新古今和歌集の部屋

十訓抄 頼朝の文武

十訓抄第十 可庶幾才藝事
十ノ五十五

鎌倉右大將、父子ともに、代々撰集に入り給ひけるこそ、ことにやさしけれ。なかにも右大將、都へ上り給ひけるに、吉水大僧正

なにごとも、おもふばかりはえこそ

など、聞こえられたりける返事に、

陸奧のいはでしのぶはえぞしらぬ書きつくしてよ壺の石ぶみ

とよまれたる、おもしろく、たくみにこそ聞ゆれ。
およそ武士といふは、亂れたる世を平らぐる時、これをさきとするがゆゑに、文ならびて優劣なし。朝家には文武二道をわきて、左右のつばさとせり。文事あれば、必ず武備はる謂なり。かかりければ、もろこしにも、後漢の武王は武將二十八人をえらび定められ、麒麟閣をおきて、勲功をしるされける。舜帝の時、八、八元と名づけて、十六族の文士をえらばれしがごとし。
源順が右親衞源將軍、初めて論語を談ずる時、
職列虎牙雖拉武勇於漢四十七將
職、虎牙に列す、武勇を漢の四十七將に拉ぐと雖も
學抽麟角遂味文章於魯二十篇
學、麟角を抽づ、遂に文章を魯の二十篇に味はふ
とぞ書けりける。文武ともなる心なり。
また、唐の太宗、隋の世をとりて、政を定め給ひける時、魏徴、房玄齡等、勅問にあづかりて、守文、草創の二つを分けて、文武のすすみ退くることをぞ、おの/\心のひくかたにつき、諍ひ申しける。
弓箭の道は、敵に向ひて、勝負をあらはすのみにあらず、うちまかせたることにも、その多く聞ゆ。
左氏傳にいはく、
賈大夫といひける人、形きはめて醜かりけり。めとるところの女、これを憎みて、三年の間、ものいはず、笑わざりければ、男、歎き恨みけれども、かひなかりけり。野に出でて遊ぶ時、一つのきぎすを射て、これを得たり。その時、この妻はじめてうち笑みて、ものいひける
となむ。

コメント一覧

jikan314
Re:こんにちは!
剣巻でも紹介頂いた通り、宗任らの「わが国の梅の花とは見つれども大宮人はいかがいふらむ」にもあるように、陸奥蝦夷の宗任ですら和歌を読んでいますね。万葉集東歌、防人歌等に見える通り、普通に和歌を読んでいたのですが、記録に残されなかっただけかと。
文武で一番有名なのは、頼政ですが、頼朝も普通に伊豆で和歌を読んでいたのでしょう。
実朝の場合、京都文化に憧れていたため、飛鳥井雅経や鴨長明に、そして自分の荘園で地頭とトラブルを抱え、実朝と近付こうとした藤原定家に和歌を学んでいきました。

保昌ですら後拾遺集に撰歌される程の歌人でもあった訳です。奥さんの和泉式部には及びませんが。
sakura
こんにちは!
自閑さま
実朝は武人としてより歌人として優れ、頼朝は武将・政治家ですが、
和歌にも通じていたのですね。

頼朝は伊豆に流されたのは、13、4歳?だったと記憶しています。
それまで都にいたのですから、都で和歌を学んでいたとも思われますが、
主に流人時代に東国に下ってきた学僧や貴族から学んでいたと推測できます。

朝廷との交渉する時、同じテーブルにつくには、
和歌に精通していることが必要だったのでしょう。

「みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ ふみつくしてよ壺の石ぶみ」は、
私も実朝の墓がある興国寺で記事にしました。 
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