回ることが出来ることでした。・・しかし、どうも病院の廊下は、すいすい歩けたのに、庭先はモタモタします。病院で履いていたかかとのある運動靴に履き替えました。足元がしっかりしました。土や砂利の上でも、スタスタ歩けるのです。(病院がスリッパを禁止しているのを理解)

  9月4日、午後4時頃、電気柵に巻き付いた蔓草を、草刈り機(ナイロンカッター)で、刈り飛ばしました。ほんの5分で、見事きれいになりました。ボツボツやでと、自分自身に言い聞かせながらの仕事です。

  9月5日、6日、3号田のスイカの畝を、整理してカブラ・ニンジン・ホーレンソーの種まきをしました。・・ダイコンの種まきが遅くなっています。(いつもは8月の終わり頃、遅くても9月のはじめには、キイ婆さんが種まきをしていました)・・「ダイコンの種は私がまきます」と、倅の嫁が言っているので、マルチの穴開けだけは、ジロ爺さんがしました。

  ことほどさように、けっこう前の生活にもどってきました。「卆寿の旅」の凡庸ぶりを、少し紹介します。 

<自給菜園はじまり、はじまり>

  9月5日、午後5時頃、2号田のダイコン種まきの予定のマルチ畝(真っ赤ウリを作っていた)に、カッター(12cm)で穴を開けた。

  それから、5日、6日、2号田のスイカ畑を、秋のカブラ畑に作り替える仕事をした。もちろん、10分ぐらいで、1時間の休み。・・まあ、よく仕事がはかどりますね。笑い。・・でも、出来るから不思議なモノです。カブラ、ニンジン、ホーレンソーの種まき完了です。

 

☆(左)2号田、畝にダイコン種まきの、マルチに穴あけ。チドリ植え40本(20x2)5日、17:04写。

☆(右)3号田、スイカの畑。5日、17:20写。・・草引きなど、後片付けを10分ほどして終了。

 

☆(左)6日、10時頃、何とかスイカのマルチ畝が現れた。

☆(右)6日、11時30分頃、マルチに種をまく穴を開けた。カブラ28個(4x7)、ニンジン10個(2x5)、ホーレンソー10個(2x5)

 

☆(左)6日、午後4時頃、カブラ・ニンジン・ホーレンソーの種まき完了。この仕事はジロ爺さんにとっては初めての仕事。今までは、殆どキイ婆さんの仕事だったのになぁ!・・表面をならして、種をまき(4,5粒)、腐葉土をまいて、椿の油粕をまき、籾殻をかぶせて終了。・・仕事量は多いようだが、時間にして、15分ぐらい。・・でも、やっぱり腰が痛い。

☆(右)6日~7日にかけて、大雨が降るとの予報で、夕方の6時頃、シートをかぶせた。正解でした。夜、かなり激しく雨が降った。・・7日の朝、シートは取り除いた。一日中、曇り空なれど、雨は降らず、正解。・・このまま、芽を出すのを待とう。..ジロ爺さん、あんまり頑張りなや。凡庸が泣くぜ。 

 
<わが朝食と昼食>

  9月7日、凡庸の生活を取り戻しました。起床。街灯を消す。洗濯器にスイッチを入れる。洗顔・歯を磨く。新聞を取りに行く。朝食準備。薬の準備。朝食。ベッドでごろ寝。新聞に目を通す。・・畑を見て回る。・・パソコンにむかう・・などなどで、昼食タイムがやってくる。

  これが、いまジロ爺さんの生活パターン。・・排便だけが悩みの種。

 

☆(左)7日、朝食です。年中変化なし。パン・豆乳コーヒー、ブドウ(リンゴ・ナシ・イチゴ・トマトなどなどの果物・・本日はブドウ)・・ジャム・バター(オフスタイル70%オフ・・これはキイ婆さんがいつもパンにつけてくれていたモノ)・・休日など、時々、味噌汁とご飯をいただく。

☆(右)7日、昼食です。宅配の惣菜の本日のメニュウは、牛肉の味噌煮込み・ドレッシングサラダ。{・・タンパク質33.3g・・脂質32.7g・・塩分5.1g・・}ご飯は私の手作りのお粥。

 

<ダイコン種まきとアズキの生長>

  9月8日、土曜日、午前9時頃、雨が降ってきそうで、落ちてこない。(今なら、ダイコンの種をまけるぞ!)・・わが輩の心の叫びが、多分伝わったのであろう。

  「いまから、ダイコンの種まきをしてきます」と、倅の嫁の言葉。私の心をお見通しである。

  このような場合は、かまったらダメ。手伝ってもダメ。遠くから、そっと眺めているのがベター。・・ものの10分ほどで、種まき終了。うまい具合に、ほんの少々ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。水まき不要。

  「おおきに、うまい具合に雨が降ってきたなぁ」・・せめてもの、わが輩のお礼の言葉。

  倅の嫁は、あまりべらべらしゃべらぬ主義。・・その後、10時頃まで、仏壇の供え物、わが輩の部屋の掃除、昼ご飯の準備をして、・・ 夫婦で約束ごとだったのだろう。「今がら、出かけてきます」・・嫁の自動車を倅が運転して、お出かけとなった。 感謝!感謝!

