現天皇が即位した年、私は5年目の修行僧でした。某テレビ局が前年末に「時節柄正月番組に賑やかなものはマズいから、永平寺のお坊さん撮らせて下さいよ」と、安直な依頼をしてきたことを覚えています。その正月の7日に昭和天皇は亡くなり、直ちに現天皇が即位したのです。
私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。
最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。
たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。
明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。
問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。
1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。
私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家(現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。
これは要するに、血縁・地縁を共同体の編成原理(その基軸が「万世一系」)として近代国家を作りだすという離れ技を演じて、「家族国家」を自認しつつ「和をもって尊し」とし、「一致団結ガンバレ、ガンバレ」と、人口・経済「右肩上がり」の時代を突っ走ってきた日本社会の終わりを、明確に意識しての発言ではないだろうかと、当時の私は思いました。
それはすなわち、アニメ「サザエさん」の視聴率がヒトケタ半ばに落ち、檀家制度が機能しなくなり、「○○家先祖代々之墓」が廃れ、同期入社の3割程度が「外国人」であることが普通になって、「英語」ができるかできないかが就職と収入の格差になる、我が国において前代未聞の社会の到来をも意味するでしょう。
そして今年、「生前退位」を強く示唆する「お言葉」です。
自らの意志で退位できるとなれば、当然今度は即位にも意志が問われるべきだろうとなるでしょう。このことはすなわち、天皇の「地位」が「任務」や「職業」になることを意味します。
世襲で終身として制度化された「地位」ならば、それは事実上選択の余地ない、ほとんど「存在性格」そのものです。だからこそ今なお天皇には「神格」が保持されているとみるべきでしょう。
これが選択可能な「任務」「職業」になるとすれば、そこには「任務」「職業」に就いたり辞めたりする「人間」が立ち現れてきます(このことは、天皇のみならず皇族という「地位」についても同様でしょう)。その人物が「日本人」ならば、原理的・最終的に(必然的に、とは言えないかもしれません)現憲法において規定される「基本的人権」の保証対象になるはずでしょう。
「お言葉」が表明されてから、何人かの識者から「これは人権宣言だ」というコメントが出たのは、まさにこの点に核心があるのです。
私はこれら一連の発言に、現天皇の深刻な思慮と根源的な思想を感じます。発言は、戦後我が国が漠然と言祝いできた「人権」と「民主主義」、そして「日本国民」というアイデンティティーの意味を、まさに現在の社会において根底から問い直すものに他なりません。
本来我々主権者が問うべき決定的問いであるにもかかわらず、それが、「基本的人権」をお話にならないほど制約され、政治的発言もできない立場の人物によって発せられたことに、私は忸怩たる思いと負い目、そしてある種の恥ずかしさを禁じえません。
私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。
最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。
たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。
明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。
問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。
1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。
私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家(現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。
これは要するに、血縁・地縁を共同体の編成原理(その基軸が「万世一系」)として近代国家を作りだすという離れ技を演じて、「家族国家」を自認しつつ「和をもって尊し」とし、「一致団結ガンバレ、ガンバレ」と、人口・経済「右肩上がり」の時代を突っ走ってきた日本社会の終わりを、明確に意識しての発言ではないだろうかと、当時の私は思いました。
それはすなわち、アニメ「サザエさん」の視聴率がヒトケタ半ばに落ち、檀家制度が機能しなくなり、「○○家先祖代々之墓」が廃れ、同期入社の3割程度が「外国人」であることが普通になって、「英語」ができるかできないかが就職と収入の格差になる、我が国において前代未聞の社会の到来をも意味するでしょう。
そして今年、「生前退位」を強く示唆する「お言葉」です。
自らの意志で退位できるとなれば、当然今度は即位にも意志が問われるべきだろうとなるでしょう。このことはすなわち、天皇の「地位」が「任務」や「職業」になることを意味します。
世襲で終身として制度化された「地位」ならば、それは事実上選択の余地ない、ほとんど「存在性格」そのものです。だからこそ今なお天皇には「神格」が保持されているとみるべきでしょう。
これが選択可能な「任務」「職業」になるとすれば、そこには「任務」「職業」に就いたり辞めたりする「人間」が立ち現れてきます(このことは、天皇のみならず皇族という「地位」についても同様でしょう)。その人物が「日本人」ならば、原理的・最終的に(必然的に、とは言えないかもしれません)現憲法において規定される「基本的人権」の保証対象になるはずでしょう。
「お言葉」が表明されてから、何人かの識者から「これは人権宣言だ」というコメントが出たのは、まさにこの点に核心があるのです。
私はこれら一連の発言に、現天皇の深刻な思慮と根源的な思想を感じます。発言は、戦後我が国が漠然と言祝いできた「人権」と「民主主義」、そして「日本国民」というアイデンティティーの意味を、まさに現在の社会において根底から問い直すものに他なりません。
本来我々主権者が問うべき決定的問いであるにもかかわらず、それが、「基本的人権」をお話にならないほど制約され、政治的発言もできない立場の人物によって発せられたことに、私は忸怩たる思いと負い目、そしてある種の恥ずかしさを禁じえません。
普段、意識しない天皇陛下ですが、世界へも日本の顔として貢献してきたんでしょうね。
ブッダが涅槃に入る前に残した言葉を彷彿とさせる印象を受けました。
その後の国の対応は、机上の空論と「日本会議」的な思想を優先させ、陛下の意向も世論も無視して一代限り特例法で退位を可能にする方向で進んでいる。毎日新聞の記事によれば、陛下は一連の議論に、生き方を否定された様で、やるせない気持ちになられているとのこと。
https://mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c
この件に関して、安倍晋三に確固たる考えがあるとは思わない。おそらく応援団の意向通りに動いているのでしょう。「野党がだめ」とか「代わりがいない」といった理由でこの政権を支持する有権者たちよ。この連中にこのままやりたい放題やらせていいのか?
