知音札記

現代日本の演劇、映画、音楽など芸能関係を中心にレビューを書き、語る。

映画「軍中楽園」~歴史を超克して共生する人々を描き出す

2018-07-15 14:39:11 | 演劇 映画 音楽
2018年7月13日、15:20~東京都写真美術館

  本作品は歴史を超克し、共生すべく苦悩した台湾の人々の姿を丁寧に描き出している。本省人と外省人の共生による新しい社会としての新生台湾を世界に提示していると言える。そして、個人的にはこの種の内容の映画作品に出合う度に、日本人の台湾、中国理解の無知、偏りに今更ながら嘆息せざるを得ない。実際、この国ではまったく歴史を超克する気配のない人たちが依然として多数を占めていて、その状況にマスメディアは一石を投じるどころか、無知を助長するその姿は腹立たしい限りである。
  この楽園の存在は以前に台湾を訪れ、同地に一歩深く興味を持った人々の間では、半ば常識である。自分も以前、香港の雑誌「明報」でこの楽園に関する記事を読んだ記憶がある。そして、金門島の「海龍蛙兵」(最前線の軍隊)の存在も、昔の一連の反共映画のテーマとして扱われたこともあって、承知している(タイトルは失念したが、1970年代末から80年代の香港で観たことがある。隊長役は柯俊雄だったと記憶。)。
  ところが、今回この映画を宣伝し、もっともらしく評論するのは、能天気の台湾、香港、中国フリークとやらと大差がないレベルの著名人(ジャーナリストとやらマスコミ関係者などいわゆる肩書が選定基準)頼みという相変わらずの状況で、マスメディアは未だに本質的なことに迫ることが出来ず、不勉強ぶりが露呈している。台湾関係に限らず、彼らが本当の専門家を探す意志がないことは今に始まったことではないが。
  それはさておき、台湾の専門家ではない自分でも、この映画を通して感じ取れたことを一部だが、記しておく。まず気になるのは大陸出身の老兵、老張(ラオチャン)が明らかに山東訛りを話していることで、それはエンディングロールで、山東方言指導者の文字情報があったことからもわかる。青年兵の羅保台との会話でも、「娘! 我想NI」、「他女乃女乃的!」、「干NI娘!」(後二者は英語のF××Kに相当する)などローカル色の濃い言い回しがとても印象に残る。多少ネタバレになって恐縮だが、老張は、後に餃子館を開店することになっている。こうした北方の食べ物、南方の温州の雲吞、上海の小龍包などは大陸からもたらされたのであって、もとから台湾に普及していたのではないことは周知の通りである。そういう意味では、「台湾といえば小龍包」などといった愚にもつかない思い込みはマスコミの垂れ流した罪悪といってもいいだろう。
 そして、映画の中で、老張は父親から餃子の作り方を教わらなかったが、舌の記憶を頼りに餃子を作って周囲に振る舞うシーンも印象的だった。つまり、大陸の味は一部変容しながら台湾に伝承したことを意味する。そのことは食べ物に止まらず、文化全般に当てはまることは自明の理である。
  それから、老張らの大陸出身者の望郷の念を象徴するものの1つとして、京劇が登場する。数人で京劇レコードを聴く場面で、音として流されていたのは名作「四郎探母」の一節である。歌詞の「翼があっても飛べない・・・」、つまり母のところに帰れない自分の身を同演目の主人公、楊四郎に重ね合わせていることは中国音楽文化にある程度通じていれば容易に理解できる。ちなみに、この演目は、ある意味「投降」を象徴する内容という解釈がなされていたことはよく知られている。その他、故郷(北方)の味を象徴する言い回しとして、「窩窩頭」(とうもろこし粉と大豆粉をまぜて蒸した食べ物)という単語を「手料理」と訳した箇所は訳者の苦労の跡が窺える。
  心に響くセリフとしてはやはり、「自己的選択、自己収拾」(自分で選んだことを、自分で始末する)の一言である。選択の余地のない時代にそうするしかなかった状況に身を置いた人々の実感である。現在の日本、情報の選択肢は選び放題だが、権威を笠に着た、あるいはコネだけのインチキばかりがマスコミで脚光を浴びる状況は今も続いている。さらにそれを鵜呑みにしているこの国がいつまでたっても歴史を超克できないのは当然の帰結だろう。
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映画「レディプレーヤー1」「クジラの島の忘れもの」~日本の閉鎖性、差別圧力に挑む雄姿に感動

