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浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 1-2ー2

2017年06月16日 | 日本近現代史

         浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社

 

 

浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 1-2ー2

 

浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 1-2ー2

 

 ▲ 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』

 

今日は第2章の2からの抄録

 

ふるふるいやいや

 

公卿は特権階級にはなったものの、その実業は、前代の芸道で、その免許料が新時代に入ってなくなってみれば、その多くが、箸から重たいものを持った仕事をしたことない人たちは、たちまち窮した。

岩倉具視は、そのような華族に対して

「金禄公債の利子をわたすと浪費してしまうから月々に分けて渡そう」

「素行の悪いものは北海道に送って開墾などに従事させろ」

などの提案をしている。

しかし、公卿華族たちは、感謝するはずがない。

「岩倉は公卿華族の中では例外的に金の面での苦労がなかったからである。」

「明治2年9月、岩倉は。「復古功臣」として三条とならんで5000石の賞典禄をもらったが。その後も折にふれて天皇から大金を下賜されている。」

「その結果岩倉はいわば「成金」になった。・・・・・・他の公卿華族からしてみればまさしく嫉妬の対象であった。」

「天皇も公卿華族たちの経済的苦境を救うために、明治初期からいろいろな名目で金を下賜していた。」

「明治27年3月には天皇の結婚25周年記念を名目に199万円の「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が公候伯子男の公卿華族たちに分け与えられることになった。」 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 36-39頁

 

新諸侯・徳川諸家 16家

徳川姓の三家 慶応4年5月24日、260余年にわたり諸侯を従えた徳川宗家は駿府石府中(静岡)70万石となり、自らも諸侯の一つとなる。

あとの徳川姓二家、田安藩、一橋藩主の両家はかつての「御三卿」。

もう一つの御三卿清水家は当主がいなかったため、遅れて華族に加えられた。

江戸時代は将軍家の家族として遇され、官位なども御三家より上になることもあり、諸侯以上の存在だったが、諸侯とされ格下げになった。 (40ー41頁)

徳川家に対する対応は、明治政権が安定するにつれて、五爵が定められたとき、徳川宗家には侯爵、御三家には侯爵、「御三卿には伯爵というように爵位が上がっている。(41頁)

 

つづく



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