可住面積が圧倒的に少ないうえに海に囲まれた島国の住民であるが故に、あるべき形の継承が固有の文化を生じさせているのですが、その在り方の大切さを今上天皇皇后両陛下は身を挺して示しているのですね。 在り方を問い続け在り方そのものをもって形容することこそが「人の人たる生」を意味づけるのですね。
天皇に関する行事の遂行に身を挺して参加する(している)多くの人々の深奥に在るのは、単なる神格化による行為ではなく、苦しいことがあろうともあるべき在り方を問い続けそれを示し続けてこそ、ヒト固有の文化を育み継承されるのですね。
そうであってこそ、先人の死に手を合わせても名実ともに意味づけられますね。
物作りの連携には秀でているものの「ソフト開発」に弱く「失敗しないこと(事なきを得る)」を尊重する日本文化を生気させている原因がそこにありますね。
今上天皇陛下には「保身」なんぞはありませんね。 そうさせているのは、圧倒的な意識の在り方ですね。
敗戦により日本は変わりましたが、「象徴」という言葉を「行為」に表し問うたことが、本質的転換の始原になっておりますね。 そうですね、国民がそれをよく理解しあるべき在り方を問えるようになれば・・・
日出処天子至書日没処天子無恙 → 日の出る所(日本) まさに、在るべき在り方を問われていますね。
日本における王権の場合、神祇信仰から始まり、さらに穢れだの、祟りだの、と言って幾多の神々を誂えては、信仰という徴収ネットワークを張り巡らせていったわけで、そのネットワークの中で生じる、様々な権益を巡る紛争や調整の中で
仏教という新たなネットワークが貢献したという事実があるわけである。
無産階級がこしらえた幻想的概念(文化)、あるいは祭りや娯楽などの類いで、いかに人を集わせるのか、集客システムの構築のみならず、徴収システムの根拠となる元ネタを、海外から持って来て国内仕様に変更して稼働させる事は現在でも行われており、それ自体、知識階級の役割なわけである。
統治権が帝から武家に変わったとしても
神格化という基本形は受け継がれていく
江戸時代においては、御遺訓に始まり、
垂加神道、朱子学や儒学を元ネタとして
徴収の正当性を担保するイデオロギーが
形成されていく過程の中で、仏教は傍に追いやられていく、いわゆる神仏分離と呼ばれるやつである。
明治の初めに至っての廃仏毀釈は、そのネットワークからの完全削除を意味する
ものとして、日本型仏教の終焉である。
本来の教えとは異質な変容を遂げた形で
受容された日本の仏教にしても、現代のキリスト教やイスラム教にしても、その原型とは明らかに変容してしまった事を考えるならば、宗教自体の役割はもうないのではなかろうか。
社会に迎合してみたところで、変容を余儀なくされるのである。
統治者の掲げる 国家、 自由 、平等 、
民主主義なるものは、あくまでも集わせること目的とした集団化の概念であって徴収システムの仕掛けに過ぎない。
8月8日に発表された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」には、1945年8月15日の玉音放送で流された「終戦の詔書」を思わせる言い回しが使われている。例えば「どのような時にも国民と共にあり」は「常ニ爾(ナンジ)臣民ト共ニ在リ」と似ているし、「(私の気持ちが)国民の理解を得られることをログイン前の続き、切に願っています」は、「私の意をよく理解してほしい」という意味が含まれた「爾臣民其(ソ)レ克(ヨ)ク朕(チン)カ意ヲ体セヨ」と似ている。
それだけではない。老川祥一『終戦詔書と日本政治』(中央公論新社・3024円)によれば、「詔書」のなかの「時運ノ趨(オモム)ク所」は「義命ノ存スル所」になるはずだった。「義命」が「時運」に修正されることで、なりゆきにしたがって降伏するという意味合いが強くなった。この「時運」のほかにも、「詔書」には「世界ノ大勢」という言葉が2回出てくる。
一方、「お言葉」にも「日々新たになる日本と世界の中にあって」という言い回しがある。「なる」という言葉がいみじくも示しているように、ここにも「詔書」が受け継がれていると見ることができる。
■雄弁に核心語る
また「詔書」には、「朕ハ茲(ココ)ニ国体ヲ護持シ得テ」とある。降伏や敗戦という直接的な表現は避けられ、ポツダム宣言を受諾しても「国体」は護持されると強調したのだ。今回の「お言葉」でも退位という表現はなかった代わりに、即位から28年で築き上げた平成の象徴天皇制の核心が雄弁に語られた。
しかし、「お言葉」で天皇が生前退位の気持ちをにじませたのは確かだった。冨永望『昭和天皇退位論のゆくえ』は、昭和天皇にも生前退位の機会が4回あったことを明らかにする。特に朝鮮戦争により再軍備が課題として浮上してきたときには、旧軍人が退位論を唱えた。その背景には、新しい天皇を最高統帥者として改憲再軍備を進めたいという思惑があった。自分たちの政治的野心を満たすため、生前退位を利用しようとする勢力がいたということだ。
昭和天皇は戦後巡幸の途上、各地で戦前さながらの奉迎の光景を目にして、「国体ヲ護持シ得テ」と放送したことが証明されたと感じたに違いない。昭和天皇以上に全国を回った現天皇も、こうした感覚を受け継いでいるように見える。89年~2008年の「お言葉」を集めた宮内庁編『道』によれば、現天皇は00年12月、「戦後は、新しい憲法の下で、皇室の在り方も象徴ということで違ってはきていましたが、国民に対する気持ちとしては変わらないものであったと思います」と述べている。「国民に対する気持ち」は、戦前と戦後で変わっていないとしたわけだ。
■即位しての変化
だが、平成の象徴天皇制は昭和と全く同じというわけではない。河西秀哉『明仁天皇と戦後日本』は、現天皇が即位してから国民に対する接し方を大きく変えたことを指摘する。それを象徴するのが91年7月、前年噴火した長崎県の雲仙・普賢岳の被災者を見舞ったときの行動である。このとき天皇は、皇后とともに膝(ひざ)をつき、一人一人に目線を合わせて声をかけた。これ以降、各地で大きな災害が起きるたびに二人は被災地を訪れ、同様の行動をとるようになる。
それとともに、天皇に対する国民の印象も大きく変わる。一言でいえば「特に何とも感じていない」が減り、「尊敬の念をもっている」が増えたのだ。いまや大日本帝国憲法も教育勅語もない。にもかかわらず、現天皇は在位28年にして、抽象的な「臣民」ではなく、顔の見える「市井の人々」の内面に届く形で「国体」をより強固なものにしたともいえるのである。
◇はら・たけし 放送大学教授(日本政治思想史) 62年生まれ。著書に『昭和天皇』『可視化された帝国』『皇后考』など。
勿論それは簡単にという意味合いではなく、しっかり考慮された上で。
国家元首にして国民統合の象徴
仏教徒であると同時に、ブータンの全ての宗教の保護者
65歳で定年退位
だそうです。また、国王に憲法にそぐわない行為があった場合、国会の3分の2以上の賛成で退位を発議でき、国会の4分の3以上の賛成があれば国民投票にかけられ、賛成多数の場合、退位せねばならないと規定されいる。また、通常は長男が皇太子となるが、長男がその位にふさわしくない場合は、他の王子、王女から皇太子を指名する義務があるそうです。
この憲法は2008年に公布されたそうですが、今日の立憲君主制のありかたをよく考慮しており、日本で今日行われている議論をさきがけしていると言えると思います。
天皇を「まっとうな人間」として見るか?