2018-05-26 15:54:44 | 演劇 映画 音楽
  森崎ウィンの活躍が目覚ましい。そして、その雄姿が眩しく目に焼き付いた。

  まずは話題の作品「レディプレーヤー1」、いわゆるメジャーな映画作品、とりわけハリウッド映画の宣伝には顕著な、著名人やお偉い評論家、有識者とかいう御仁によるコメントや批評が付随するのが恒例である。今回も特撮映像がどうの、ヴァーチャル体験の意味合いとかご高説があちこちに溢れている。
オイラのような凡人はそれよりも大企業の世界支配への警鐘、つまり不当な支配・抑圧をはねのけて、世界平和を実現すべく世界の若者たちへ向けられたメッセージとしての意味合いが重要だと感じている。何が何でも勝たねばならないとする戦争大好き集団が支配を強める日本ではなく、ソフトで貢献できる日本を目指す選択をすべきなのである。それには戦争できる国がかっこいいと思っている大バカ者どもを一掃せねばならないが、それはハードではなく、あくまでもソフトで実行したい。日本のゲームキャラがそれを先に実現している状況は映画から読み取れるはずである。日本が世界に貢献できることは武器による所業ではない。本作では森崎ウィンのほかにもう一人、アジア系の俳優としてフィリップ・チャオという中国系の少年が出演している。二人とも英語を普通に話してハリウッド映画に溶け込んでいて、まさにこれからの若手俳優の目標となる存在である。
  もう1つの「クジラの島の忘れもの」は公式HP(http://kujiranoshima.com/)やプログラムのイントロダクションに書かれているように「夢をなくした女性と、夢を追いかけるベトナム人の青年が、運命に導かれるように出逢い、自然に惹かれ合い、そして国境を超えて愛を貫く姿を描いたヒューマン・ラブストーリー」である。ストーリーの詳細は、プログラムを参照するか、実際に映画を見ていただきいので、ここには引用しない。

  それよりも、プログラムに掲載されている森崎ウィンへのインタビュー記事から特に目を引かれた箇所を以下に示そう。「国際恋愛についてはどう思いますか?」という質問に対して、「僕自身はオープンで全く抵抗がないですけど、この映画ではそこに社会的なメッセージが含まれていると思います。僕がハリウッド映画の撮影に参加したときにお世話になったスタッフさんたちは、アジア人だからといって差別することなく、逆に興味を持って、あくまで対等に接してくれたんですよ。国籍や人種の前に、同じ人間同士であることがわかっていれば、通じ合えるはずだと思っています。」。
  日本人がよく口にする国際なんたらという表現自体が、「島国根性まるだし」であることは明白で、欧米やアジアでは民族の共存、往来があたりまえなのに・・・、この国の現状には今更ながら嘆息してしまう。それから、英語ができること=国際派とかいう図式も全く馬鹿げている。上記のように国際派という文言自体が極めて奇妙であり、これからの俳優は外国語ができて当たり前だし、現在でも(実際は以前から)外国語が普通に使える俳優は多く存在した。ところが、残念ながらその能力が十分に生かされなかっただけである。そして、その大半の原因は日本社会全体に蔓延るの(芸能界の)閉鎖性であることに論を待たない。森崎ウィンがこれだけ素晴らしい活躍を展開しているのに、地上波テレビでの扱いは極めて冷淡であることに大きな憤りを覚える。いつまでアイドル(もう中年なのに実力無し)専門事務所のタレントばかり取り上げ続けるつもりか?
  そういう意味では、ミャンマー出身の彼にかけられる期待は極めて大きなものがある。第1母国語のミャンマー語のほかに第2母国語ともいうべき日本語、さらに英語も使いこなす。彼のように複数の言語を有効なツールとして活用し、幅広いジャンルで活躍ができる若手芸能人が今後はもっと増えていくだろう。そういう有能な人材を芸能界の大人の事情で埋没させてはならない。
  実際、最近は地上波テレビも随分状況が変わって来た。J-COMで放送している「スタダケート」もその一例である。そこでは今「超」ボーカルと称して、国籍年齢不問で有能なヴォーカリストを募集していることが注目される。まさに多民族国家日本への目覚めだと思う。
  ちなみに「クジラの島の忘れもの」の上映館、渋谷シネパレスが5月27日で閉館となる。極めて遺憾!!!。今までいろいろな作品を楽しませていただいた。感謝!!!
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映画「チェリーボーイズ」~鬱積をぶちのめして本当の自分になる3人の姿が愛おしい

2018-05-11 17:34:39 | 演劇 映画 音楽
2018年5月10日、20:30~シネマカリテ。

  プログラムには詳しいストーリーが書かれているが、ネタバレも含まれるので、チラシに書かれている内容説明文で代用しよう。それは次のようになっている。

  とある地方都市に住むボンクラ3人組――東京での音楽活動がうまくいかない見栄っ張りな“クンニ”こと国森信一、乳首にコンプレックスを持つイケメン“ビーチク”こと吉村達也、典型的なオタク気質の“カウバー”こと高杉誠。揃いも揃って25歳になっても童貞をこじらせている彼らが集まって考えること、話すことは、上手くいかない世の中への愚痴と女性とSEXのことのみ。そんな負け組認定の男達が、地元で下世話な噂が絶えない釈笛子をターゲットにして、自分と人生を変えるためにとんでもない計画を立てた!? いざ、脱童貞大作戦へ!

