年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

新春<5>船岡騒動

2011-02-05 | フォトエッセイ&短歌
 凄まじい伊達騒動(寛文騒動)の結末はどうなったのか。
 普通、お家騒動が起こると、大名の管理監督の不行き届き、治安を乱す風上にも置けない不始末者として改易(お家取り潰し)になる。ところが仙台藩の場合は幕府も一緒になって騒動に加わるなど複雑な背景がうかがわれる。
 伊達宗重(だてむねしげ)・柴田朝意(しばたとももと)らが伊達宗勝(だてむねかつ)・原田甲斐の独断専行や所領境問題を幕府に訴える。大老:酒井忠清(さかいただきよ)は自宅に老中達を招集して、両派の主張を聞いたが意見は双方譲らず平行線である。
 そこで中間派の家老・古内義如が意見を求められる。彼は宗勝・甲斐側に非があると指摘したので形勢は不利になった。

<冬の花のようなマユミの実であろうか。船岡城址の本丸への坂道に群生>

 この審問を控えの間で聞いていた原田甲斐は形勢不利と知るやその場にた宗重に斬り掛かり、老中の部屋にも突撃し柴田外記・古内義如にも斬りかかったので斬り合いになった。仙台藩聞役の蜂屋可広が加勢に入るも大混乱の中で酒井家家臣により3名ともども切られる。結局は宗重・柴田・原田・蜂屋が斬り殺され古内義如一人が生き延びた。凄まじい刃傷事件である。
 この刃傷事件の顛末を柴田は絶命前に家臣に話した。聞き書きが残っている。更に生き延びた古内義如の記録である。どちらも原田甲斐に斬り掛かられた人物なので「原田逆臣」の記録である。
 事実、宗勝の一関藩は改易。甲斐の原田家もお家取り潰しで、一族の男は切腹、女はお預け、多くの家臣は帰農となり、完全に断絶した。

<悲哀の運命をたどった船岡城。城址公園建つ忠魂碑と平和記念の塔の2碑>

 この逆臣:原田甲斐を別の視点から描いたのが山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』(もみのきはのこった)である。1970年のNHK大河ドラマで放映され一気に甲斐の評価が覆ったという。仙台藩崩壊の危機から仙台藩を死守した忠臣として描くなど、極めて魅力的な人物になっている。
 今もなお船岡城址公園に残る1本の大きな樅ノ木。甲斐は逆臣であったのか、忠臣であったのか伊達騒動の生き証人として、じっとみてきたが、黙して語る事はない。

<甲斐の刃傷沙汰は常識では到底考えられない。さて、仙台藩の忠臣なのか>


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