時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

猫の道

2010-01-09 | essay
わたしが猫なら、毎日でも通りたい。
猫が歩いたら似合いそうな塀の屋根だ。

小学六年の時に書いた、猫の詩を
母が大絶賛してくれたことがあったなあ。
塀の上に寝そべる猫の詩だった。
母が、家庭訪問にみえた担任にまで読ませたりして
ちょっと恥ずかしかったけど何だかとても嬉しかった。
母は、褒めるのが上手なひとだった。
母に褒められると、すごく自信が湧いてきて
すぐその気になったものだ。

その猫の詩以来、詩をたくさん書くようになって
中学では文芸部に入部。(新体操部に入ろうと思っていたら
その部の中三だった姉に断固拒否されたせいもあるのだが!)
詩や物語を書くのがすきな子どもではあったけれど、
母のあの大絶賛なしには、長くは続かなかったはず。

能天気でポジティブな親にして、この楽観的で単純なムスメあり。
粘土オブジェの仕事をしていた頃もそうだ。
母の賛嘆のおかげで、仕事を取れるところまで
自分を鼓舞して突き進むことができたのだと思う。

親馬鹿でもいいんだな。
コトバだけじゃなく、わが子を信じる姿勢、
いつでも味方なんだよって解らせてくれる姿勢が
安心感に繋がるんだね。
いつだって、わたしは母の心根のやさしさに
支えられて歩いていたんだなあ。

つくづく、こころのおおきなおおきなひとだったなと思う。
自分も母となり、近年になってから
母の本当の大きさ、優しさ、強さを知った。

母が他界してもう四年。。。
逝くには早すぎたよね、おかあさん。
幾つになってもまだまだ聞きたいこと、
聞いてもらいたいことがたくさんある。
そして未だに、褒めてもらいたい時だってある。

同じ「母」だというのにわたしはまだまだ甘ちゃんだ。
今のわたしの年齢の彼女を思い出すと、
わたしより遥かに大人だ。
母として、大人として、揺るがず凛としていた。

あんな時、母ならどうしたか。
こんな時、母ならどう言うか。
わたしのなかの母に尋ねながら、
この先も彼女を道しるべにわたしは歩いてゆくのだろう


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