年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

多摩:枡形城

2009-07-16 | フォトエッセイ&短歌
 稲毛三郎重成の居館と言われている広福寺の丘陵の頂上が枡形城址である。城址に建つ展望塔から四囲を眺望すると中世の山城のあるべきスタイルがよく解るし、重成の「つわもの」の風貌も思い知る事ができる。
 中世(武家社会)の幕を切って開いた枡形城主稲毛三郎重成は何度この天守から南武蔵の多摩の峰々を眺めた事であろう。

<枡形城址の展望台。石垣などの遺構がなく城の復元が不可能だったのか>

 重成の父親、小山田有重は現在の町田地方の豪族で秩父地方の平家方の武士団の流れである。従って、1180年の石橋山の合戦では小山田(後の稲毛一族)は反源頼朝の軍勢として闘っている。
 敗れた頼朝は6ヶ月後には反攻してくるが、その時には上総広常や下総の千葉常胤などの軍勢が頼朝に帰順したこともあって稲毛軍団も頼朝支配下に入った。頼朝の抵抗勢力はもはやなく鎌倉に入って幕府を置いた。
 頼朝と主従関係を結んだ武士は所領を認めてもらう(安堵という)見返りに「イザ鎌倉!」の戦いに「一所懸命」と一族を率いて戦場に出陣するのである。こうして小山田三郎重成は稲毛庄を幕府から安堵され稲毛三郎重成として城造りに励んだと思われる。

<展望台からは丘陵越しに四囲が眺望出来る。新宿方面には都庁がかすむ>

 頼朝軍は平家と戦いながら鎌倉に幕府を開き武家政権の仕組みを整えていった。三郎重成は一ノ谷の合戦、壇ノ浦の戦いにも奮戦し、頼朝の厚い信任を受けていたようだ。
 1195年、頼朝の上洛に随行した重成は帰路妻の危篤を知らされる。そこで頼朝の許しを得て急ぎ帰国したが、最期をみれなかった。妻の死に目に会えず「武士」に嫌気がさした出家してしまったという。以降の記録には重成入道と記される。

<梅雨晴れの木漏れ陽に揺れる暗闇坂の言い伝えが残る城への急峻な坂道>


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