年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

合格大仏

2012-06-15 | フォトエッセイ&短歌

 上野公園に初めて行ったのは小学校の5年生くらいだったか。ほとんど記憶にないが、傷痍軍人や浮浪者がやたら多くて怖い思いした覚えがある。印象に残ったのは「西郷どん」の銅像である。浴衣姿で犬を連れて颯爽と散歩する庶民的な姿が何となく気に入った。
 その後、ワケありの「西郷どん」を知って「ウ~ン、そんなものか」と、それはそれで納得したものである。西郷像は建造当時、皇居内に建てる案であったが、朝敵となった西郷という事で反対意見が強く実現しなかった。西郷への反感を持つ政治家が多かったということだけではなく、反政府的機運を醸成しかねないという配慮があったという。
 従って「陸軍大将軍服着用の騎馬:西郷隆盛銅像」が、「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起」こり、犬を連れて歩く人畜無害な人物像という政治的意図が働いたという。私に歴史への興味を覚えさせてくれた一つのエピソートである。
 その上野公園、文化遺産研究グループによる「上野・谷中の史跡めぐり」のフィールドワークに参加した。高齢者が多く梅雨入りの小雨の中の散策で大変だったが、雨に打たれる浅緑の若葉が光り、水無月の下町風景を満喫した。
 上野といえば、戊辰戦争で寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅し(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯が焼け野原と化した戦跡であるが、ここでは余り知られていない上野大仏災難の結末を記しておこう。
 上野公園は江戸時代の東叡山寛永寺の境内である。寺院関連の多くの遺構や建造物が残っているが、上野大仏もその一つである。建立の歴史は古いが、大正12年の関東大震災で頭部が崩壊したので、解体し胴部を寛永寺が保管し再建の日を待った。しかし、大陸侵略をめざす歴史の歯車は日本の運命を奈落の底に突き落としただけではなく大仏の息の根も止めてしまった。
 昭和15年、軍部政府は軍需物資不足のため一般家庭の金属を掻き集めて軍需産業の資源とした。釣鐘・銅像などは格好の標的にされた。解体保管されていた上野大仏も武器・弾薬と化し戦場に散っていったのである。詳細は分からないが、さすがに大仏の顔面部分だけは残されたのである。
 その顔面部がレリーフとして旧跡に安置されたのは1972年、現在は<合格大仏>として受験生の秘かな人気をえて<合格祈願>の受験生も多いという。その心は『もう顔だけなので絶対に落ちません』ダト!売店特製の合格鉛筆で若き芸術家の多くが東京芸術大学に入ったことだろうか。

<大仏様はイケメンが相場のようですが…?果たして上野大仏は>

  レリーフの上野大仏いたわしや火災震災そして戦災

  武器抱きて曠野の闇に伏す兵士大仏の加護に命ゆだねて

  絶対に「もう落ちない」と仏面 合格大仏に宗旨を変える 

   大仏も人間様のご意向で三面六臂の俗世の働き  

  木漏れ日も緑に染まり掌のなかに梅雨の雲間の一条の光り


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