 

☆(左)2号田の畝にダイコンの種まき終了。10:30写。

☆(右)2号田のアズキ。種まきは義理の娘。世話は私が1回草引きをしたぐらい。見事な成長ぶりです。黄色い花が無数に咲いています。ぶら下がった小さいアズキも覗かれました。10:30写。


<今年はすべて異常である>

  ついこの間まで、今までに経験したことない暑さが続いた。と思えば、台風21号が大阪・神戸を直撃し、大きな爪痕を残した。直後に今度は北海道で震度7の地震があった。山が崩れ一瞬にて土砂にのみ込まれた家々を見たとき、寂として声なき、何とも言いようのない怒りがこみ上げてきた。
  わが集落も山間である。地震で山が崩れたとき、おそらく集落は山崩れにのみ込まれて全滅だろう。北海道地震と重ねながら、震災に直面された人々に、心から祈りを捧げるしか、方法がない自分に恥じる。

  そして、今度は大雨となった。9月6日頃から、9月10まで、5日ほど、お日様が拝めない。曇り空から、ぽつりぽつり雨が降る。時としてザアッとくる。今度は大雨警報が流れる。今年はすべてに異常である。こわい。恐ろしい。

  これから秋が本番となる。実りの秋となる。平穏無事を祈るや切。

 <祈りながらの自給菜園>

  9月11日、天気予報では、晴れると報じていたが、朝から小雨。これで6日間、雨降りが続く。

  11日の朝刊、地方紙に「悪天候農家やきもき」「風雨で苗倒れる」「土湿り畝作れず」の見出しの活字がならぶ。たしかに、水浸しで畝づくりは出来ない。
  でも、わが畑・畝は、全面マルチを使用しているので、今年は新しい畝づくりをしないで、ダイコンやカブラの種まきをした。ドシャブリの時は、白のマルチをかぶせた。おかげで、9月6日にまいたカブラは9日には、いっせいに芽を出した。また、9月8日に嫁がまいたダイコンも
、11日には、これまた見事に芽を出した。

  9月9日、午後4時、私用で軽自動車を運転した。その時、ふとレタスの苗を思いだした。ブロッコリー・キャベツの苗は店頭に並ぶが、意外にもレタスの苗が種物屋にならばない。
  わが家からいちばん離れたKホームセンターに出向いた。どの店にもないレタスが20本ほどならんでいた。レタス3、キャベツ3、ブロッコリー2の苗を購入して帰宅。
  9日の午後6時頃、雨が少し小ぶりになったので、思い切って、苗を植えた。ほんの10分ぐらいで終わった。少し腰が痛い。でも、満足感が痛みを包み込んだ。もちろん、ベッドで休養。

  雨降りが続くなか、祈りながらの野菜づくりがつづく。ジロ爺さん、まだ死なんぞ!

 

☆(左)2号田、6日にまいたカブラが9日の朝、いっせいに芽をだした。10日、10:10写。

☆(右)2号田、ブロッコリ-、キャベツ、レタスを作っていた畝に、マルチを敷き直して、9日、午後6時頃、ブロッコリー2本、キャベツ3本、レタス3本を植えた。寒冷紗をかぶせて終了。10日、10:15写。

 

☆(左)野菜の苗を植え、寒冷紗をかぶせたが、ドシャブリの予報のため、その上に白いマルチをかけて雨よけをした。10日、10:15写。

☆(右)倅の嫁がまいたダイコンにも、マルチをかぶせて風雨をしのいだ。写真は白のマルチをかぶせたところを撮った。10日、10:15写。
(11日の 朝、心配していたダイコンの芽がいっせいに出始めた。ビックリ。万歳!)

