頼子百万里走単騎 "Riding Alone for Millions of Miles"

環境学者・地理学者 Jimmy Laai Jeun Ming(本名:一ノ瀬俊明)のエッセイ

2017年5月信州大学横川渓谷巡検「プチ・ブラタモリ」

2019-04-26 20:00:02 | 旅行

Scientific field tour of Yokokawa Valley on May 6th, 2017 (organized by Mr. Shun-ichi Yokoyama, Shinshu University)

Photo by Mr. Yoshihiko Takei (Nagano Pref.) and Mr. Naohiro Sekimoto (Tatsuno Town)

理学部生時代に勉強した内容が鮮明によみがえってきた。
辰野町誌自然編(1989):ぎょうせい をベースに、独自解釈を加筆したものをテキストにした。

<横川谷(川島区)の概要>
明治4年以前 上横川村(門前より上流、上横川神社や臨済宗の瑞光寺が中心)と下横川村(一ノ瀬より下流、諏訪神社や熊野神社が中心)に分かれていた。
明治5年 横川村となる。
明治22年 上島の一部(渡戸)を併せて川島村となる。
昭和31年 辰野町に編入。
辰野町と川島村が合併する直前(1955年)の人口約2700名。そのころまで川島中学校も存在。現在は約620名(65歳以上が260名強、15歳以下は50名に満たない。)。

<歴史>
三級の滝にほぼ対面している瀬戸沢の上流の尾根に、木曽義仲の築いた瀬戸城の石塁が残る(木曽谷側からは比較的容易に行ける)。義仲の幕閣に著名な樋口一族(辰野を拠点に発展)があり、江戸時代には高遠藩郷士として松平(保科)正之に従い会津へ。1551年に武田と諏訪からこの谷を所領安堵された市野瀬氏(私のご先祖)もご本家は士分として会津へ行ったので、今この谷に残っている一ノ瀬氏は残留組(枝葉)ということになる。
建武2年(1335年)9月30日に信濃川島駅の南西にある段丘上の横河城において、北条方として諏訪光信(神光信、宮所光信とも伝わる)が在地の土豪(横川谷の地侍を含む)を率い、信濃守護(足利方、新政方)の軍勢を迎撃(敗走)。

<地形>
横川川の谷底部(氾濫原)は、砂や泥を主体とした沖積層であり、従来は水田となっていた。一方支流の末端は扇状地となっていて、大小の礫が混じった土石流堆積物で形成されており、氾濫原の両側にみられる段丘面(標高のそろった平坦面)に覆いかぶさっている(配布の表層地質断面図と第四紀層図参照)。段丘の山麓部分は山腹斜面から崩れてきた崖錐堆積物で覆われている。段丘面と氾濫原を構成する表層地質は横川川層(基盤岩としての横川層とは別物で、まだ岩石になっていない(固まっていない)新しい(258万年前以降の第四紀の)堆積物)である。氾濫原(河道が人為的に固定される以前に、旧河道が蛇行しながら土砂を供給した谷底部)から10~30mの高さで、谷底部の両側に段丘面が残っている。集落のほとんどは段丘面上に存在するほか、昭和の中期まで桑畑(戦前は養蚕も盛んであり、私の四代前は飛騨からの女工さんを多数寝泊まりさせて蚕糸業を営んでいた)が広く存在した。最終氷期である3~4万年前の火山灰(小坂田ローム層)が段丘面の下に入っているので、その後さらに砂礫の供給が続き、現在の段丘面が形成された後、地盤の隆起や横川川の浸食で、谷底の氾濫原が形成(氷河期が終わった1万年前以降と思われる)されたと考えられる。地質の違い(後述)もあり、横川ダムより上流側では深いV字谷の地形、下流側では谷底の氾濫原を持つ地形を呈している。