「神格化して、物体でも、あるだけでよい」として見るか?
戦前の価値への回帰、反動勢力との戦いである!
「生前退位」に猛烈に反対している人々の
歴史思想、政治思想、基本的人権擁護への態度を見て下さい。
日本国民が、新しい憲法を審議している最中、「天皇制」と「軍隊」とが結びつき戦争を起こして日本を暴走させた、
これをどう解決するのかが最大の問題であった。
「天皇を政治から完全に外す、象徴に」「軍隊を持たない、交戦権を認めない」
その時には、「天皇の人権」など誰も気が付かなかった。余裕がなかった。
具体的に、目の前に「成人となっている」「既に天皇に就いている」昭和天皇が存在しているのだから、この昭和天皇に対する人権など、国民誰もが気が付かなかった。
しかし、そもそも、「日本国憲法が不備」ではない。
根本は、法律扱いの「皇室典範」が、悪いのである。
今こそ、「天皇の人権」という改革、「皇室典範」の抜本的改訂が必要である。
いくら自民党「日本会議」の抵抗勢力があろうとも。
当時の日本人は「天皇の人権」などは考えることが出来ない状態であった。
日本国民全員が、「近代天皇制の洗脳」の状態にあったので、当然であった。
戦後70年経って、ようやく、冷静になって「天皇個人の人権」を考える環境が生まれた。
今上天皇陛下だけが「現在の日本国憲法の範囲内で、「象徴」天皇が具体的に生きる道」を考え続けて来た。
それの結論が「生前退位」の必要性であった。
それを自分の身を晒すことで、日本国民に示していらしている。
私は忸怩たる思いがある。
全ての日本国民が、今回の今上天皇陛下の御示しを体して、速やかに退位を実現すべきと考えます。
日本国憲法の下で
天皇とは、「天皇職」を精神誠意努める「人間」であり、
代々天皇家の人々が継ぐ。
「職」を精神誠意努めることが出来なくなった場合には、「天皇職」を次世代へ引き継ぐ。
「天皇の神格化」を無化することが、差別の無化となる。
土壌汚染対策として盛土してその上に建物建てるって計画が地下空間になってて
今、テレビとかで言われてるのをきいてると、強度とか汚染とか慎太郎君がとか。
でも、盛土しましたって完成写真付けてたり、工事費としてこんだけ、とかって、嘘ついてたんでしょ。明らか意図して。
方向転換するならする、したならしたで必要な手続きやらなんやらあるのを全部嘘ついてたんでしょ。
なんで「豊洲市場」の話になってるんだろう。
議会制民主主義は全く嘘ですってことでしょ。
憲法もお金次第、とあらば何とも哀しい限りです。
向こうでは、伝統的にそういうものが根付いているから、未成年もそれを楽しめるのかしら、なんて思いました。
私自身は中年の下り坂をゆく小さな者ですが、恥ずかしいことに、今年の7月にとある年上の女性から伺うまで、陛下が何代でいらっしゃるか知りませんでした。
何となくは知っていても、なかなか古い記録に接することは、庶民には叶わないことです。
民草、
という響きに、
私は、老いても元気な雑草でありたいと、思い始める午後でありました。
「基本的人権を踏みにじられる」という点においてもっと深刻な例はいくらでもあります。この程度のことにいちいち忸怩たる思いと負い目を感じていたら身が持たないと思います。
朝鮮人慰安婦問題、米軍基地の沖縄への過重負担、このような問題にもっと私たちは恥を感じるべきであると思います。
ローマ帝国はキリスト教を国教としました。
その後、それが広大すぎて、政治的に一元で管理できずに、イタリア、フランス、英国、ドイツ…多くの国々に分割していったのです。
その前に、東と西に、分割し、
東は、ギリシャ正教の世界となりましたが。
だから、支配していた王族の結婚で、支配地が拡大したり縮小しました。
日本で言う「外国人」ではありません。
ヨーロッパの王室は、ローマ帝国という「本家」から分かれた「分家」な訳です。
だから、結婚すれば、領地が「英国」と「フランス」の合計、全体となりうるのです。
スペインが、オランダを領地にしているのも、キリスト教の「ローマ帝国という本家」が存在したからです。
本人の希望でしょう。
その孫の聖武天皇が、国家事業として「奈良の大仏」を建立して、仏陀(覚者)の奴(奴隷)となった。
当時の世界宗教は、天皇「家」の宗教であった。
明治政府が、政治力で宗教に介入して、「神仏分離」を強制した。
だから、「天皇」は仏教徒を止めた。
江戸時代は、実質日本人全体が、仏教徒であり、だから、お寺が戸籍管理をしていた。
明治維新後の「国家神道」が、日本人の精神を破壊し、呪縛して行った。
そして、排他的となり、
アジアの国々に、神社を建てて、アジアの人々に、「日本の天皇を神として」拝むことを強制した。
「天皇そのもの」を「神」として、「天皇そのもの」を国民が「拝む」。
現在の天皇は、日本古来の神々に祈る「人間」である。
日本国民が祈りを奉げる「対象」ではない。
つまり、現在においては、
「天皇の神格化」は、間違っている。
しかし、戦前を求める人々は、逆行を企てる。
これは、戦前の間違った道である。
断固阻止する必要がある。
「私たちは、この国で英国国教会の占める重要な位置を思い起こす必要があります。私たちの「国教会」の概念は、時折誤解されており、しばしば過小評価されています。国教会の役割とは、他の宗教を排除し英国国教会の教義を守ることではありません。そうではなく、国教会にはこの国の全ての信仰の自由を保護する義務があるのです」
と言及されたとのことです。
翻って日本の現状を見ると、いわゆる天皇主義者には「純日本」といった民族主義的発想が強い。しかし考えてみると、聖徳太子らは、外国の宗教である仏教を取り入れるために戦争までしたのですから、天皇が外国の宗教を取り入れ保護することは、伝統的なこととも言える。日本にも神道・仏教以外の信仰をもつ国民が増え、天皇が、イスラム教、キリスト教など全ての信仰の「擁護者」の役割を果たす日が来るかもしれません。逆にそうならなければ、国民統合の象徴という役割は果たせなくなるのかもしれません。