 

<まだ、当分野菜づくりが出来るぞ!>

  9月13日、午前11時、倅の嫁の車に乗せてもらって、三田の病院へいった。8月終わり、大腸ポリープ切除の手術を受けたが、その結果の知らせがあった。結論は悪性のモノ(がん)ではなかった。かなり大きいポリープだったが、きれいに切除されていた。モニターで説明を受けた。「なんの心配もありません」「百姓出来ますか?」「普段取りにしてください」…横から嫁が、「もうずっと野菜づくりをしっとってです」・・みなで笑って終了。・・あと3つの小さいポリープは、10月終わり頃、2泊3日の入院で切除することになった。

  午前10時過ぎに家を出て、11時10分前に、病院に着き、キッチリ11時に説明を受け、帰宅は午後12時30分。・・三田の病院の予約検診は、いつも予定通りである。・・他の病院・医院も、このようにスムーズにいくといいのだが、大体待ち時間が長い。どの病院・医院も、いつも待合室は満席。どうして、このように病人が多いのだろうか・・自分のことを棚にあげて呟く。

  秋の自給菜園も、これからが本番。診察の結果では、もう出来ないと思っていたが、一安心である。が、ムリは厳禁と、自分自身に言い聞かせている。「ジロ爺さん、ほんまにムリしたらあかんぞ、なもし」と、最近、急に年とった猫のタマが呟く。

  それ、ハクサイの苗植え付け、それ、ダイコン・カブラの間引き、などなど、わが身の回りの畑から、ご老体に、声がかかってきた。

 

 

 

  

 

コメント (10)

生還

2018-09-01 14:19:52 | Weblog

<生還>

  久しぶりにブログします。

  生還・・少し大げさな表現ですが、8月23日~9月1日まで、三田市の病院に入院していました。理由は大腸のポリープの切除手術・治療・加療のためです。

  無事、予定通り、9月1日、午前10時、退院しました。
 「ジロ爺さん、ただ今、恥ずかしながら、帰ってまいりました。」 わが家の玄関先で敬礼しました。(なんだか、横井正一さんを思い出しました)


<たかがポリープ、されどポリープ>

  入院する前に、心の底の底で、「ジロ爺さん、もうオシマイか」と、呟きました。・・家のみんながいっせいに言いました。「そんなこと思っとってない」「たかがポリープをとってやだけや」「元気に帰ってきてやに決まっとる」

  手術の結果はきわめて良好で、大腸より取り出されたポリープは、小さい雨蛙を見ているようでした。あまり気持ちのよいモノではありません。たかがポリープ、されどポリープでした。

 

☆三田の病院です。入院のご案内の表紙から複写しました。

☆病院の個室から、外の風景を網戸を通して撮りました。わが家の方向です。 

 

☆(左)入院ベッド個室です。電話・テレビ付きです。ここで、約10日間、過ごしました。

☆(右)24日の手術後、点滴の支柱台をもって、移動できるようになりました。点滴が唯一の生命源です。それにしても、限りなき空腹を感じました。23日、夕食から27日の夜まで、点滴オンリ-。28日、流動食にありつけ、その晩おそく、やっと点滴から解放。

 

☆点滴が終わると、やっと人並みの生活。でも、腹がへって仕方がない。許しが出て、自動販売機でジュウスを手に入れました。もちろんVサインです。

☆術後4日目から食事が出ました。流動食・3分粥・5分粥・7分粥、前粥で退院です。昔の終戦時代を思い出しました。そして、歌を歌いました。父よあなたは強かった。

☆9月1日、午前10時、倅の嫁に迎えに来てもらい、10日ぶりに、わが家にもどってまいりました。大きなリュックを肩に背負い、大きなバッグを下げて、「ジロ爺さん、ただ今、恥ずかしながら帰ってまいりました」と、通用門の前で、敬礼しました。

<大家さんと僕>

 

  8月25日、午後、六甲に住む長女夫妻が、見舞いに来てくれました。(今回のわが輩の入院は、長女夫妻以外、誰にも知らせていません)

  その時、見舞いに持ってきてくれた本は3冊。(1)走り続ける力・山中伸弥著・・(2)楽天道・佐藤愛子著・・(3)大家さんと僕・矢部太郎著。

  「大家さんと僕」は、漫画本でした。漫画の本はあまり読みません。昭和16年頃の「のらくろ1等兵」ぐらいが、記憶にあるぐらい。

  長女は言いました。「あまり、興味がないと思うけど、意外と面白いですよ」

  何の気なしに、ぱらぱらとめくりながら、目を引きつけた文章に出会いました。

  「あの、お、大家さんはおいくつなんですか」
  「ええと終戦の時十七だったから・・・」 

  お笑いコンビ・カラテカのボケ担当・矢部太郎の描いた大家さんは、終戦の時十七才というから、わが輩と全くの同級生。・・この大家さんの言動が、ともかくユニーク。・・久しぶりに漫画本を楽しく読みました。ちょっと、ひきつけられた会話を掲載します。

