年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

品川の宿

2007-01-22 | フォトエッセイ&短歌
今年の「箱根駅伝」は順天堂大の往路の劇的な逆転優勝など駅伝の面白さを堪能させてくれた。この「箱根駅伝」は箱根までの東海道を往復する訳だが、諸所で東海道五十三次の旧東海道と交差している。その旧東海道が街道の面影を残して続いているのが、品川から大森海岸駅辺りである。ここは、日本橋を起点とした最初の品川の宿場街でここである。間口が狭く奥行きが長い地割りや由緒ある寺院が歴史を語りかけてくれる。何しろ明治の頃には足許まで東京湾の波が押し寄せていたという話を聞くと汐の香りも感じる。道標や本陣跡など「弥次・喜多道中」でぶらつける格好の散策路。

この旧道が第一京浜国道と交差する所に『鈴ケ森刑場(品川御仕置)跡』がある。1区、東海大の佐藤選手の区間賞の独走を予告させた地点である。江戸幕府は慶安の頃に重罪犯人の処刑場を東海道の鈴が森と奥州街道の小塚原に開設した。通常は牢内の切場で首を刎ねるが、江戸に入る街道の入口で公開処刑することによって威嚇見せしめにしたのだ。由比正雪の乱の丸橋忠弥、平井権八(芝居では白井権八)、八百屋お七らは歌舞伎などでも取り上げられた大物である。
廃止されたのが1871(明治4)年、200年以上続いた事になる。その間の処刑者の数は10万~20万人にのぼるが定かではない。驚くべきは品川区の郷土史資料によれば、処刑された者の何と4割が冤罪であったと指摘 …何とも恐ろしくも切ない。拷問による虚偽自白であっさり首を刎ねられたのであろうか。彼等は、箱根駅伝を駆け抜ける若者達をどんな無念の思いで眺めていることだろう。
「お縄になったら9割9分有罪」になるのは昔も今も変わらないらしい。冤罪はいつの世にも繰り返される司法権力の最大の堕落である。疑わしきは被告人の利益に!刑事裁判の鉄則である。

<旧東海道 品川の宿:文全協遺跡見学会>