  現代人の抱える病が3人の若者を通してそのまま描き出されている。つまり、今の日本に最も必要な様々な不当な支配から脱却である。上からの圧力(人や情報)にいいなりにならないこと、それは年齢に関係なく日本の慢性疾患であるが、例えば3人と学生時代からの脅威である不良のプーチンに吉村がはじめて逆らう場面に明確に示されている。
  そして、目の前の自分しか見えない、周りのことが一切目に入らない自己中心的な生き方にいつのまにか陥ってしまうことへの警鐘も示されている。これは3人だけでなく、程度の差こそあれ、3人を抑圧する不良ほかも含むすべての人物に当てはまることは言うまでもない。
  それに関連して、今なすべきことと副次的なものとの区別ができない状態を生み出す要因としての硬直化された価値観の蔓延、東京、地方都市ともにメジャー志向・信仰に代表されるとにかくマスコミで取り上げるものが至上の存在であるという錯覚、マインドコントロールから1日でも早く脱出せねばならない。そうした形骸化した見方が若者世代にも浸透している現実が描かれている。
  それから、どうでも良いことにこだわる生き方の最大のマイナス面として、それが引き起こす最も忌むべき行為がいじめを見逃すことだが、映画の中では2度出てくるいじめ(カツアゲ)のシーンがそれに当たる。最初、3人はそれに対して観て見ぬふりするのだが、2度目は毅然と立ち向かう。クソマスコミのクズ情報に惑わされ、支配されている愚かさに気づく瞬間である。その根底にある通過儀礼の馬鹿げた神聖化、マスコミが垂れ流す無責任極まりない歪んだ価値観から抜け出し、本当の自分になるべく、林遣都君の内向きの苛立ちの情緒とそれが最後に自然に収まって、ラストで外に向かって噴き出すシーンは圧巻だった。お勧め一作である。
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舞台「ドレッシングルーム」~自分の可能性への覚醒を感じ取れた

2018-05-10 18:24:07 | 演劇 映画 音楽
劇団スパイスガーデン第10回公演 2018年5月8日19:00~下北沢OFFOFFシアター

  劇場HPのスケジュールを見て気になり、チケットをネットで予約して、はじめて拝見する劇団だったが、6人のメンバーの熱演と見る側の自分自身の今までとこれからの想いが重ね合わさって、啓発されるところが多かった。

  配布プログラムには企画・プロデュース担当の方と、劇団リーダーの一文が掲載されており、そこから劇の内容に関わる一部を次に抜粋する。

(前略)そんな彼らが作る第10回本公演「ドレッシングルーム」は正に彼らの「今までとこれから」「過去と未来」への想いが集約された作品になっています。(後略)

(前略)お話は舞台の裏側、楽屋のお話です。舞台の裏側では、沢山のスタッフが支えてくれてます。演出家、舞台監督、プロデューサー、制作、演出助手、映像オペレーター、等々本番中の裏側では毎回、ドラマがあり、今回はその裏側にフォーカスを当てた作品です。数々のプロが集結して、はじめて1つの舞台は完成する。これまで、数々の著名な劇作家が楽屋にまつわる物語を発表してきましたが、今回は劇団スパイスガーデン版のバックステージストーリーをお送りしたいと思います。(後略)

  登場人物は以下の8人である。
ベテラン俳優、売れっ子新人俳優、ベテラン俳優の付き人、脚本家、映像オペレーターの女性スタッフ、舞台監督、プロデューサー、故人となった俳優(幽霊) ベテラン俳優とプロデューサー、そして舞台女性スタッフと幽霊はそれぞれ二役で演じられた。

