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「野蒜築港」建設は運河を結び、川を結び、太平洋と日本海を結び

2024年06月18日 | 土木構造物・土木遺産


広瀬川から少し離れて、もう少し「貞山運河」とその関連事業の話をしたい。日本最大・最長の50キロに及ぶ貞山運河(写真上)が土木学会選奨土木遺産とも紹介した。しかし、ただの仙台城下の水上交通網として整備されたわけではなく、その後、国を挙げての大きな構想の中で重要なポジションに位置付けられていた。
確かに貞山運河・北上運河の中でも、江戸前期に開削された阿武隈川から名取川河口に及ぶ「木曳堀」は、伊達政宗が殿様であった時代のもの。その名のとおり船が引いた材木が仙台城下の街並み整備に活用されたことだったのだろう。
次に、七北田川河口と塩釜湾を結んだ「舟入堀(一部、砂押川を活用。現仙台港の建設により一部寸断)」が完成。明治期に入って、成瀬川河口と旧北上川を結んだ「北上運河(写真下・2枚目)」(北上運河は、定川を挟んで南北上運河・北北上運河と呼ばれる)、その後松島湾と成瀬川を結ぶ「東名(とうな)運河(写真下・1枚目)」、そして明治期にすでに開削されていた名取川と七北田川を結んだ「新堀」の改修事業の完成で、全線開通となるわけである。



明治期に入って、貞山堀が脚光を浴び、その他の運河群の建設に拍車がかかったかというと、成瀬川河口に日本初の近代的港湾を建設するという国家の一大プロジェクト「野蒜築港(のびる・ちくこう)」が建設されることになったからである。
明治政府の大久保利通は、東北地方の発展のためにと河川の活用と港湾の建設を推進するため、拠点となる港の候補地選定をかのお雇い外国人のファン・ドールンに依頼した。さあ、ドールン大先生はいくつかの候補地の中から野蒜を最適地として推挙。築港建設事業とともに貞山運河の延伸、北上・東名の各運河が建設されていたのである。
1882年、野蒜築港は一応完成したものの、風や波浪、漂砂・流砂の影響を受ける場所であったことから、3年後の台風で壊滅的被害を受け廃港・廃棄されることになる。ドールン設計の鳴り物入りの港は鉄道網の発達など陸上交通の台頭もあって、波の中に消えてしまった。
運河はそのまま残されたが、野蒜築港の遺構についてはあまり残っていない。土木学会は、2000年(平成12年)に、野蒜築港跡地や北上運河、東名運河、貞山運河、北上運河が旧北上川に接続される場所に建設された「石井閘門(一番下の写真)」の一連の施設を「野蒜築港関連事業」として土木遺産に選奨している。(写真下・野蒜築港の碑・遺構群)



ところで、お雇い外国人土木技師・ドールンだが、先にこのブログに登場している。そう、福島の「安積疎水」を紹介した記事で、ドールンは野蒜築港と同時期に福島でも偉大な功績を残している。疎水と築港、同じ土木事業でも少し色合いが違うように感じられるが、これは密接に国家プロジェクトでつながっている。
今回紹介した運河は、北からいうと北上川と阿武隈川をつないだものであり、阿武隈川を遡って五百川、猪苗代湖へ。ドールンの功績によりそれが日橋川、阿賀川、阿賀野川、信濃川へと続くことになる。つまり、東北の太平洋岸と日本海側がつなぐ内陸水上交通網を整備するという構想があった。
現に、明治期にはこの構想をもとに、新潟港を整備するためドールンの後継者であったムンデル、エッセル、後に常願寺川の記事で紹介したデ・レーケなどが新潟港や信濃川の改修に送り込まれている。常願寺川に調査に入る以前に新潟にそうそうたる技術者が結集していたのである。こちら余談ですが。








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