ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

イタリア中世の都市社会

2023-08-10 21:17:42 | ヨーロッパあれこれ

 

イタリア中世の都市社会

清水廣一郎 著

岩波書店 発行

1990年12月10日 第一刷発行

 

中世イタリアの人たちの日々の営みの記録が、登記簿や会計簿、そして覚書などのかたちで"フリーズドライ”されていたのを、著者のような優秀な研究者の地味な努力で、現代日本において”解凍”して頂き、生々しい記録を読むことができるのは、幸せなことです。

 

Ⅰ イタリアの中世都市

1 古代の遺産

イタリア中世都市は、そのほとんどがローマ都市に起源を持っている。

中世以降に建設された有名な都市

商業都市アマルフィとヴェネチア(いずれも6世紀ごろ)

フェラーラ(8世紀に資料初出)

 

都市が経済的中心地としての機能を持ち続けていたことは、ローマ帝国崩壊後の支配者たちにとっても無視できなかった。

5世紀に建国した東ゴート王国が北イタリアの中心都市ラヴェンナを都とし、その後に続くランゴバルト族も、またフランク族も都市を行政の中心と考えていた。

 

2 コムーネの成立

コムーネ(自治都市)の発展にとって見逃せないのは、司教権力の背後で都市住民の発言力が次第に増加しつつあったということである。

「コムーネ」や「コンスル」(市民の代表)のごとき用語が史料に現れるのは11世紀末から12世紀初頭のことであるが、それ以前から事実上の市民団体が存在したことはほぼ確実である。p8

 

3 領域国家としてのコムーネ

コムーネの成立は、たんに都市集落内部の問題にとどまるものではなかった。それは、周辺の農村地帯を支配する領域支配権力として成立した。

 

4 都市の権力構造

 

5 富の分布

1427年、フィレンツェの新しい税制。それまでは関税や消費税などの間接税と、それを担保とした強制公債に依存していた。

戸主全員に資産状況の申告を求め、それの基づいて課税するという新たな税制「カタスト」が導入された。

 

6 都市の理想と市民権

 

Ⅱ 都市の理想と「真の市民」

14世紀フィレンツェにおける市民権

 

フィレンツェの歴史は、カエサルによる建設からトティラによる破壊まで、そのすぐ後の再建からフィエーゾレの征服までというそれぞれ500年にわたる二つの時代に区別される。

フィレンツェにおけるフィエーゾレ征服は1125年の事件

フィレンツェがはじめて周辺領域(いわゆる「コンタードの征服」)にのりだしたことを意味するものであって、その後のフィレンツェ史の歴史記述においても、画期としてつねに用いられることになる重要な事件

 

Ⅲ 中世イタリア都市における公証人

民衆の法意識との関連で

 

1 公証人文書

12、3世紀以降の公証人は「自由職業者」であるところに大きな特徴がある。

彼らは公的な秩序を担うものとして認められ、それ故に認証業務や私権にかかわる公正証書の作成がまかされる。

それにもかかわらず、その活動は自由な職業活動としての性格を持つ。

 

公証人文書のカテゴリー

・公証人がまず作成するメモ

・公証人登記簿

・公正証書

 

2 公証人の成立

 

3 公証人の業務

 

4 公証人の数

 

Ⅳ 中世後期イタリアにおける都市国家の膨張と市民

ヤコポ・デル・ペーネの会計簿

 

本稿は、14世紀中葉、ピストイアのカピターノやプラートのポデスタを歴任したフィレンツェの有力市民ヤコポ・デル・ペーネの行政官としての活動と経済生活の側面について

 

1 ヤコポ・ディ・フランチェスコ・デル・ペーネ

従属都市の行政官として赴任したときの会計簿を残す

 

2 ピストイア、1355-56年

 

3 プラート、1359年

 

4 ポデスタの部下について

 

Ⅴ 十四世紀ピサの商業地区 サンタ・クリスティーナ教区について

公証人文書による分析

 

14世紀ピサの政治史を特徴付けるベルゴリーニ派(親フィレンツェ派)とラスパンティ派(反フィレンツェ派)の抗争p103

 

一人の公証人の登記簿を史料として、エンポリウムとしてのピサ、フィレンツェへ連なる内陸交通と、ジェノヴァから北アフリカに及ぶ海上交通の結節点としてのピサについて

 

1 史料

14世紀ピサの公証人セル・アンドレアの登記簿のうち、14世紀前半に関わるもの

 

