年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

秩父・決起の街

2008-11-18 | フォトエッセイ&短歌
 小鹿野の椋神社に決起した「困民党軍」は1884(明治17)年11月2日、札所23番<音楽寺>に集結した。そして早鐘の乱打を相図に武器を振りかざしドット鬨の声を上げて大宮郷(秩父市内)内に雪崩れ込んだ。
 升屋の主人が記録している<凶徒ら迅風のごとく市中を通過し、抜刀、槍、あるいは鉄砲、竹槍などを閃かし…裁判所、警察署、郡役所に狙撃乱入し、書類を引き裂き、戸外へ投棄し…><潮の湧くがごとく繰り込みたり>と、その軍勢8千~1万だったと言われている。

<蜂起の最初の拠点となった音楽堂。秩父一望の秩父困民党無名戦士の墓>

 郡役所を占領した「困民党」はここを革命本部として自治体制を執り住民の支持を取り付けた。総理・田代栄助、副総理・加藤織平、会計長・井上伝蔵などで軍律も決められた。そして、やがて押し寄せるであろう政府軍を迎え撃つべく、甲隊・乙隊・丙隊の3隊にわけ、孫子の兵法にいう「常山蛇陣の型」を敷いて鉄壁の布陣で固めた。
 しかし、新式の村田銃で完全武装した鎮台兵・憲兵・警察隊の政府連合軍では彼我の優劣は歴然で4日目には本陣の解体を余儀なくされた。「困民党軍」は散り散りになりゲリラ戦を闘ったが、東馬流の激戦を最後に秩父困民党は終息した。

<音楽堂の深く暗い竹藪の一筋の坂道。駈け下る義民の足音が響くようだ>

 戦いが終わったあと「困民党」の長い苦難が始まる。「貧乏人のために立ち上がったありがてえ人」(義挙・義民)は「国さタテツタわりい人」(賊徒・暴民)に逆転した。
 維新専制政府(山県有朋)は裁判の方針を命じた。暴動の原因や事件の背景を語らせるな!賊徒・暴徒として放火、強盗、殺人で監獄にぶち込め!というものである。村人は秩父事件に沈黙して語る事はなかったが、「暴徒の子」「死刑囚の子」「賊徒の家」「強盗の家」としていわれなき深い負い目を強いられた。
 「予審」という当時の裁判手続きも行わずに拷問で得た資料を根拠に密室のなかで判決は確定していった。死刑12人を始め懲役罰金など約3700人が処罰された。

<飯塚森蔵率いる乙隊大隊の旗。飯塚は事件後逃走し最後まで行方が不明>


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