「大家さんは、どういう人がタイプですか?」
「マッカさー元帥さんが素敵だったわ」

大家さんは、二度目のオリンピック、楽しみですね」
「それまで生きてないから興味ないわ」

「連絡先も聞けず、恥ずかしながら帰ってまいりました」
「横井正一さん‥」

「歩くの、のろくてごめんなさいね」「とんでもないです」
「年だから、もう転べないのです。矢部さんはいいわね。まだ何度でも転べて」

「お出かけって、どこか行かれる予定があるのですか?」
「三途の川よ~」「まだ早いです」「冗談よ~ほほほ」

「ええと、何飲まれますか?」
「コーヒーを五勺くらい飲もうかしら」「五しゃく?」
「今の人は使わないのかしら?これぐらい、カップに半分くらい」

「伊勢丹は戦後すぐは三階から上はGHQの事務所があってアメリカだったんですよ」
これは矢部さんの大家さんからの受け売りでした。

「本当は死ぬまでに一度行きたいところがあったんですけど・・・もしも元気だったらチランにいってみたかったわ」・・・ 

  大家さんと同級生のわが輩には、とても懐かしい場所や言葉が、ふんだんに出てきて、漫画のおもしろさを満喫しました。退屈の入院生活で、一福の清涼剤でした。

(・・入院中、床頭台の「大家さんと僕」の本を見たナースの一人が、「この大家さん23日に亡くなったわよ」と言いました。・・)

・・帰宅してネットで調べると、事実でした。感無量!


<同期の桜>

  9月1日、退院して古新聞(26日)を見てビックリした。8月24日、私の竹馬の友、Y君の訃報が公表されていた。「丹波の病院で死去、90才」

   Y君は、旧制中学校の同級生で、昭和16年、ゲートルをまいて、K中学校へ、汽車通学。同じ野球部に入り、ボールひろいをした記憶がある。

  彼は師範学校に進み、戦後いち早く、小学校の教師になった。その後、時流に乗り、46才で小学校の校長になった。当時、最も若い校長として喧伝された。

  その当時、私は中学校の教師として、現場主義を通し、野球の先生としてちょっと有名になってもいた。管理職は夢にも思わなかった。あと10年、現場で生徒たちとともに生活するのが夢。

  でも、最終的に平成元年、ともに校長として、無事定年退職した。

  当時、私たちが宴会の席で肩を組んで歌ったのが、「同期の桜」。・・別に深い意味はないが、貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く。・・一緒に歌ったYが亡くなった。・・矢部太郎の大家さんも、きっと90才でなくなったと思う。・・・終戦の時、1945年、17才。あれから73年、まさに90才。

(・・Y君と私のつきあいに関しては、長い歴史があり、語り尽くせぬ思いがあるので、またの機会に述べることにして今回は割愛。)


<心を癒やす>

  花は、やはりわが心を癒やした。

  9月2日、午後4時頃、久しぶりに、庭先を散歩。すべては入院前と同じ風景。ひとつも変わっていなかった。ユリ園でもらった5本の苗木はすべて花を咲かせた。花を開いては順番に枯れていった。5本目の紫の花が開いていた。2,3枚散っているので、すべて落ちるのも時間の問題だろう。

  9月2日、午後5時頃、食卓に何気なく活けられた花を見た。ああ、花を愛でる余裕がなかったのかなぁ?・・キイ婆さんの生存中、よく見た光景がそこにあった。・・義理の娘のお手並みである。花をながめながら、生きている実感をかみしめた。娘の心根に感謝。 

 

☆1号田の隅に植えたユリの花、5本目が咲いた。(来年、咲くのだろうか?・・生きていますか?)

☆食卓の日々草。倅の嫁が、玄関の植木鉢で育てたのを、何気なくコッブに挿したそうだ。(お婆さんがよくされていました)・・この言葉に、またも熱いモノがこみ上げてきた。

<わが稲田は大丈夫>

   台風21号は関西空港、神戸港などに、大きな爪痕を残して、日本海に抜けた。地図を見ると丹波篠山地方の真上を縦断した様子。・・でも、丹波篠山はさして風も雨もたいしたことなく通り過ぎた。台風の目が通ったのだろうか、真偽のほどはわからない。こちらの方面は、とりあえずたいした被害もない様子。

  心配していたわが稲田も大丈夫だった。もうすぐ稲刈りが始まる予定。

 

☆(左)9月4日、午前11時、泌尿科予約検診の帰路、撮ったわが稲田。雨が落ちる前の様子。

☆(右)9月5日、午後1時、台風一過、日が射すわが稲田。全く無事で、一安心。

 

 

 

コメント (14)