ちなみに、イギリスの王室では「民族」は問題になりません。ダイアナ妃、キャサリン妃の存在により、だいぶ土着化がすすみましたが、チャールズの代までは、みんな外国人(ほとんどはドイツ人)。ま、それでもアジア人、アフリカ人が王室に入るには、イギリスでもまだ壁があるとは思いますが。
それがクリアできなければ「形骸化」するでしょうが、そう考えると「退位」という表現自体が適当ではありませんね。
それはつまり、象徴的行為ができているか否かが「問い問われる」のですからね。 今上天皇皇后両陛下は、誰もが認める本物ですが、これを役者としてやるとばれますよね。
言葉や行為において在るものが、心において感受され、何がしかの類似として固定され、当初の言葉や行為とは幾分異質なものになったとしても、当初のものとは無関係ではあり得ない。
象徴天皇とは何を象徴しているのか?
象徴されるものとは何なのか?
国と総意という漠然としたものだけなのか?
大日本憲法→大日本帝国憲法
日本においての神は、私の感覚では「神」=「立派な素晴らしい人」という意味です。うちの近所の同世代の神主さんは、「人はみんな死んだら神になるんだよ。」と言っていました。山や木や、職人が大切に使った器具なんかにも魂が宿ってしまう日本ですから、人が全員神になっても当然ですね。神仏習合の時代は神=仏の認識だったのかもしれません、一般庶民の感覚としては。
つまり「現人神」とは「生きてるうちから(煩悩あって当然なのに悟ってて)立派な素晴らしい人」程度なのかもしれません。戦時中は軍部がイメージを悪用して、戦争を盛り上げたのかもしれませんが。
ちなみに神道について説明してくれた知り合いの神主さん(40代)は、奈良時代から続く代々神主さんの家系で、先祖はナントカノミコトとのことでした。そういう意味では、神の子孫の一人かもしれないな、なんて思います。古い旧家の神社のお家は、けっこうそういうのあるんじゃないでしょうか。
へーそうなんだ〜。
by wikipedia
そっか
おおみこころに叶うよう
願うばかりだった
立派な主権者になることを誓わなくてはならないんだね
ありがとう
南さん
戦前の厳しい「天皇というタブー」が排除されたので、
史実・事実の前でこの「神格化」は、次々剥がされています。
天皇の戦後に於いての位置づけは…
昭和天皇の人間宣言を踏まえて、
天皇は、
日本古来の神々に「日本国民の幸福を祈り続ける職」の人であり、
代々の天皇家の人が「家業として引き継ぐ」で、良いと考えます。
「能」の伝統を引き継ぐのも、特定の家系です。
伝統を引き継ぐところでは同じようになります。
今回、今上天皇はこの「神々への祈りの職」を精神誠意努めるのが困難になったので、「この役目・職」を次に譲ると希望しているのです。
「神」ではなく「人間」で十分でしょう。
今から、徳仁皇太子の更に30年後、ますます「神格化」は困難でしょう。
子供たちは、恐竜が大好きです。
進化論の前では、天皇も人間です。
この継体天皇は、朝鮮半島と中国との激動の外交戦を乗り切るために、当時の大和政権側が、大王として、招き出した人物です。
507年に大王(=天皇)に就いた。
当時は日本海側が海外との交渉で先進地であったから。
(大和の内陸では、外国の動向が把握できなかったので)
そして、この様な国をリードした人物を輩出した「日本の歴史」をこそ誇るべきです。
そこに自信を持ち、団結の芯を求めるべきと考えます。
外交戦を生き延び、600年からは、中国から独立して、「ミニ中華」世界を築いていきます。
(昔は、中国の臣下の「王」の位)
お飾りの、神格化した天皇なんて、ちゃんちゃら可笑しい。
むかし、実際、いたでしょう。
「幼児の天皇」が。
現在なら、
「高齢で、痴呆の天皇」
「何にも反応しない、植物人間の天皇」
これを許容するのは「神格化」です。
つまり、天皇を物体とみているのです。
神社の御神体の「巨石」「巨木」であり、
ただただ、存在するだけでいいのです。いていきます皇室の
アメリカはごくごく当たり前のように、カウンセラーが利用されていりようだね。
私も近年まで、病気ではないのだから行く必要はないし、言われることは大体予想つくし、自分のことはわかってるし、行くことによって、弱く?なるような気もあって、気が進まない感じはありました(弱さを認めたくない抵抗だったのだと思います)。
しかし、今は、対話の効用の実感も経験してきたこともあり、通っています。
アメリカでは、仕事を終えたら、カウンセラーに行くのが、習慣なところもあるようです。
その「象徴行為」の結果として「退位」が問題となっているのです。 それの何処にも「神格」ということは無用です。 今後において、問われ続けるのは「象徴行為の在り方」でしょう。
何だかんだ日本の象徴だよね。
神格化はしてるのは国民の方で、皇室自体そういう意識は、ないように思うけどね。
知性や品性の失われつつある社会で、皇室を観るとホっとするところもあるように思う。
天皇というシステムは、気を配りながら維持するべき。
共同体における聖なる権威、もしくは「心の拠り所」に仏教やキリスト教はなりうるのでしょうか?もし仏教の教えが「拠り所なんてないけど、工夫して頑張って生きていけ」ということなら、それに対して「ないものねだりは止めて、自らを律し生きていきます」と言える人はいいですけど、何か精神的に支えてくれる確かなものを探す人には、あまり役にたたないでしょうね。