<地質>
横川谷の中下流部は横川層(より新しい)、上流部は奈良井層(より古い)が表層地質を構成している(配布の地質図参照)。谷のなかほど(中飯沼沢~一ノ瀬)に断層もあり、そこを境にして下流側では新しい地層が上位にあり、上流側では古い地層が上位(上下逆転)にある。地層面は南東に傾き、南東と北西から圧力を受けて褶曲している。褶曲した地層の尾根が浸食され、その両側が地表面に露出し、上流部と中下流部とでこのような地層の違いがみられる(蛇石でフィールドノートを地層に見立てて説明した内容)。横川層、奈良井層ともに中生代ジュラ紀の地層である。ともに粘板岩(海底に堆積した泥が固まったもの)を主体とし、良質の硯石(変性を受けた粘板岩である竜渓石として有名)を産出している。横川層はチャート(沼や湖に堆積した微細な泥が固まった堆積岩で石英を含み、オレンジ色、灰色が特徴的。時々化石を含む。)を含んでいる。

<木地師の墓>
平安時代の嵯峨天皇の後裔とされる木地師の集団が、江戸時代に渓谷上流部で林業や木材加工業に従事し、石碑に菊の御紋を入れた墓を残していった。中世以前は様々な職能集団が朝廷よりライセンス(元皇族を対象とした一種の就業対策とも考えられる)を受け、非農耕流動技術者集団として、特定の業種を独占していた。(網野義彦の著作では、寺社に仕え、各種の特権を有していたこのような職能集団の一部が、中世末期に非差別民化していったとしている。)

<蛇石>
粘板岩(黒い)の地層に石英閃緑岩(オレンジ色の地層)のマグマが広範囲に貫入してできた蛇石は、昭和15年に国の天然記念物に指定されている。ダムの上流部のみならず、延長部分(同一の地層)が谷の下流部にも確認されている。閃緑岩が固化する過程でできたと考えられる15~50cm間隔のひびに花崗岩質のマグマが入り込んで石英の脈が形成され、蛇の腹のように見えている。地層の走向はN60°Eで、傾斜は65°SEである。木曽谷の木曽川、奈良井川、横川川上流部に加え、南に並行する小横川川上流部も、この地層の走向にほぼ一致する方向で流れており、中央構造線の北側の領家(りょうけ)変成帯の一部をなしている(上述の褶曲構造とも関係する。つまり、これら地層の走向に直交する方向の圧力を受けている)。地質構造が地形を決めている好例といえる。蛇石の上流に位置していた濱横川鉱山は明治43年の開業で、鉱区面積は110haに及んだ。粘板岩、チャートなどに混じって良質のマンガンを産出し、昭和58年まで採掘が行われていた。

<植生と林業(治山治水)>
辰野駅付近の標高は700m前後であるのに対し、横川谷最上流部の源上(みなかみ)集落は1000mに達する(横川谷の入り口との比高は約150m)。かつて山林の6割は徳川御料林であったため自由に伐採できず、その保障としての金銭が下賜されていたという。昭和22年以降、渓谷(上流)部のみが国有林となって今日に至る。昭和38年7月11日の豪雨による洪水(死者10名、耕地流失25ha)を受け、高さ41m、幅282m、貯水量157万㎥の重力式コンクリートダムが昭和61年10月に完成した。谷の山麓はかつて耕作地となっていたが、現在ではスギ・ヒノキの植林がなされ、中腹がカラマツ、上部がアカマツとなっており、良質のマツタケを産するため、キノコ山として管理されている。また山麓の沢筋にはワサビが自生する。昭和38年の洪水を契機として、上流の国有林にダム工(20基以上)や山腹土留工などの治山工事が行われている。

<気候>
川島小学校などで観測された風のデータ(局地風系が弱まり、より広域の風系の影響が顕著になると考えられる午前9時の値)によれば、2~11月にNE(谷をさかのぼる風系)、12~1月にSW(谷を下る風系)の風向が卓越する(私の凧揚げの記憶とも一致する)。伊那谷の冬の強風(南風)は大陸からの季節風が関ケ原を抜けて回り込んでいるものであり、伊那谷の民家は南側に防風林を設けたり、窓を小さくする傾向があるとの記述が、1950年代の著名な論文(矢澤大二など)にもみられる。柿の木が広域的に同じ方向へ扁形している話も有名である。


