北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

中村不折 ー明治・大正・昭和をまたいだ ”マルチクリエーター”

2021年01月19日 | ●全般

 現在(2021年1月19日)、長野県立歴史館(千曲市)で企画展として「洋画家・書家・コレクター 中村不折ー伊那谷から世界へ」が開催されており、先日観覧、図録(1000円)を購入してきました。私は、中村不折を北村四海(大理石彫刻家)、和田啓十郎(漢方の中興)から知りました。不折という人はマルチに活躍して、「何者?」と最初に感じた人物でした。

 今回の展示内容は、不折が関わった絵画、書、印刷物と蒐集物になります。とくに不折が書の研究のために蒐集した「殷時代(紀元前12世紀)の甲骨文が刻まれた牛骨・亀甲」、「西周時代(紀元前10世紀)の青銅器」、「北魏(正始5年(508)の如来三尊像」を拝見し、このようなものまで集めて研究し、不折独自の文字(六朝風)を生み出したことに驚きました。

 中村不折は、画家からはじまり書家、エッセイスト、コピーライターのような作品も手掛けており、現代で言うマルチクリエーターのような人物でした。個人的には「不折の書」に惹かれます。それは、書の創作と史料研究を両立させたことにあると思います。不折の書には重みがあると言えばいいでしょうか。不折の書は諏訪の銘酒「真澄」、新宿中村屋などが今も使っています。

 コロナ禍ですが、対策をしながら会期中に足を運ばれることをお勧めします。

 今回の展示と図録では、「不折」と名乗った人物像があまり伝わってきませんでした。、魅力的な人物であることを知っていただきたく、どんな苦労、困難にも折れない「不折」という名がふさわしい中村不折の人生の前半部をブログに取り上げました。半生をみますと「不折の精神」が見えてきます。

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慶応二年(1866) 7月、江戸八丁堀で生まれる。父・中村源蔵、母りゅう。本名は鈼太郎(後に号の不折を本名に改めたという)。

明治三年(1870) 父の源蔵は町名主の書役として生活(もともと書に触れる環境)をしていたが、明治維新の変革で郷里の高遠に引き上げた。その後、父は生活のために松本、上諏訪に移り住んだ。不折は小学校を中途で退学し、商店に奉公にあがる。上諏訪では、白木屋という呉服店の丁稚となる。奉公では絵を習うことはできず、呉服物に貼ってある紙札を模写したりしていた。17歳頃に病気(マラリア)にかかり郷里へ戻り養生したが、以後は耳(聴力)に難を持つようになる。その後、実家の隣の菓子屋で菓子職人として雇われ、仕事を効率よくこなし、空いた時間に漢学の塾に通い、同時期に独学で代数・幾何を勉強した(後に数学教師にもなっている)。

明治十七年(1884) 19歳で高遠小学校の代用教員のような役に推挙された。

明治十八年(図録では二〇年) 夏季休暇で長野へ出かけ、長野師範学校の画教師・河野次郎に鉛筆画と水彩画を習った。河野次郎の息子は河野通勢。飯田小学校の図画及び数学の教師として招かれた。この時の生徒に菱田春草がいる。小学校の俸給が3円で、不折は35円ほどの貯金ができて上京を計画した。

明治二二年(図録では二一年)上京。師事したのは小山正太郎。その研究所の名称は十一会(後に不同会)。 

 不折は、研究所の月謝は免除された。生活費を切り詰めるために、住まいは高橋是清邸の馬丁(ばてい:馬の世話人)をしていた同郷人を頼り、邸内の馬小屋に付属した物置2畳1間を馬丁を通してタダで貸してもらうべく是清に頼み、その願いは聞き届けられた(明治のおおらかさを感じるエピソードです)。戸や障子の造作もろくに無い部屋で畳は中身が飛び出していて、座布団もないので来客があると座布団代わりに新聞紙を差し出して座らせた(自身は畳に直に座る)。この頃に運送屋の荷車を引いて賃金を得ていた。

 高橋是清の事業失敗により邸宅を畳むことになり、橋茅町の裏店に移り住んだ。洋画の勉強を熱心にして展覧会にも出品するようになった。

明治二七年 正岡子規のいた日本新聞に挿画を描くことになる。橋渡しは師の浅井忠。

      日清戦争に従軍画家として遼東半島へ渡り満州各所を写生した。

明治二九年 埼玉県大里郡三尻の堀場一郎(漢方医、浅田宗伯門下)の娘いとと結婚し、両親を迎えて湯島四丁目に居を構える。

明治三二年 下谷区中根岸に転居。

明治三四年 渡仏。2年間の滞在予定であったが、極端な窮乏生活を忍んで4年滞在した。絵の師はジャン・ポール・ローランス。帰国時が40歳。

 帰国後に太平洋画会に所属。画家としての収入を尽く書の研究につぎ込み、書道に関する歴史的資料を買い入れた。その後、それらを保存するために書道博物館を建造し、維持費も寄付した。生涯贅沢とは無縁で研究一途。

 

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中村不折にゆかりの深い北信地方の二人の人物を紹介します。

●北村四海 (当ブログで以前紹介)

大理石彫刻家。明治4年~昭和2年。享年56歳(満年齢表記)。長野市生まれ、新潟市振育ち。父は宮彫師の北村喜代松。

四海と不折は留学先のパリで知り合い親交を深めた。不折は、四海の没後に嗣子の北村正信が著した『四海餘滴』の表紙、題字、追悼の文を寄せている。

 不折が制作した『四海餘滴』の表紙、題字

 『四海餘滴』の不折の追悼文

 

●和田啓十郎 (当ブログで以前紹介)

日本漢方の中興の功労者。大正五年、享年45。長野市松代の生まれ。明治四十三年に自費出版で千部発行された『医界之鉄椎』であるが、挿絵に啓十郎の尊敬する吉益東洞の姿を不折に依頼した。

        (和田啓十郎著『医界之鉄椎』 明治43年より)

また、『医界之鉄椎』の一般向けの本『漢方ト洋方』の題字を不折が書いた。

      (和田正系著『和田啓十郎遺稿集』より引用)

和田啓十郎の墓碑(松代)   


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