神様なら確かなものを提供してくれるのでしょうが、キリスト教でもイスラム教でも、あまり慣れていない事に手を出すのはそれなりの危険性を伴うと思います。全体から見れば極少数ですが、イスラム国に感化されてしまったヨーロッパの若者はたくさんいますし、キリスト教だって妊娠中絶を行う医療施設にテロ行為を仕掛けるような信者もいます。聖なるものは、賤なるものが存在することにより成り立っているので、少し間違うとこういう物騒な結果になる。「神格化された天皇」がその役割を果たさなくなったとき、迷走する人が出てくるリスクはないでしょうか。
そうすると「神格化された天皇」で落ち着いているなら、それを維持すべきではないか、とも考えられます。しかしそれは、それは陛下自身の人権を否定することでなりたっており、国民はそれを強いていいのか。
逆に、もし皇室の方々が人権を得られ、不条理な犠牲を強いられることがなくなった場合、それならば特権も必要ないよね、という議論が出てくると思います。つまりは、国民が経済的に皇室を支える理由もなくなる。ならば日本は共和国になるのか。
私の日本社会の見方がどこまで適当か分かりませんが、天皇が「神格」を失うということは、それほど単純な話ではないように思えます。
その一つは、既に書きましたが、世界を知ってしまった日本は、自分探しを始めてしまい、「天皇を中心とする神の国」というところに落ち着いたのではないしょうか。誰もが自分の国は特別だと思いたい。この世界のなかで特別な場所をしめていると思いたい。その特別さの根拠を神格化された天皇に求めたのではないでしょうか。
もう一つの理由は、共同体を形成する上で、一人一人の個人が何か聖なる権威というものを求めるのではないでしょうか。つまりは天皇に「近い」ものがより良く、より正しい。そういう価値観を日本人は欲し、受け入れているのではないでしょうか。例えば、陛下が被災地などに慰問に行かれると被災者の方々は感激される。それは、陛下のお人柄によるところが大きいとは思いますが、そういう価値観が根底にあってのことのように思えます。
zipさんは恐らく、絶望とは違う何かに寄り添ったんだと思う。
駄目なの?
元号とはうらはらな世の中である。
言祝ぐより、弔いや慰めの言葉があるばかりである。
現実において、まともな手当を受けられず、心の拠り所としての宗教でさえ淘汰されつつあり、もはやそれを自室にしか見いだせない世の中は、向き合う価値さえない。
この先、死が希望となる様に、自己をしっかり絶望させて、間違っても希望にすがらないことだ。
存在性格とは、
絶望に寄り添う日本の神である。
紆余曲折はあるにせよ二千年を経て
絶望に寄り添う姿がある。
だからこそ・・・
友人にしてみれば大先生(とある教授)に今度お会いしたときに伺ってみます。 私には、本音でお話いただけると思っておりますので・・・
天皇自身が「仏教徒」になるとは、自分が「凡夫」の自覚をするということです。
親鸞聖人が、主著「教行信証」で、浄土教を弾圧した「天皇」を厳しく批判しています。
天皇も間違った行為をする。
人間だから間違う。
しかし、戦争中は、
主著「教行信証」のこの該当部分は、伏字で隠しました。
宗祖親鸞聖人よりも、「天皇」の方が正しいとしたのです。
それは「天皇」自身が「神様」だったから。
「現人・神」だからです。
少しの天皇神格化にも、反対する必要があります。
過去の戦前の間違いを繰り返さないように。
天皇は、「人間」「凡夫」であると。
利権云々は別に考えると神格化しその共同体に加われば、ある意味楽ですからね。
問題は「天皇」自身の「神格化」です。
だから、たとえ痴呆に陥ったとしても「天皇」を止める(退位)ことに、反対する勢力があるのです。
たとえ、植物人間になっても永久に延命処置を続けます。
昭和天皇の末期が正にそうでした。
助かる見込みが全然ないのに、強引に延命を進める。誰も中止ができない。
たとえその家族でも。
それは「天皇」を、神格化しているからです。
今回「天皇」の退位が実現したら、普通の人として、ホスピス、人生終末の医療、安らかな死を、実現できると考えます。
お疲れ様でした。感謝です。と。
ここでの議論を、明確に、分けて考えましょう。
最初の「日本書紀」は720年に完成し、大きく中国思想に影響を受けています。
だから、日本の天地創造神話は、中国の陰陽思想を拝借しています。中国がこれを読むと納得します。
戸籍での国民の管理を行うことから、中国の「系図」と「長男」が、日本に出現しました。
ウヨクの方々が「男系」に拘るのは、中国思想にカブレているからです。
日本古来の社会では、男女同権よりも、女系社会です。
結婚しても、男が夜だけ女の家に泊まりに行き、明け方には出ていくでした。
だから、天皇の男女関係で、異母兄妹の恋愛・結婚が頻発します。
実の兄妹でも、一緒に生活していないので、まったく他人の男女の感覚なのです。
要は、歴史を正視して「男系」を廃止すべきです。
世界では、文明国では、「妾」制度は復活できませんから。
「男系」維持のため、天皇に「妾」を押し付ける訳にはいきません。
徳仁皇太子が次の天皇職に就いて、今から30年後の未来には、
きっと多くの国民が、女性天皇を容認するでしょう。
これは、日本にとって良い事です。
日本の古来の母系社会に戻るのは、中国思想からの乳離れです。
自分自身に自信を持つことです。
要するに、単なることばの領域に属していた「象徴」を「情報化」してしまったのです。 となれば、「情報という事態」は不変の性質を有するため、問題化するのが当然の事態です。
「問題→課題→問い」なので問題は消失していきます。 さらに言えば、「象徴的行為における神格化」はあり得ません。 よって、そのことば自体が無用です。
祈りについて
意識の存在根拠がわかれば、その行為自体が消滅しますが、現在において、今上天皇がそれを行うことについては、的を得ていると思うことに加えて「祈りの場」に霊場的な何かがあるのではないかと感じております。
天皇家の存続について
側室制度をなくしたことに加えて、男系となれば、庶民以上に家系存続が危ぶまれますね。 「側室と男系」が家系存続におけるベストな形態ですからね。