2 フィレンツェ人

ピサはアルノ川の河口から約10キロさかのぼった地点にあり、トスカーナの「自然の出口」であったため、フィレンツェの有力商人たちはここに支店を構えていた。

 

ピサとトスカーナ内陸部とは、運送業者の活動によって緊密に結び付けられていた。

 

3 ジェノヴァ人

ピサのサンタ・クリスティーナ教区には、多数のジェノヴァ人が、短期であれ長期であれ、滞在していた。

彼らの活動は、ジェノヴァ本国の海上活動に結び付いており、きわめて活発とともに、コルシカ、サルディーニャ、マヨルカ、北アフリカへ至る広範なものであった。

 

ガレー船が穀物の輸送に用いられていた。

多くの人力を必要とし、それだけに積載量も少なく、コストがかさむガレー船の場合、そのコストをカバーするような高価かつ軽量の商品を輸送する必要があった。

一方、コグをはじめとする帆船は機動性においてはるかに劣り、鈍重であったが、コストが低廉であったので、安価な商品を多量に輸送することが出来た。

しかし14世紀中葉には、ジェノヴァにおいてもガレー船を穀物のような重い商品を輸送するために用いていた。

 

4 ピサを中心とする海上活動

小型船「バルカ」の占める割合が高い。ガレー船は少ない。

 

ぶどう酒の輸送が頻繁に行われている。ピサの周辺農村はぶどう酒の生産に恵まれず、製品の質は高くなかった。エルバ島からぶどう酒が運ばれ、ナポリからギリシャ型の甘味ぶどう酒が輸入された。またコルシカ島もピサにとって重要なぶどう酒の供給地だった。

 

5 サンタ・クリスティーナ教区の特徴

 

西地中海の海上交通の流れと、フィレンツェを中心とするトスカーナの内陸交通の結節点としてのピサ。

そのピサの機能を典型的に示すものとして、キンツィカ地区、とりわけサンタ・クリスティーナ教区がアルノ川沿いの「港」として存在した。

 

 

Ⅵ 家と家を結ぶもの

中世末期イタリアにおける嫁資について

 

結婚は、家の内側と外側の両面において同時に新たな結合関係を生み出す。

このような結婚の二面的性格はあらゆる社会において共通のことであるに違いないが、中世末期のいたりあにおいては、嫁資がかかる二面的な結合を支える物質的基盤としてきわめて重要な意義を持っていた。

 

1 嫁資とは何か

ローマ法においては、一般に家長の権限が強大であった反面で、相続における平等主義が存在し、年齢や性別を問わず平等に相続権が認められており、女子も原則的に同等の権利を有していた。

一方、6世紀中にイタリアへ進出し、後代の法慣行に大きな影響を残したランゴバルト族の場合には、女子の相続法上の地位は著しく低かったことが知られている。嫡出の男子がある場合には女子は相続から排除されていた。

 

嫁資というのは婚姻関係の設定や保持に関する費用を負担するというのが本来の趣旨であり、原理的には中世においても同様な理解が行われていた。

そのため、夫の財産を増やすものであればなんでも嫁資とすることが出来た。

不動産、動産から何らかの用益権や債権などさまざまなものがあったが、一部は現金、一部は品物というのが普通であった。

 

2 覚書の中の嫁資

 

3 人生訓の中の嫁資

ジョヴァンニ・ディ・パゴロの『孤児の被る七つの損害とその救済法』

標題の範囲をこえた事実上の商人の人生訓

 

税金対策

「信用され、嘘吐きと思われない程度の、真実に近い嘘」がよい。p201

 

孤児の教育の問題

読み書き算盤を習うだけでなく、古典の知識をも身につける必要がある。

そうすれば、好きな時にヴェルギリウス、ボエティウス、ダンテ、キケロ、アリストテレスなどと語り合い、教えを受けることが出来る。

この部分は、100年後の1513年に『君主論』執筆中のマキャヴェッリがフランチェスコ・ヴェットーリにあてて書いた有名な書簡を想起させる。

 

4 嫁資金額の高騰と「嫁資基金」

 

Ⅶ ある冒険商人の記録

ブオナッコルソ・ピッティの『クロニカ』

 

市民特に商人たちが自分自身および自分の「家」にとって最も重要な事項を書き留めた「覚書」

この種の覚書は、イタリアのどこの都市でも発展したわけでなく、その大部分がフィレンツェおよびその周辺都市に限られている。

また14世紀にダンテやボッカッチョのような俗語による文学作品が続々と生み出された都市も他に見出すことは出来ない。

 

