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宮城・震災遺構の訪ねて、復興支援と鎮魂・祈りの旅は続く

2024年06月24日 | 旅行記・まち歩き
これまでも、岩手県や福島県の太平洋沿岸を「復興支援の旅」と称して訪問してきたが、今回訪れた宮城県の沿岸部でも東日本大震災における津波の被害は甚大なものがあったことはご承知のとおり。
以前、女川を訪れた時に記事を掲載しているが、今回訪問の名取市から仙台市、石巻市にかけても震災の遺構や伝承施設、慰霊碑、メモリアル公園など、震災関連施設が数多い。青森県を含む4県中、その施設数が一番多いのが宮城県で、137か所。
震災以降には一部民間の被災ホテルなどが保存・公開されている場合もあるが、その多くは公共施設。震災やそれに伴う津波の脅威を教訓とするため、今回の宮城県訪問の中で立ち寄ることのできた震災遺構3か所をご紹介しておきたい。



まず仙台市若林区の「震災遺構、仙台市立荒浜小学校」。仙台市街地から10キロほどのところにあり、海岸から約700メートルに位置している。先に紹介した貞山運河に近く、震災当時2,200人ほどが住む集落を学区に、91人の児童が通っていたという。
3.11の際の津波は、地震発生後1時間ほどで校舎の2階部分まで押し寄せた。先生は校庭にいた児童を校舎内に入るように促し、上階に避難。児童は全員無事だったものの、周辺の住民も多くが学校に避難し、水没した周辺地域の中に数多くの人が取り残されることになった。
自衛隊の駐屯地が近くにあったっことなどもあり、その日の夜から翌日にかけて、学校の屋上から一人一人をヘリコプターで釣り上げ避難に成功したという。それほど規模が大きい学校ではないので、屋上も狭く決死の救出作戦だったに違いないが、先生方の機転や自衛隊員の使命感に敬意を表し、拍手を送りたい。



途中、野蒜築港後に行く前に立ち寄ったのが「東松島市震災復興伝承館」。目の前に東名運河があって、旧JR仙石線「野蒜(のびる)駅」を改修したもの。そう、停車中の電車に津波が押し寄せて、無残にがれきに押し流された現場がここである。
電車こそ撤去されたが、旧野蒜駅のホームなどは、震災当時そのままに残されており、駅舎を活用した伝承館には、東松島市の被災者が自らの体験を語る映像を見ることができるし、多くの被災写真などが展示されている。元の駅周辺は公園整備され、慰霊碑や市内犠牲者の名前が記されたプレートも設置されている。
甚大な被害で長期間にわたり仙石線は不通となっていたが、JR東日本はこの区間(陸前大塚から陸前小野までの巻)の路線を高台に移設・付け替えすることになり、2015年野蒜駅も新線に移転・営業を開始したのである。ここでも街並みが大きく変わったが、震災の記憶は周辺住民の目や心に刻まれて伝承されていいく。



石巻市は、東日本大震災の死者数・行方不明者数が3,970人(石巻市ホームページ、令和6年2月現在)で、被災した市町村別の中では最多の町である。旧北上川河口があり石巻湾に近いところに市街地・住宅地など人口密集していたと地形にもよるが、津波というだけでなく、津波がもたらした市街地の火災により被害が拡大、多くの犠牲者を出したという。
旧北上川の河口に近い復興祈念公園の前に「石巻市震災遺構門脇(かどのわき)小学校」がある。津波被害のほか火災にも見舞われたのが石巻のあるが、こちらも幸い登校して避難した児童に死者は出ていない(正確には、震災直後、親が迎えに来て帰宅途中に災難にあったケースはあるとのこと)。震災直後、津波の危険を察知した教職員は、学校の裏山(日和山公園)に教壇を立て掛けて、児童を避難誘導したという。
これまでに見た震災伝承館の中でも、当時を被災状況を目の当たりにできるほか、展示物やメッセージ、被災当時の伝承映像などは説得力がある。伝承館の職員は、「津波の際の垂直移動(避難)だけでなく、平行移動も考えないといけない」と語ってくれたのも印象的であった。

いずれも痛ましいく、悲惨な現場でもあるが、目を背けてはいけないし、教訓として伝えなければならないと思いから、まだまだ東北復興支援の旅、鎮魂と祈りの旅は続く。
(以前、同じ宮城県気仙沼市の「東日本震災遺構・伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)」を訪れた時(2020年10月)の記事も参照いただければと思う。)
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