塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

はぢめてのアパート

2004年12月06日 | カテゴリ無し
ここに2、3日なぜかネットにつながらず。
悶々とした日々を送ってました。

その間に新しい部屋の契約をしてきました。

市の中心部に位置し、広さ29平米。
広くはないけど狭くもないと思う。
キッチン、バス、トイレつき。特に風呂桶つき、ここ重要。

ここ3ヶ月ひたすら共同シャワーのみの生活だった我に浴槽での安息はどれほどありがたいことか。。

引越し自体はまだ。
ドイツでは(日本の方を知らないが)、部屋を借りるとき「家具付き」と「家具なし」というカテゴリがあって、僕が借りるのは家具なしのため、いろいろと買い揃えなければならない。

ああ、でもこれでようやく自由と放縦が手に入ると思うと感無量だ。





世界で最も有名な便器

2004年12月03日 | カテゴリ無し
世界をリードする芸術家にアンケートを行ったところ、最もインパクトのある近代芸術作品として1位にマルセル・デュシャンの「泉」、2位にピカソの「アヴィニヨンの娘たち」が選ばれたという。

この「泉」という作品は、作者であるデュシャンがそこらへんの店で市販品の便器をひとつ買ってきて、題名を付けてそのまま美術展に出品したもの。近代芸術のさきがけとして大いに物議を醸した。この作品は、近代芸術について語る際に僕もよく引き合いに出すのだが、近代芸術の幹とも言える前衛や、ダダイスムの発端ともいえる。

すなわち、近代芸術における前衛概念をひとくくりに表すと「日常性の中から芸術性を見出す試み」であると常々考えている。デュシャンは、芸術性とは無縁の大量生産品の中にある種の芸術性を見出すという作業を初めて行ったといえる。ちなみにピカソにも、日常の分解と再構築を絵の中で繰り返していた時期がある。

しかし、この種の前衛を400年以上前にすでに見出していた国がある。それこそ、わが国日本である。安土桃山期に大いに発展した茶道はまさに「日常性の中から芸術性を見出す試み」といえる。そもそも「茶を飲む」という行為は日常そのものであって、茶道はその日常の一幕を練磨し昇華させることを目的とする。また、そこで使われる道具についても、たとえば庶民が使っていた飯茶碗や、フィリピン商船の中に転がっていた壷や、漁師が使う魚籠なんかが現代に名器として伝えられている。

はっきり言って僕は近年の前衛芸術にほとんど共感を覚えない。むしろ中世ヨーロッパのごと、芸術の暗黒時代に陥っているのではないかとさえ思う。そんなときにふっと周囲を見渡せば、意外と芸術というものは身近に散在しているものではないだろうか。これを読んでいる方(まず日本人しかいないと思うが)には、是非この期に自国の芸術を振り返ってもらいたい。



  


ある意味永遠のテーゼ

2004年12月02日 | カテゴリ無し
このところブログをやっている諸生の更新状況が悪いようだ。
先日発売されたという某RPGのせいなのだろうか。

ドラクエシリーズを一度もクリアしたことのない僕はれっきとしたFF派だ。
なので今回の騒ぎもまったく興味がない。

別にドラクエに触れたことがないわけではない。
それどころか前作までは一通りプレイしている。
しかし、どうしても途中で放棄してしまうのだ。

理由は簡明で、僕は悩んだり地道にLvアップさせていくことが嫌いなのだ。
じゃあPRGなんてやるなよっ、て怒られる方もいるかと思うが、そんな僕にぴったりなのがFFなわけだ。

つまり
・後になればばるほど戦闘が楽
・あらかじめ情報を集めていれば、割と短期間で武器やサブゲームなどのコンプリートが可能
この二つが重要なんだと思われ。

ドラクエは逆に
・最後まで戦闘が厳しい。ダメージもいまいちぱっとしない。
・武器を手に入れるのに地道に金を貯めなくない。
・職業を極めるのに地道に戦わなくない(しかもなかなかあがらない)。
・モンスターを仲間にするのに地道に戦わなくない(しかもなかなか仲間にならない)。
ということで、努力という言葉が何より嫌いな僕にはドラクエはまったく向いていないということだ。

ただ最近のFFはグラフィックに走りすぎて内容があまりになさ過ぎるように思います。
これはKOEIにも言えますが。

僕と同意見の人は少なからずいるはず。
これは永遠のテーゼなんでしょうね。