1 都市貴族ピッティ

ブオナッコルソ・ピッティは商人としてよりもむしを職業的な賭博師として稼いでいた。

そしてブオナッコルソは「達意の筆を持つばくち打ち」であった。

 

2 賭博師ブオナッコルソ

商人たちにとっては、当時の投機的な遠隔地商業は賭博とあまり違わないものだったのかもしれない。

 

3 外交官から政治家へ

結婚により当時の有力者と姻戚関係を結ぶことができ、その後フィレンツェの政治社会で活動するための強固な基盤を築くことが出来た。

 

当時の外交は金銭的な交渉を伴うことが多かったので、練達の国際的商人が腕を振るう機会がしばしば生じた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真と地図でたどるパリ歴史散歩

2023-08-06 20:22:03 | パリの思い出

 

写真と地図でたどる

パリ歴史散歩

古さと新しさが交錯する街パリを発見する18の旅

PARIS PROMENADES

dans le centre historique

パスカル・ヴァレジカ 著

蔵持不三也 訳

ミュリエル・モンティニ 写真

 

パリ中心部、アンシャン・レジーム(旧体制)末期、いわゆる徴税総請負人の市壁内部の18通りの散策コースを紹介しています。

内容は高度でパリ上級者向けですが、写真が多いので、眺めているだけでも楽しめます。

あと各コースの小腹がすいた時の食事場所も紹介しています。

それにしても、様々な隠れた歴史が現代の街並みに残っているのには、さすがパリの街と感心させられます。

 

フォブール・サン=マルセル地区

当初は「死者たちの地」だった

 

フォブール・サン=ジャック地区からフォブール・サン=ヴィクトル地区へ

中世都市の古い東南端

ジャン=バティスト・カルボーの「世界の4地域の泉」

 

サン=メダール界隈から「大学」地区へ

中世的なセーヌ左岸の中心街

フワール通り

フワール(fouarre)とは、古フランス語で「麦藁」(feurre)、つまり学生たちが野外での講義を受講する際に履いた藁沓(わらぐつ)を意味する。

ダンテはその『神曲』の「天国編」でそれについて触れている。p51

 

サン=タンドレ=デ=ザール地区からサン=シュルピス地区へ

旧修道院領の緩やかな変貌

 

高貴なフォブール・サン=ジェルマン地区

18世紀の「トレンディな」界隈

ロダン美術館

 

「外国宣教会地区」

田舎風かつ文学的で、きわだってカトリック的な界隈

 

グロ=カイユ界隈

17世紀に生まれた村の存続

ジャン・ニコ(1530-1600)フランスにたばこを招来したとされる人物。ニコチンの語源

 

モンソー公園周辺

田舎の町の一部

 

旧ヴィル=レヴェック地区

司教の農場から栄光の聖堂まで

メトロ・マドレーヌ駅の2011年に閉鎖されたアール・ヌーヴォー調の見事な公衆トイレ

 

フォブール・ド・ラ・ヌーヴェル=フランス地区

失われた植民地とシュルレアリスム

 

フォブール・サン=マルタン地区

静かな運河の洪水とペスト禍

 

パレ=ロワイヤル地区からラ・ブールス地区へ

小路を通る時間の旅

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌが『ムッシュー・ニコラ』でパレ=ロワイヤルの魅惑について多くを語っている。p183

パレ=ロワイヤル庭園

夏冬を問わず静かで快適な場所で、素晴らしい光が差し込んでくる。p187

 

サンティエ地区とボン=ヌーヴェル丘

長きにわたるパリの周縁

 

サン=ジャックの塔からサン=マルタン界隈

イシス、錬金術師たち、シュルレアリストたち

イシスはエジプト神話の豊穣の女神

 

ロンバール(ロンバルディア)通りの呼称は、イタリア出身の商人や銀行家、両替商たちが中世にここに集団で住み着いたことに由来する。p217

 

モンソー・サン=ジェルヴェ地区とサン=ポール界隈

セーヌ右岸の原点へ

 

フォブール・サン=タントワヌ地区

大修道院から職人へ

 

ポパンクール地区

「ヴィル・ヌーヴ・ダングレーム」

バタクラン劇場

 

ルイイ周辺

ダゴベール、ラ・ファイエット、植民地博覧会

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンチアゴ巡礼の道4000km

2023-08-04 20:22:46 | ヨーロッパ旅行記

 

