わたしはあなた方の神になる為に、エジプトの国からあなた方を導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなた方も聖なる者となりなさい。(レビ記11:45)
アメリカの都会にあるマーケットや、商業用コンベンションには必ず、Kosherコーナーが設置されている。
ユダヤ人と言っても、信仰を持たない世俗派や、社会と妥協する改革派の人達も大勢いる。
しかし、そんな彼らでも、豚肉は食べない、肉と乳製品は一緒には取らない等は、自然な食習慣となっている。
イスラエルではチーズバーガーはご法度。肉料理と乳製品が同じ皿に盛られることも、同じ洗場で洗われる事も決してなく、
ステーキを食べた後には、食後のアイスクリームやコーヒーのミルクは絶対に出て来ない。
彼らが今でも、こうしたKosherを頑なに守っているのは何故か? そこには聖書的な意味はあるのか?
もし、イエスが現代のエルサレムに登場したとしたら、彼もチーズバーガーは食べないのだろうか?
次週はそんな話しをします
アメリカの都会にあるマーケットや、商業用コンベンションには必ず、Kosherコーナーが設置されている。
ユダヤ人と言っても、信仰を持たない世俗派や、社会と妥協する改革派の人達も大勢いる。
しかし、そんな彼らでも、豚肉は食べない、肉と乳製品は一緒には取らない等は、自然な食習慣となっている。
イスラエルではチーズバーガーはご法度。肉料理と乳製品が同じ皿に盛られることも、同じ洗場で洗われる事も決してなく、
ステーキを食べた後には、食後のアイスクリームやコーヒーのミルクは絶対に出て来ない。
彼らが今でも、こうしたKosherを頑なに守っているのは何故か? そこには聖書的な意味はあるのか?
もし、イエスが現代のエルサレムに登場したとしたら、彼もチーズバーガーは食べないのだろうか?
次週はそんな話しをします
①「食物規定は、聖なる(汚れていない)ものと、聖なるものでない(汚れている)ものとを分けることが原点」だと言うこと。
②「食物規定を守る事は全ての律法を網羅する」私たちには不合理に見える食物規定も、イスラエルの人々には、理に適っているのだと言うこと。そして、彼らが実践している食物規定は、実は深〜い根拠に基づいているのだと言うことを理解出来た時、イスラエルの人々は「すごいな~!!」と感心せずにはいられませんでした。
③また、食物規定の「反芻する」→神に向かって「上る」、「蹄が分かれている」→パンを「裂く」、「鱗と鰭がある」→鱗は汚水から体内を守り、鰭は逆流に向かって真っ直ぐに泳ぐ。と言う、クリスチャンにとっても大切な意味があることを知りました。
「出エジプト」は、神様がイスラエルの人々の神となってくださるために神様がなさった御業であること。そのことを今も覚えて実践している(形骸化はしてるものの..?!)イスラエルの人々をまた少し理解できたと同時に、イエス様がこの世に来てくださり、私たちの罪のために十字架に架かってくださった事は、正にクリスチャンにとって「出エジプト」に匹敵する大いなる御業である事を心に深く留めて、これからの人生を歩んでいこうと再び、固い決心に導かれました。
今日のメッセージは、多くの恵みをいただきましたが、特に心に残ったことは、2つ。
①「出エジプト」の目的は「神の民として、神の国を建て上げる」こと。この目的は、現代に生きる私たち、クリスチャンも同じです。だから決して、「チーズバーガーは、食べません!」と言うことではなく、イエス・キリスト以外のものを神として頼ることなく、食事をする度に「神様によって神の子(清い者)とされた者として、神様が用意してくださった物を感謝していただく」ことを心にいつも留めておくことができますように。
②神様の性質は「愛と義と調和」愛と義は、コインの表裏のようなものと表現されますが、調和があるから愛と義も共存できるのだな~。と、とっても腑に落ちたメッセージでした。
なので今晩の夕食は、チーズバーガーを作って家族で美味しくいただきました!
ちょうど少し前に Facebookの別投稿を見て、気になっていた部分がクリアにされた。ポイントは「反芻」と「蹄」と「鱗と鰭」。ただ読んでいるだけでは、確かに全然訳が分からない..。しかし、それを分からないまま通読を続けるのではなく、日々の礼拝・学びで求め、受け取り、積み重ねていく。そうして実践に移して行ってこそ、キリスト者として対応ができる。クリスチャンであることは「宗教」ではなく「生き方」であり「神様との生きた関係」である。「ただ聞いているだけなら、ウチの教会にいる必要はない!」と言う緊迫した時代に主が私に語られている事を、今回のメッセージを通して確認した。
聖別のポイントである「反芻」「蹄」「鱗と鰭」。それは、聖別された神の民である事、御国に向かう神の民としての生活が秘められている。これもまたミステリオン!! 律法は愛によって包括される。御言葉を反芻し、聖別された生活によって、御国への歩みを生きる!
「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。」
ただ守り、ただ従うだけでなく、それらを自分の糧としていただき、気前よく分ち合いながら生きる事によって、神の証人となる。実に奥深いポイントが数々あり、何度でも繰り返し聞きたいメッセージでした。感謝!!
私は久々にIN 'N OUTのチーズバーガーを感謝して、いただきました。
日本にはハンバーガーという食文化がない為、名古屋にまで出張しては色々と試してみたものの、バガーキング以外ほとんど的が外れている..。
もしJesusが現代に現れたとしたら、IN 'n OUT のダブルダブルにかじりつき「うまいじゃんこれ!!」と言うに決まっている。絶対に
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」今、これがやっとできつつある段階です。
さて、Kosherですが、インド人とパキスタン人の友達の話をこれまた思いながら聞いていました。メッセージのごとくで、方や豚を食べない方、牛を食べない方、二人の仲の良い友達の話です。食事に二人が一緒に行くレストランは厨房が二つあるところです。豚肉を切る包丁は牛肉には決して使わず、器もそれぞれの専用で混ぜては決して使用しないレストランです。日本では考えられない文化です。こんな世界もあるんだなーと感じ入りました。彼らは一途です。それ故、縛られています。
日本人から見れば不自由と思えますが、逆から日本を見ると節操がなく、物事の筋道が立たない考えきらない民族だと思われているのかも知れません。日本では、ただ一つの真理、ただ一つの神様を見ることを拒否している様に見えます。宇宙に真理がなければ、宇宙は成り立たないと言うことから目をそらして生きているようです。
「今は全てが許されている」(第一コリント10:23)されど、ですね。どの様に生きるかですね。主と共に生きれるかですね。
食物規定(鱗のあるもの、鰭のあるもの、ひずめの割れているもの)何か、体によさそうに思えます。祭司に言われたものだったのですね。何か、まだ大事な事が隠されているかもと思ってます。
第一コリント10:23〜11:1をとらえて、食べれるものは、主に感謝してこれからも食べていきます。「すべて神の栄光を現すために」ここをとらえて、歩みます。今、打ち当ってます。主がメッセージを下さると思います。
主を賛美します。
ペルガモ市より リトル・アンデレ