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ジェントリフィケーション(Gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域に、再開発などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する再編現象である。これにより、(中略)それまでの地域コミュニティが失われたりすることが問題となる(Wiki)。人文地理学のテーマとして取り上げられることの多い概念であるが、中山間地域における地域おこしの舞台でも、類似もしくは真逆に近い事象に注目すべきではないか、と小生は考え始めている。
実家がある山間の谷は、この半世紀に2700→600という人口減少を経験。この数年、町役場の主導で、地域おこしへの取り組みが盛んに行われてきた。移住者の勧誘・受け入れもその柱の一つであり、今日小学校が維持されている背景の一つともなっている。両親を通じて耳にする旧住民のコメントと、地域おこしに尽力されているステイクホルダーのみなさんとの(形容しがたい)温度差は、前から気になっているところではあるけれど、600という規模であれば、どんな方々がニューカマーとして移住されるかによって、地域コミュニティの行く末(文化面も)は大きく左右されることになるだろう。
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2012年に副収入の税金対策で始めたふるさと納税により、故郷の長野県上伊那郡辰野町の広報誌が届くようになり、まちづくり関係のユニークな動向を知るに至った。最近では、中央で活動する有識者にとどまらず、インターンの大学生、ユニークなIターン人材、地域おこし協力隊、活性の高いNPOなど、様々なステイクホルダーが活躍している。
小生の問題意識は、1)旧来の地域住民(高齢化がメジャーな課題)と、(Iターン人材、協力隊、活性の高いNPOなど)SNSで活動が見えるステイクホルダーとの温度差やいかに、2)中央とのパイプ、海外との直接交流は、実際後者のほうが強く、しかし地域へのフィードバックが弱いのではないか、3)青年会議所や政治家の位置づけが不鮮明なので有効に活用すべきではないか(行政だけでは不十分で、報告書が出て終わりというケースも少なくない。)、というものであった。この冬休みに、この活動で実績をあげておられる地元企業の方にインタビューする貴重な機会を得た

(概要)

1996年から現社長が主導し、地域に役立つ会社を目指した取り組みを開始。まちおこしと中小企業活性化の2本柱で活動。最近5~6年(震災以降)では、住民との連携、イノベーションファシリテイタ―資格の取得、アーチストとのコラボ、などの取り組みへと進化。背景として中央省庁による自治体支援制度の整備がある。一方、収入をどう確保するかが課題。
我々は町役場の職員では対応が困難な仕事を推進していく。商工会や行政は保守的でよいが、よそ者・若者(第三者)や民間は攻めの姿勢でいける。行政は信頼関係を重んじ、取り組みの結果を早く出したいという焦りもある。ゆえに、行政と地域とでは評価のポイントは異なっている。地域の人材を先生として様々な普及啓発活動をしていくのがよいだろう。

小生の立場は微妙である。ここの出身者(18歳まで元住民)、都市計画(まちづくり)を隣接分野としてかじった都市環境(地理)学者、、、。たまたま、地域おこし協力隊の皆さんと知り合い、ほぼ同時期に学会役員としての活動でかかわった皆さんがここの地域おこし活動に参画しておられ、当該学会活動での知人もこの地域の大学に関連のテーマで赴任してきたことなど、いくつもの偶然(必然)が重なり、現在小生もずるずるとこの流れに引き込まれている状況を楽しんでいる。

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4 コメント

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Unknown (本人)
2019-06-25 01:11:17
自然な形で故郷に専門の立場から貢献できる機会は、まことにありがたいことです。
Unknown (本人)
2019-08-01 02:02:14
当日配布資料をまとめてみました。2016年10月の信州大学講義と、この巡検をベースに以下を執筆しています。
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一ノ瀬俊明(2019):地域戦略における環境共生の視点.「明日の地域をみつける」,第一企画,255-264.
Unknown (本人)
2020-05-05 00:13:02
ブラカワシマ、いやブラヨコカワ。ジオマイスターみたいな巡検講師だった。
Unknown (本人)
2021-08-16 14:31:22
町内渡戸〜上島(信濃川島駅周辺)に避難指示。
この長雨はヤバい。災害史を紐解くと、小生が生まれた1963年に10人亡くなっている。それ以降、国有林の治山施設と治水ダムができている。すでに隣町で災害発生。町内二川合流地点でも水位上昇。
隣町の犠牲者は、町内在住の親子が帰省中に被災ということのようです。まことに痛ましい。

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