サンチアゴ巡礼の道 4000km

石田昇二 著

東京図書出版 発行

2017年12月24日 初版第1刷発行

 

サンチアゴ巡礼の道のうち、スペインとポルトガル国内の巡礼道の徒歩による踏破記です。

もともと海外登山の豊富な経験をお持ちの著者です。

 

巡礼の起点はヨーロッパ各地に見られ、遠くは北欧、東欧、イタリアをスタートしてフランスの代表的な四つのルートに合流する。

・アルル(サン・ジル)の道

・ル・ピュイの道

・ヴェズレーの道

・トゥール(パリ)の道

 

スペイン・ポルトガルを起点とする代表的なルート

・銀の道 ローマ遺跡

・北の道 素晴らしい海岸線

・ポルトガルの道

・サナブレスの道

・カタロニアの道

 

一般的に「サンチアゴ巡礼」イコール「フランス人の道」は80~90%の巡礼者が利用していると思われる。

 

1 銀の道

(2012年11月4日 セビージャ~11月22日 アルデアヌエバ・デル・カミーノ)

(2014年4月8日 アルデアヌエバ・デル・カミーノ~4月21日 アストルガ)

「銀の道」の名称は、紀元前にスペイン北部で採れた銀等の鉱物をローマに運ぶために造られた道、南部セビージャと北部ヒホンを結ぶローマ道から由来する。

 

サナブレス・モサラベの道

(2014年11月7日 グランハ・デ・モレルエラ~11月22日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

「サナブレスの道」は「モサラベの道」の別称であり、何ら異なる点はない。

 

途中で80歳の女性が自転車でドイツからサンチアゴに向かっていた、という話を聞く。p59

 

2 北の道

(2015年4月22日 イルン~5月11日 ヒホン)

(11月8日 ヒホン~11月24日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

サンチアゴが位置するガリシアの学校では、教育の一環としてポルトガル語と類似するガリシア語が取り入れられ、スペイン語と同様に公用語として利用されている。p75

 

到着したヘルニカ(ゲルニカ)の街はピカソの絵画で有名。ドイツ軍に空襲で破壊されて78年目、その時の模様を再現する記念行事が行われていた。p82

 

3 フランス人の道

アラゴンの道

(2013年5月10日 ソンポルト峠~5月16日 オバーノス)

 

ナバラのハビエル城でフランシスコ・ザビエルは城主であった父親の下生まれた。p129

 

フランス人の道

(2011年3月9日 サン・ジャン・ピエ・ド・ポー~3月20日 ブルゴス)

(2011年11月2日 ブルゴス~11月16日 サリア)

(2012年3月16日 サリア~3月20日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

3月11日、日本で大きな地震があったと知らされる。アルベルゲ(巡礼宿)にはテレビは無く、事情を説明してコンピュータの映像を見せてもらう。日本時間の深夜息子に電話。彼は電話が通じたことにびっくりしていた。p136

 

旅を続けて巡礼者との付き合いで感じるのは東洋系、有色人種、スペイン、イタリア人のラテン系が一つのグループを形成する。

そして白人系、フランス人(ラテン人なのになぜか)が別のグループを作る。

当初は主に英語、スペイン語、フランス語で会話が行われるためと思ったが、どうやらそれだけではないようだ。

暗黙のバリアーがあり仲間意識が出来上がっている。

世界は広いようで狭い気がした。p145

 

フィステーラへの道

(2012年3月21日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ~3月24日 フィステーラ)

地の果てフィステーラの岬へ

 

ムシーアへの道

(2012年3月25日 フィステーラ~3月26日 ムシーア)

もう一つの最果てムシーア

 

4 ポルトガルの道

(2016年3月15日 リスボン~4月1日 ポルト)

(11月16日 ポルト~11月28日 サンチアゴ・デ・コンポステーラ)

 

5 カタロニアの道

(2017年3月17日 モンセラト~4月1日 サンタ・シリア・デ・ハーカ)

今回の巡礼地の特徴は、殆どすべての村や町が城塞を伴っていることである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スラヴの十字路

2023-08-02 21:21:13 | ヨーロッパあれこれ

 

スラヴの十字路

嵐田浩吉 著

里文出版 発行

平成25年9月4日 発行

 

スラヴ民族について、コンパクトにわかりやすくまとめられています。

 

序章

スラヴ民族とスラヴ世界

ヨーロッパ最大の民族グループはゲルマン民族やラテン民族ではなくスラヴ民族である。

 

スラヴ民族を簡単に定義するなら、インド=ヨーロッパ語族のひとつであるスラヴ語派に属するスラヴ諸語を母語とする人々となる。

 

東スラヴ族

ロシア人、ウクライナ人など

西スラヴ族

ポーランド人、チェコ人など

南スラヴ族

ブルガリア人やセルビア人・クロアチア人といった旧ユーゴスラヴィアの人々

 

なぜ「スラヴ」民族というのか?

