▲ 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社
浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 その1
浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社
▲浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 定価762円+税
初版は1994年 リブロポートから刊行。
著者のプロフィールはカバー内側の案内によれば以下の通り
▲浅見雅男プロフィール 『華族誕生 名誉と体面の明治』 1999年 中央公論社 より
カバー裏にはこう案内されている。「華族という階級は明治二年に誕生し、現行の日本国憲法の発効と同時に消滅した。公候伯子男の爵位をもったかれらの実態は、いまや忘れ去られているが、近代日本に何らかの足跡を残したはずだ。誰が華族になり、爵位はどのように決まったか。名誉と体面の保持を強く求められた特権階級の内幕を描く」
今回は1章の抄録
いつ生まれたかは、上の説明にある通り、明治2年、正確にいうと明治2年6月17日、政府の行政官が発した「達 布告から」
「官武一途上下協同の思食しを以て、今より公卿、諸侯の称を廃せられ、改めて華族と称すべき旨、仰せ出され候こと。ただし官位はこれまでの通りたるべき候こと」 (『華族誕生 名誉と体面の明治』 12頁)
「もともと華族とは、京都の公卿社会において摂家に次ぐ家格だった清華(せいが・家)の異名だった。場合によっては「花族」と書いたり、「かしょく」と読んだりもしたが、公卿の名門を表す名称として使われていた。」
(13頁)
「公卿社会第二位の異名をつけてやることで、諸侯たちの自尊心を満足させようとしたという説もある。」
家族制度と華族制度
華族という言葉はそもそも個人を指すものではなく、同一の戸籍に属する人々全体を指すもの。
もう一つは華族の中でも爵位を名乗れるのは戸籍筆頭者、つまり戸主だけ。
個人の功労が評価され与えられた爵位でも、それは一代限りではなく、世襲される。結局は家の「財産」
岩倉具視、大久保利通。木戸孝允などは爵位制度ができたときには死んでいたが、その跡継ぎたちが、故人の功労を基準とした高い爵位(岩倉は公爵、大久保、木戸は侯爵)をもらった。
華族令と叙爵内規
華族令は明治17年7月7日公布の勅令、全十ヶ条。
名称は華族令だが、爵位や叙爵に関する規定が中心で、「爵位令」とでも名付けた方が実態に合っている。
爵位は天皇が授けるものであること 第1条
爵位は、公候伯子男の五つにわけること 第2条
女性は爵位を持てないこと 第3条
華族令と同日に定められた規定に叙爵内規がある。
華族令は官報に掲載されたが、叙爵内規は公表されなかったため、華族でも知らないものがいた。そのため与えられた爵位に筋違いな文句をつけた例もあった。
爵位を最終的に決定したのは、三条実美(太政大臣)と伊藤博文(参議兼宮内卿)
三条は名目的な、伊藤「は実質的な最高実力者。
データ
華族は明治2年に誕生したが、そのとき、427家。
公卿・諸侯別に分けると、
公卿 142家
諸侯 285家
さらに、明治17年7月までに76家が華族とされ、最初の叙爵のときに、華族は501家あったことになる。
これに伊藤博文家、山県有朋家など叙爵と同時に華族となった29家を加えると明治17年7月現在で華族は530家。(叙爵が遅れた家がある。)
華族人口は明治7年末現在で2891名
日本の人口3200万~3700万くらいなので、華族は日本人の1万人に1人もいなかった。
1945年、敗戦時の華族は924家、華族人口約6000人。
▲浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 目次1
▲浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の明治』 目次2
以下 つづく
2章 華族階級が出来る経緯
3章 華族に爵位を与える基準
4章 叙爵内規から各華族はどのような爵位をもらったか
5章 6章 は爵位をあげるよう運動した華族
おわりに