>そして、天皇家の伝統であった、仏教徒に戻るべきです。
仏教徒(そうでない私も)にしてみれば「一理ある」でしょうが、「ことば」が情報伝達手段の主流である限りにおいてでしょうね。
英国の王室も、「王権「神」授説」であり、「キリスト教の神が王に任命した」という根拠づけでした。
現在の「エリザベス女王二世」も、神の前では同じ人間であり、神格化はなしです。
英国国民の究極の「心の支え」は、各人のキリスト教信仰ですね。
昭和天皇も、多分、GHQの要請?もあり、「人間宣言」しました。
(米国本土では、太平洋戦争で大勢の死傷者があって、昭和天皇を戦争裁判に掛けろという世論が圧倒的だった)
しかし、これは、日本人にとって、大変良い事です。
「持統女帝の前」の「日本の古来の本来の」大王=天皇に戻ることですから。
具体的には、天皇家そのものも、
祖先は神様であるが、
自分たちはその「神様の子孫」であり、
「人間」である、
に戻った訳ですから、
「天皇」は、「神様に祈る人」側に戻り、
持統女帝以後に造られた、自分自身が神様として「現人神」「神様」として拝まれる存在を止めるのですから。
国民は、個人の心の支えは、仏教、キリスト教、神道、…の「本来の宗教」に求めれば良いのです。
「疑似宗教」は「似非宗教」であり、大東亜共栄圏となり、朝鮮にも、台湾にも、満州国にも、インドネシアにも…
神社を建てて、強制的に「天皇」を拝ませました。
現在の日本人は、個人の人格の確立が出来ていないから、人間である「天皇」を神格化する、というのは本末転倒です。
仏教やキリスト教で、個人の人格を確立すべきです。
そして、天皇家の伝統であった、仏教徒に戻るべきです。
黒船により呑気な「井の中の蛙」的な世界観を崩された日本人は、自信を喪失し、欧米に対する劣等感に苛まれることになったでしょう。そんな日本人が心の拠り所としたのが神格化された天皇ではないでしょうか。大海を知ってしまい、自分の井戸の小ささに愕然とした蛙が、「この井戸は神泉の湧く神の井戸である」と自分に言い聞かせ、体裁を保ったというところでしょうか。
それに対し、古代の大王とはどんな感じだったのでしょうか。有力守護大名の寄り合い的性格であったとされる室町幕府の将軍のようなイメージでしょうか。古代の支配層にはおそらく渡来人が多かったと思われるので、外交関係も大分意味合いが違ったと思われます。占いとか雨乞いなど、ある意味神秘的な面はあったでしょうが、心の拠り所のような意味合いはなかったのではないかと思います。
被災された方であれば、辛い心中をズバリと察するように優しく労わってくれるので多くの方々が感極まってしまうようですね。
本来、二人称の大切な関係である者が三人称の関係になるばかりでなく多くの悲惨な事件が起こっていますが、天皇陛下は初対面であっても「大切な二人称の関係」にしてしまう本物のお方のようですね。
何を言いたいのかは、どうでもいいですね。
特に、明治維新以降の「人工的な天皇制」で考えるのは問題であり、戦前における「天皇を支配の道具とする目的」は、避けなければなりません。
持統女帝が造った神話「万世一系」よりも前の、その政治イデオロギーの「日本書紀」より前の、日本古来の大王(オオキミ=天皇)に戻って考えてみる必要があります。
持統女帝は、自分の子「長男」、その子「孫」、更にその子「曾孫」・・・を確実に天皇に就けるために「万世一系」の神話を造り上げました。
外戚の藤原不比等も自分の娘を次々に結婚させ、摂政政治で支配しようとしていたので、二人の利益は合致しました。
それまでは、どの豪族も、先祖は神様であったが(つまり自分たちは神様の子孫であったが)、
持統女帝の天皇家だけは、それまでを否定して、神からの血筋とする「万世一系」の神話を造り天皇自身が、「神そのもの」とした。これが「現人アラヒト・神カミ」の製造である。
日本最初の歴史書「日本書紀」でこの政治イデオロギーが、確立され、伝承された。
だから、先ずは、それ以前の、日本古来の大王(オオキミ)は、何者だったのかを考察する必要がある。
なお、「天皇」号は、天武天皇が最初に使用し、次の持統女帝からは、継続して使われるようになった。
それ以前は、大王(オオキミ)であった。
情報を正確に伝えられる現代の最高峰は「デジタル技術」ですが、スパコンが作った「アルゴリズム」を人は理解できないのでシステムが生起させる現象を判断する以外に成すすべがないところまで来ています。
ヒトをヒトたらしめている?「細胞と分子の関係性」のレベルに来ているのです。
情報伝達手段から、ことばが淘汰される時代も遠くないでしょう。 ヒトの存在は『於いてあるもの そのものに他ならない』のだから、生成される環境の一要因として存在する以外に成すすべは原理的にありません。
現成公案の示すとおり、勝手な意識に囚われないことが大切でしょう。
しかし実際にはその数年後、日本は嫌韓ブームで盛り上がることになる。
また、陛下は2004年10月の園遊会の席上、米長邦雄が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と媚びた際に、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と釘を刺された。
しかし実際には、校長が職務命令で国歌斉唱をさせることは合憲との判断がされ、おそらく現場では強制される形となっているのでしょう。
2013年の天皇誕生日には、陛下は「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました」と発言され、押し付け憲法論を排した。美智子皇后も誕生日の会見で「五日市憲法草案」を見た時の思い出に言及するなどして、日本国憲法の理念が押し付けられたものではないと諭された。