奴隷(英語でslave)に由来するのは間違い

栄光、誉れという意味も間違い

「言葉」に由来するという説と、川に名前に由来する説がある。

 

二つのキリスト教と二つの文化圏

西スラヴと南スラヴの一部(クロアチア、スロヴェニア)はカトリック

東スラヴとその他の南スラヴは東方正教会

 

東方正教会は教皇のような全体的な首長は存在せず、それぞれの教会が総主教の下に完全な独立と自治を有している。

 

カトリック圏にはゴシック様式のようないかにもカトリック教会らしきものが、

東方正教圏にはねぎ坊主といわれる円屋根を戴いた教会がある。プラハの聖ヴィート大聖堂とモスクワのクレムリン内の教会群のように

 

第1章 東スラヴの世界

ロシア人の民族性

ロシアは他の国と比べて、農作業のできる期間が圧倒的に短い

短期間の集中とその後の怠惰、こうした一年の生活サイクルがロシア人の性格に影響を及ぼし、彼らを極端から極端に走る民族へと作り上げた。p36

 

ユーラシア主義

ロシアはヨーロッパでもアジアでもない、「ユーラシア」という独自な世界である、と主張する思想潮流

 

ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベル

彼の兄たちがロシアを世界有数の産油国にした。

 

黒海沿岸に古代ギリシャの遺跡が数多く残っている。東スラヴ世界で古代ギリシャの遺跡が残るのはここだけ。特にクリミア半島は古代ギリシャとつながりが深かった。

 

第2章 西スラヴの世界

現在、中欧として必ず挙げられるのは、オーストリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、そしてポーランドの5か国

 

パン・スラヴ主義

スラヴ民族の連帯と統一を目指す運動。西スラヴと南スラヴの諸民族の民族的覚醒とともに19世紀初頭に生まれた。

 

ハンガリーは本来のヨーロッパ民族ではなく、東方からヨーロッパにやってきた異民族だった。

しかしフン族の子孫というのはまったくの俗説

 

東欧にはかつて世界で最も多くのユダヤ人が暮らしていた。東欧はユダヤ人のもう一つの「故郷」

 

第3章 南スラヴの世界

ブルガリアはヨーグルトだけではない。バラの国でもある。ダマスク・ローズというバラで、香水や化粧品などの原料となる。

 

エランというスキーメーカー

スロヴェニアが生み出した世界的ブランド

 

旧ユーゴ全域でムスリム人がボシュニャク人になったわけではない。

ボスニアと結びつきが強いこの名称を拒否しているムスリム人もいる

 

第4章 スラヴの芸術とスポーツ

2009年でゴーゴリ生誕200年

ロシア語作家といえ、ウクライナ出身であるゴーゴリについて、「ゴーゴリはウクライナの作家だ」という主張がウクライナから聞かれるようになった。

 

前衛(アヴァンギャルド)のロシア

世界初の社会主義革命を果たしたロシアは政治的前衛でもあったが、前衛の位置にとどまり続けなかった。

芸術面では20世紀初頭、あらゆる芸術の分野で革新を果たそうとした世界で最も稀なアヴァンギャルドの国だった。

 

シャガールの活躍とともに、そのベラルーシに属する出身地で「ヴィテプスク・ルネサンス」という芸術の時代が起る。

しかし1920年代前半に早くも終焉を迎える。

 

20世紀初頭、バレエの世界に革命を起こし、現在のバレエ芸術の礎を作ったのも、ロシア人が結成したバレエ団、セルゲイ・ディアギレフ率いる「バレエ・リュッス」なのである。

 

ソ連が生んだ名ゴールキーパー、ヤシン

彼の所属したチームがディナモ・モスクワだった。

内務省のクラブとしてディナモが、赤軍のクラブとしてCSKAだった。

ディナモ・キエヴやCSKAソフィアのように、他の社会主義国にも広まって、現在でも引き継がれている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする