聖書とは、数ある写本の中から、内容の規則性と対称性 (その内容的なまとまりをペリコペー・περικοπή・断片) に添って取り出され、配列されたものが聖書で、聖書の原本といったものは地上には存在しない。
ところが、その写本の中には、内容の正統性に問題がなく、複数の写本に含まれていながら、何故かオリジナルの写本の中には入っていないペリコペーが少数ながら存在する。
それがこの姦淫の女のエピソード (ヨハネ7:53~8:11〕。この箇所が[ ]でくくられているのはその為で、このペリコペーは、他の写本から後で追加された部分なのである。
この話は「長血の女」や「罪深い女」の癒しにもつながる、非常にルカ的なエピソードで、福音書に度々登場するオリーブ山、律法学者、また、罪に定める(訴える)、という言葉は、ヨハネの福音書ではこの箇所にしか登場しない。
こうした人間的な解釈においては、ルカにあってもおかしくないこの話しが、ヨハネに入れられた理由について考えてみる事は、この箇所を深く理解する上で非常に重要なポイントになる。(メッセージより抜粋)
ところが、その写本の中には、内容の正統性に問題がなく、複数の写本に含まれていながら、何故かオリジナルの写本の中には入っていないペリコペーが少数ながら存在する。
それがこの姦淫の女のエピソード (ヨハネ7:53~8:11〕。この箇所が[ ]でくくられているのはその為で、このペリコペーは、他の写本から後で追加された部分なのである。
この話は「長血の女」や「罪深い女」の癒しにもつながる、非常にルカ的なエピソードで、福音書に度々登場するオリーブ山、律法学者、また、罪に定める(訴える)、という言葉は、ヨハネの福音書ではこの箇所にしか登場しない。
こうした人間的な解釈においては、ルカにあってもおかしくないこの話しが、ヨハネに入れられた理由について考えてみる事は、この箇所を深く理解する上で非常に重要なポイントになる。(メッセージより抜粋)
実はアメリカ大統領選挙のことに関して、いろんな人達の話を聞いて絶望的になってました。光を失ってました。
この夕拝メッセージを聴いて、本質とは何か?について思い巡らしました。私たちはイエス様から逃げないで暮らしていける、いや、いくべき! だからちょうどいいタイミングでした。心(霊)が晴れ晴れしました。本当にありがとうございます。
アーメン!!
その前後から、このお話の深い意味と神様の深い愛、が更に理解できるメッセージでした。
ヨハネによる福音書の7章では、
「イエス様が救い主(=メシヤ)なのか?または、違うのか?」と言う論争があります。
その時、律法学者やパリサイ派と呼ばれる人々は、
イエス様は救い主ではない。
と言う結論に達し、イエス様を失墜させようと実行に移そうとします。
その手始めがこの姦淫の女性の話です。
神様であるイエス様は、人間の策略を全てお見通しで、それに対し、誰も責めることなく平和に解決へとお導きになられました。
そして、女性が犯してしまった罪に対しても、悔い改めへと導き、神様としてお赦しになられました。
イエス様の赦しの言葉は、「私もあなたを罪に定めない」というものです。
この言葉には、イエス様の十字架の贖いの故に女性の罪が帳消しされることを意味しています。
このお話の後に仮庵祭の最中で、イエス様は、自分自身を公に「わたしは『世の光』」と言われます。
イエス様だけが、私たちの罪のために十字架に架かってくださり、私たちの罪が贖われたのです。
私たちの人生は罪の故に真っ暗な闇ですが、世の闇の中に光となってくださったのがイエス様です。
このメッセージでもう一つ心に残ったことは、この女性がイエス様から逃げなかったことです。
自分の罪を彼女自身がいちばんわかっていたことでしょう。でも、彼女は自分の罪を正当化できないほど、追い詰められ、茫然としていたに違いありません。そんな彼女を助け、彼女がもう一度、人生をやり直すチャンスを与えてくださったのがイエス様です。
自分の力では、どうする事もできない状況に直面しても、神様を見上げ、祈り、信頼して、日々の生活をさせていただこうと思わされました。