年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

隅田川:お上がり場

2009-03-26 | フォトエッセイ&短歌
 4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が海を埋め立てて甲府浜屋敷(海屋敷)と呼ばれる別邸を建てた。その後、綱重の子の綱豊が六代将軍(家宣)になったのを契機に、屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。その後、改修を行い11代将軍家斉のころほぼ現在の景観が整えられ、茶屋・火薬所・織殿等が営まれた。
 幕末には延遼館(えんりょうかん)が建設された。明治政府は鹿鳴館が完成するまで迎賓館としてこれを利用した。

<延遼館のあった一帯。冬の風物詩のワラぼっちがむさ苦しく見える春分の陽>

 この地はもと一面の芦原で将軍家の鷹狩場であった。浜御殿になってからは鴨を捕捉する「鴨場」として整備された。鴨場は池と林を土手で囲い、常緑樹や竹笹をびっしりと植え、鴨が安心して遊べるように外部と遮断する。池に続く引堀(細い堀)を設け、稗・粟などのエサとおとりのアヒルで引掘におびきよせ、機会をみて土手の陰から網ですくって猟を行った。

<のぞき窓から鴨の様子を観察する鴨場の構築物。庚申堂鴨場と新銭座鴨場>

 14代将軍家茂は第二次長州征伐のために大坂城にいたが幕府軍敗報に接するなか脚気で急死した。遺骸は朱を詰めた棺に納めて軍艦で品川沖に運ばれ「お上がり場」から上陸し西の丸に帰着した。
 1869(明治元)年、15代将軍慶喜も鳥羽伏見の戦いで敗れると、突如幕府軍艦開陽丸で大阪を逃れて江戸に戻る。その時も品川沖から「お上がり場」に上陸し騎馬で江戸城に帰還している。このように浜御殿の「将軍お上り場」(船の発着場)は幕末の幕府の海軍軍事上の拠点でもあった。

<浜離宮(浜御殿)の将軍お上り場の一帯。江戸決戦になれば激戦地の一つ>