しかし現実には押し付け憲法論が闊歩し、「自民党憲法改正草案」のような軽薄で近代国家として恥を晒すようなお子ちゃま文章を作った政党が、選挙で圧勝し続け、改憲まであと一歩のところまで来ている。天皇が政治的とも捉えられかねない発言をすることには、批判もあるかと思います。しかし、戦争大好きの国民世論と軍部の野望が両輪となり、天皇を最大限利用し日本を破滅への道と導いた先の戦争の歴史を考えれば、陛下が自らの役割を定義する日本国憲法の枠内で、今日の我が国の風潮に抵抗されるのは理解できますし、また国民としてまさに負い目を感じずにはいられません。
天皇という制度を議論するということと、陛下を敬うという想いは、決して矛盾することではないと思います。
ただ今後、天皇からその「神格」が消された場合、精神的に弱い連中はそれに耐えられるのでしょうか。つまりは、天皇を聖化、神格化することにより、日本、もしくは日本民族を「特別」だと思い込み、その存在が天皇という聖なる存在に正当化されていると思っている日本人は、その精神的支えなしにやっていけるのでしょうか。もし駄目なら、天皇に代わる何かしら聖なるものを探し始めるのか。そこがやや不安なところです。
死も簡単に迎えられないお立場という事を思い知らされ、何とも知れない任務の重さを感じたものでした。
本来あってはならない発言かもしれませんが、個人的には、時代と共に天皇の在り方が見直されても、おかしくないと思います。
>・・・言葉でないと発するのが恥ずかしくなるようですね。
今上天皇皇后両陛下に倣い実感できれば、自分自身のこころが激変し、在り方が一変することでしょう。 他者が如何に在ってもいいのです。 課題は、自己の在り方であり、それさえ問い続けられるならば、十分です。
おわかりいただけないでしょうか。
天皇陛下が『祈り』を捧げてくれているのです。
それと切り離せないことではありますが
実際の内容の両面で
その意図の明快さ、行き渡った配慮、抑制に打たれます。
同じくらいの配慮、抑制を行き渡らせた
言葉でないと発するのが恥ずかしくなるようですね。
根拠を示せないものの「誰の存在だってそうだ」と言ってしまえばそのとおりだと思いますが・・・
現実として、天皇家は存在し続け今に至り、生前退位が問題化する(している)理由は、今上天皇皇后両陛下の存在の在り方が、余りにも多くの人々に『象徴的』な影響を及ぼしているからだと思います。 名実共に「象徴」としての存在の在り方を示そうとすれば、「生前退位」を表現することになりますよね。
ヒトは何を如何に認識するかで異なります。 要するに「意識の在り様が顕在化する」という「それだけ」のことでしょう。 だからこそ『意識とは?』にならざるを得ず、結果的に「思考する」ことになりますよね。
途中乗車でありながら、終着駅のない電車に乗っているというこの「愉快さ」もあれば、不愉快さもあるでしょうね。
立場って、誰の立場が意義を決めるの?
っていう
なんつうか
天皇陛下は、諸々鑑みた上での我が身の振り方を言ってるのに
なんだってこっちは天皇陛下のことを言ってるんだ
生前退位に賛成か反対か、それはなぜか、ってやってくと、結局日本はどういう風にこれからをやっていくのかってことを考えることになってしまうんだろう。
私は、ちゃんとは考えられないけど、南さんの言うことはいろいろ妙に中央集権的な気がして、あんまり賛成したい気分じゃない。
英語ができるかできないかが就職や収入を左右する、みたいなのって、日本全国が東京になる話なのか、東京だけを日本と呼ぶのか、みたいな感じで、なんか嫌だわ。
2016-09-11 07:08:19
>今回のテーマにジャストミートしていますよ。 ということであって、あなたの意見に反論しているのではありません。
はてなさんの「可笑しいね」に対する反論 (御坊哲)
2016-09-11 12:03:36
を受けての
逆に聞きたいですね (はてな)
2016-09-11 13:52:03
を投稿したいうことです。
はてなさんの「逆に聞きたいですね」に対する反論 (御坊哲)
2016-09-11 14:08:37
>そうせず「そのもの」とすれば、
一体何を「そのもの」とするのですか?
「そのもの」として、矛盾を外せばという意味です。
当初の
可笑しいね (はてな)
2016-09-11 07:08:19
に対することであれば、お答えさせていただきます。 それ以外は、ご容赦ください。
他意はない。当事者以外は絡ませたくはないと思いあなたのブログにコメントした次第である。ブログのルールを知らないのでご勘弁。
誤解のない様に言っておくが、クレーム
を投稿したつもりはないし、あなたの意
見がクレームだとは思わなかった。
>そうせず「そのもの」とすれば、
一体何を「そのもの」とするのですか?
そんな暇やそんな気は、私にはありませんね。
そうせず「そのもの」とすれば、あなたは納得できますか。 天皇と民は物質的に同じ人間だから、意識領域も同じということでいいのなら、私自身の存在する意味はありませんね。
「意識とは何ぞや」という私にとっては、難題中の難題を提起している「ことば」ですよ。
更に言えば、可笑しいね (はてな)
2016-09-11 07:08:19
とあなたの反論内容は一致していますか?。
こちらのコメントの解釈は、以下のお話も重ねると少し違って見えてくるものがあるのではないかと思われます。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h15e.html
『私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。』
すべてを一身に引き受けること、並大抵のことではないことは誰もがわかることかと思われます。
ですから「於いてあるもの そのもの」という表現自体が矛盾しています。
もしかして、zipさんとはてなさんは同一人物ですか?