  本演目からは、各登場人物の関係性、確執を通して「可能性はまだある、やろう!」、好きだと言えることは特に、そして何があっても人生を最後まで生き抜こうというメッセージが感じ取れた。ベテラン俳優と売れっ子新人俳優の確執には、世間の評価は確実に狂い始めており、正当な評価などはほとんど期待できない状況が読み取れる。正論が邪道扱い、あるいは無視されることは日常茶飯事、この世の常である。とはいえ、人気の如何に関わりなく好きなことは継続しよう。自分の出番(本番)がいつ来てもいいように準備をしておかねばという意思表示を劇中での付き人の突然の起用が示している。
  人生、最後に救いの手を差し伸べてくれるものがあるのかも知れない。死者から発せられる(残した)啓示を悟ることで救われることもある。そのためには哲理を知る霊感を持つ人とまでは行かぬとも、人生の出来事から多くを学び、深く考えねばならない。そのことを霊感の強い新人俳優と映像オペレータースタッフが表現していたと感じる。
  劇中の幽霊(故人となった俳優)は自分の衣装を探しているのだが、それは何かへの思い、未練であり、やり残したこと、あるいは自分に見合った環境への渇望のように見える。ベテラン俳優の言動は、かつてコンビを組んでいた故人の俳優との約束が果たせなかった無念を抱き、後悔しつつも、老いてからでも約束を実行することの意味を提示していると思う。
  人生という舞台は一度幕が開いたら待ってはくれない。何が起こっても皆で協力して知恵を出し合う仲間がいるほど有難いことはない。それを登場人物がぞれぞれの役柄を通して描き出していた。

  小劇場の舞台鑑賞はやはり楽しい。劇団スパイスガーデンの次回公演が楽しみである。
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ミュージカル「刀剣乱舞~結びの響き、始まりの音~」-頼もしい平和希求のメッセージ

2018-05-08 16:20:41 | 演劇 映画 音楽
2018年5月6日18:30~ライブビューイングin T・ジョイSEIBU大泉

  歴史認識への覚醒を促す深淵な示唆が汲み取れる素晴らしい演出の下、出演者の歌唱、アクションもレベルアップして、ミュージカルとしての成長がはっきりと感じ取れた。

  土方のいう「命の使い方」という表現から、見る者は自分の生き方を現実的に直視し、歴史そのものを自発的に学ぶ姿勢、方向に進むべきこと感じ取らねばならない。過去の過ちを直視するどころか、自分に都合の悪い部分を覆い隠し、後世の人々に教えない、あるいは歪曲して洗脳しようとする今の権力者の悪行に気づくべきなのである。我々は上からの言説の鵜呑みではなく、広範な視点の冷徹な洞察力を駆使して判断する必要性が求められている。
そして、「今の時代はあまり好きじゃない」の一言はまさに現代に対する直接的な呼びかけであることは明白である。土方を演じた高木トモユキさん、セリフ、アクションともに圧倒的な存在感を見せた。それを受ける榎本武陽役の藤田玲さんも流石で、この人物の特性を通して、物事の判断、決断には多くの知識を身につけることの大切さが示されている。言うまでもなく、それは鑑賞者にもそのまま当てはまる。自分の好きなジャンルだけで文化全体を判断するような狭小な見識から脱極することが求められているのである。
  無関心な態度で、流されるばかりで、自らの意志を表明せずに上からの命令に従って、その結果騙されても自省せず、また同じ手法に騙されるという悪循環、戦争の危機が迫っているのに、それが目に入らない状態が引き起こす恐怖を改めて感じた。登場人物の情に絆されているだけの狭隘な見方にいつまでも止まっていてはならない。もっと大きく、物事、社会、歴史を見据える必要がある。
  また、「語りなきもの」のいう含蓄の深い言い回しからは、戦争で命を落とさざるを得なかった人たちへの思いが汲み取れ、存在を無視されたものも、自身の役割の意味を受け止め何をすべきか決断する必要がある。さらに言えば、犠牲となった人々の遺志に反して特定の神を強要するような場所に祭り上げて、再び戦争準備を進めている悪党どもの存在に怒りを覚える。

  以上をコンテクストとすると、テクスト、つまり演目自体は、2.5次元ミュージカルの新段階に入りつつあることを予感させる興味深いものだった。楽曲、音楽様式の点でも、東宝ミュージカルを思わせる歌や、作曲者が複数参加しているという音楽的多様性にも注目した。ただ、本編終了後のレビューの歌唱には一部(特に前半)やや難があるように感じるが、それだけ楽曲が複雑で表現が難しくなっているからだろう。

  刀剣男子の演者のうち、鳥越裕貴君と阪本奨吾君以外の有澤樟太郎君、田村心君、伊万里有君、丘山晴己君は、はじめて舞台を拝見する人たちだったが、全体に歌唱もアクションも安定していて、才能豊かな逸材ばかりだと思う。そして、お帰りなさい! 阪本君、J-Popでの活躍を経て大きく成長した姿は喜ばしい限りである。
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