あらゆる意味での被災者や多くの人々に及ぼす、あの立ち居振る舞い(entertainment)は、まさに象徴でしょう。
今回のテーマにジャストミートしていますよ。 「思えません。」という「ことば」を使える「根拠」や「自由」を考えてみては如何でしょうか。
御坊哲さんの言われていることと私が感じていることは異なりますと、私が言える(おお、この庶民感覚=good match)という(或いは、言っている)その意味をですね。
それを私よりはるかに知っていた方(痛感せざるを得なかったであろう)が、正田英三郎というお方ですね。 嫁いで実感し克服したお方が皇后陛下ですね。
そんなに簡単に言い切ってしまっていいものでしょうか?
>「時代という非連続的概念の連続」、「於いてあるもの そのもの」
西田哲学の語法を模した空疎な概念としか思えません。
その知性は、流石zipさんですね。
何事であっても「その事態」を探求するとわからない領域に行かざるを得ません。 途中乗車の存在であるため致命的でありますが、そこをやり切れるのがヒト特有の性質です。
その頂点が天皇家であり、民あっての国を根源的に理解しているからこそ「祈り」ができることは承知していますが、zipさんの知性に興味を覚えましたね。
辞退する所があっても良いものだ。
25ぶりの快挙とは。
今年は、オマバ大統領も訪問されました。
昨日は北朝鮮が核実験とまあ、いい加減にしろ!です。
ということは。我が身に照らすとどうなるのだろうかのう。
於いてあるもの そのものに他ならない
「非正規雇用の拡大」は、人間が造り出したものである。
「非正規雇用の拡大」を、ストップさせるのが、根本的な解決である。
マルクスは「宗教は阿片である」と喝破したが、
「天皇陛下を利用して、国民を麻痺させて、
会社の悪を温存させる、助長、拡大させる」のは、
日本国家・国民の破壊・崩壊に導くものである。
そして、退位した天皇は、
天皇職への就任の前である「只の人」に戻り、
水戸黄門のように気ままに隠居生活をおくれるように。
間違っても、政治利用、出番を作ってはいけない。
(すべての場から隠れる)
勿論、天皇誕生日は、普通の日に戻す。
または、「東京裁判のA級戦犯の死刑を記念する日」に、新たに制定する。
(クリスマスのキリストの誕生日と対になるだろう)
今上天皇は、火葬を望まれる!
それも、
すべて国民の負担を軽減させる目的で。
(無駄な税金は使わせないように)
そして、
歴代天皇は
外来宗教・世界宗教である仏教徒でもあった。
それが日本の天皇家の長い宗教伝統であった。
つまり、重層的な信仰であった。
世界宗教と民族土着宗教とのアクロバット!
他国からは、摩訶不思議な精神世界!
神仏習合、神仏混交、
これは日本民族の偉大な発明品・最終決着だった。
むしろ、明治維新が異常精神期であった。
日本の長い歴史から観ると。
美智子様も天皇家に嫁ぎご苦労を経て克服され、皇后陛下として公務に励まれていますね。
「現成公案」此処に在りでしょう。
今回のような「考察」が、至る所で出来るのがお坊さんだと私は思いますが、天皇陛下の立ち居振る舞いに遠く及ばずとも、ひとり、ただ一人でいいので出て来て(成って=修行)欲しいです。
何かあれば、すぐに鶏冠に来るのでは、出家や修行の意味はないと思いますが、私の思い過ごしでしょうかね。
天皇陛下は例の生前退位をめぐるお言葉のなかで、「国民を思い国民のために祈るという務めを」と言っていて、よく「祈り」という言葉を使われるように思います。「天皇の一番の役割は、祈ること」という言説も目にします。
「祈る」とは一体どういう行為なんでしょうか?誰に?
仏教に帰依するはしくれとして、祈るという行為がよく理解できません。
釈尊に「祈る」のは変ですが、「南無阿弥陀仏」は祈りの一種なのか…天皇の祈りとキリスト教の祈りとはどう違うのか…。
情勢にも敏感で、墓地などの縮小化なども発言されていましたね。
世界中を訪問され、お気づきになられたところもあるのでしょう。
また、憲法9条改正への反発も大きいのではないでしょうか。
誰もしてくれない問題提起を、自ら立ち上がりお示しになられました。
意思というより、定年制に改正にできないのだろうかとは思いますね。
おっしゃるように、天皇陛下はご自身が歴史の転換期にあることを自覚されて、これまでの一連のご発言をされているように思います。
それはまた、未来の日本国に希望を繋ぐための、陛下の熟慮の末のぎりぎりのお言葉であることも痛感いたします。
しかしながら、私は今後の日本国の将来について不安を禁じ得ません。
戦後、日本はGHQの指導の下にアメリカ型の価値観や理念を受け入れ続けてきました。それは、経済的には一定の成功を収めましたが、同時にムラ社会などの日本の伝統的な共同体や理念を破壊することにも繋がりました。
ムラ社会から離れた人々は、自己の寄る辺を会社に求めましたが、バブル以後、非正規雇用の拡大によって会社も共同体としては上手く機能しなくなりました。
結果的に、現代社会は居場所を無くした不安な個人が右往左往している状況だと思います。
陛下の示された道は、現状では最善であると思いますが、我々が将来を見通せず、不安を感じていることもまた事実ではないでしょうか。
恐らく、これは現代社会の宿命であり、我々は大地から離れた「不安な個」として生きていくほかはないでしょう。
そして、グローバル化の名の下に行われるマネーゲームや人間をモノとして扱う高度資本主義社会に、どうにかして対応していくしかありません。
このまま、アメリカ型の社会が何の矛盾もなく平和に続いてゆくのでしょうか? 社会は進歩し、繁栄に向かうのでしょうか? 私には疑問でなりません。